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”Dead Heat”が生んだパンサラッサ、もう1つのストーリー

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
ドバイターフ出走時のパンサラッサ。右が池田厩務員。鞍上は吉田豊騎手

矢作厩舎の生え抜き厩務員

 「2010年以来のドバイです」

 そう語ったのは池田康宏。1958年7月生まれだから現在63歳。矢作芳人厩舎のパンサラッサを担当するベテラン厩務員だ。

 中学を出てすぐ、厩務員だった父を追いかけるようにトレセンに入った。ナイスネイチャで知られる松永善晴厩舎で31年間。同調教師が引退するまで一筋に働いた。同厩舎が解散する際、入れ替わりに開業した河内洋厩舎と矢作芳人厩舎にスタッフが分散した。

 「当時、ヒミノハードという馬を担当していました。この馬のオーナーの希望で馬は矢作厩舎へ行く事になり、担当の私も必然的に矢作厩舎になりました」

矢作厩舎の生え抜き池田康宏厩務員
矢作厩舎の生え抜き池田康宏厩務員

GⅠレースは惜敗続き

 開業4年目に出合ったのがグロリアスノアだった。

 「デビュー前の調教に乗った小林慎一郎君(当時騎手、現・音無秀孝厩舎調教助手)が絶賛してくれました」

 デビュー戦を快勝。4戦目にはユニコーンS(GⅢ)で2着。古馬になった10年には根岸S(GⅢ)を勝つとフェブラリーS(GⅠ)で5着。勇躍ドバイへ飛び、ゴドルフィンマイル(GⅡ)に挑戦した。

2010年、ドバイでのグロリアスノアと右が池田
2010年、ドバイでのグロリアスノアと右が池田

 「自分が海外遠征に携われるとは思っていなかったのでグロリアスノアと矢作先生には感謝しかありませんでした」

 結果4着に善戦。帰国後は武蔵野S(GⅢ)を勝ち、ジャパンCダート(GⅠ、現チャンピオンズC)ではトランセンドのクビ差2着に健闘した。

 「ゴール前の脚色は優っていただけに悔しかったです」

10年ジャパンCダートではトランセンドを追い詰めるもクビ差届かず惜敗したグロリアスノア
10年ジャパンCダートではトランセンドを追い詰めるもクビ差届かず惜敗したグロリアスノア

 いずれGⅠに手が届くと思える内容だったと、自らを慰めた。しかし……。

 「その後、転厩で他の厩舎へ行く事になってしまいました。それで、矢作先生が私に対して申し訳ないと思ったのか、ディープインパクトの仔をやらせてくれる事になりました」

 タイセイドリームだった。

 入障すると新潟ジャンプS(J・GⅢ)を勝ち、中山グランドジャンプ(J・GⅠ)では4着に善戦するなど、活躍した。

 「ただ、550キロ前後の大型馬だったので、右前脚に屈腱炎を発症してしまいました。それで胸骨から髄液をとって培養液を脚に埋め込む幹細胞手術というのを行ないました」

 結果、1年2ケ月近い休みを挟んで18年に復帰。叩き3戦目となった新潟ジャンプSで2度目の重賞制覇を果たした。

 「これは嬉しかったです。その後の中山大障害(J・GⅠ)は、大本命のオジュウチョウサンが有馬記念へ行くため回避するという事だったので力が入りました」

 ところが結果は写真判定の末、ハナ差、ニホンピロバロンに負けてしまった。

 「ニホンピロバロンの厩務員は谷中康範君というのですが、彼とは小、中学校から競馬場入りまで同期で大の仲良しでした。前の晩も一緒に居酒屋へ行き『ワンツーになれば良いね』と話していました。負けたのは残念だったけど、親友の嬉しそうな姿を見て『いつか自分も勝つ』という気持ちが強くなりました」

中央黄色帽がタイセイドリーム
中央黄色帽がタイセイドリーム

吉田豊との相性

 そんな池田がパンサラッサの担当になったのは20年の秋からだった。

 「前任者や調教助手らが何人も振り落とされていたので、ヤンチャな馬という印象でした」

 池田が担当してからは善戦するものの勝てない競馬が続いた。そんな21年の春の事だった。マイラーズC(GⅡ)に出走を予定していたパンサラッサは、騎乗した坂井瑠星の判断で、取り消す事になった。

坂井瑠星騎手騎乗時のパンサラッサ(写真は20年弥生賞出走時)
坂井瑠星騎手騎乗時のパンサラッサ(写真は20年弥生賞出走時)

 「左前の骨瘤が少し腫れる事はあったけど、調教は動くし無理のない範囲で走れていました。でもこの時は『歩様が今一つ』と感じた瑠星の判断で取り消しました」

 すると……。

 「半年休ませて帰ってきたら歩様の固さがなくなっていました」

 こうして休み明け初戦となったのが昨年のオクトーバーSだった。レース前、矢作に言われてハッとした事があった。

21年オクトーバーSでのパンサラッサと吉田豊騎手。曳いているのは池田
21年オクトーバーSでのパンサラッサと吉田豊騎手。曳いているのは池田

 「『吉田豊とは相性が良いから楽しみだね』と言われました」

 08年、厩舎のタイセイアトムがガーネットS(GⅢ)に出走した際、競馬場まで帯同したのが池田だった。

 「本来の担当者が休みで、代打で連れて行ったら吉田豊君で勝ってくれました」

それ以来しばらく2人が組む事はなかったが、19年の福島テレビ杯に吉田を乗せて出走したリライアブルエースは池田の担当馬。11年ぶりにタッグを組むと先頭でゴール。これが厩舎のJRA通算600勝目となった。

 「矢作先生の言葉通り、オクトーバーSも勝つと、中山記念(GⅡ)も勝ち、吉田豊君と自分は4戦4勝になりました」

吉田豊を背に逃げ切った21年オクトーバーSでのパンサラッサ(内)
吉田豊を背に逃げ切った21年オクトーバーSでのパンサラッサ(内)

デッドヒートとDEAD HEAT

 抜群の相性ではあったが、続いて一緒に目指す頂は世界が舞台。ドバイターフ(GⅠ)となったため、当然、楽ではないと思った。

 「ところが不思議とドバイ行く前の検疫あたりから馬が凄く落ち着いていました。ドバイ入りしてからもまるで悪さをしない。先生が『ノンビリし過ぎているから最終追い切りは少し強めにやろう』と言うくらい、リラックスしていました」

 結果、その指揮官のさじ加減も的確だったのだろう。吉田を背にしたパンサラッサはメイダン競馬場の1800メートルを逃げ、粘りに粘った。

 「3頭横一線でゴールした時にはジャパンCダートやハナ負けした中山大障害を思い出し『自分は一生、GⅠを勝てないのかな……』と半ば諦めていました」

ドバイターフは内からパンサラッサ、ロードノース、ヴァンドギャルドが横一線になってゴールイン
ドバイターフは内からパンサラッサ、ロードノース、ヴァンドギャルドが横一線になってゴールイン

 長い写真判定の間、馬を曳いていると「デッドヒート!!」と声をかけられた。

 「『デッドヒート』『デッドヒート』って言われたけど、そんなのは分かっていたので、結局、勝ったのか負けたのか、どっちなんだ?!と思っていました」

 日本では接戦を意味する“デッドヒート”。しかし本来英語の“DEAD HEAT”の意味は“同着”である事を、そこで教えられた。つまりは“1着”。吉田との連勝は5に伸びた。

 「その瞬間はホッとした感じでした」

 嬉しい感情が湧いたのは、レース後に親友の谷中から真っ先にメッセージが入ってからだと言う。

 一方、矢作は当時を次のように述懐する。

 「長い写真判定になったため口取り写真を撮れませんでした。池田厩務員は定年を間近にしての初めてのGⅠ制覇だっただけに、晴れ姿を残してあげられなかったのだけが心残りです」

 これを伝えると、池田は言った。

 「口取り写真がなくても、同着でも1着は1着。それだけで充分です」

 ちなみに現在、池田はパンサラッサの他に、安田記念(GⅠ)を目指すホウオウアマゾンも担当している。定年は来年の7月。まだ1年と少しの猶予がある。厩舎に2人しかいない生え抜きが、改めてウィナーズピクチャーを撮れる日が来る事を願おう。

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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