引退馬にあわなかった理由

 今週末、ユニコーンS(GⅢ、3歳、東京競馬場、ダート1600メートル)が行われる。

 今から干支がひと回り以上前、2008年にこのレースを制したのがユビキタスだった。管理したのは美浦・鈴木伸尋調教師。10年後、同馬と再会するに至ったストーリーと、その後、現在に至るまでの活動をお伝えしよう。

鈴木伸尋調教師(コロナ禍前に撮影)
鈴木伸尋調教師(コロナ禍前に撮影)

 1959年10月生まれだから現在61歳の鈴木伸尋。静岡県で3人兄弟の長男として育った。

 「動物が好きだったので動物園の獣医になりたくて日本獣医畜産大学(現・日本獣医生命科学大学)に入学しました」

 ところがそこで馬術部に入部した事から、人生が大きく変わった。

 馬に魅せられて、卒業後はシンボリ牧場に就職した。84年の三冠馬シンボリルドルフがいた時代だった。牧場で出会った獣医師に調教師になる事を勧められた。そこでトレセン入りすると、3回目の受験で難関を突破。98年、厩舎を開業。03年にはチューニーがクイーンC(GⅢ)を優勝し、重賞初制覇を飾った。そして……。

 「08年のユニコーンSを勝ったユビキタスが開業後2頭目の重賞ウイナーでした」

ユビキタスがユニコーンSを勝った際、調教師が記念で作成したポロシャツには、筆者の描いたデザインがプリントされた
ユビキタスがユニコーンSを勝った際、調教師が記念で作成したポロシャツには、筆者の描いたデザインがプリントされた

 生後10日ほどで見て気に入り、オーナーに買ってもらった馬での重賞制覇は格別の喜びがあった。当然、ユビキタスは思い入れの深い馬となった。しかし、翌09年、同馬は地方に転厩すると、その後、再会する事はなかった。いや、あえて機会を作らなかった。その理由を、鈴木は次のように語った。

 「重賞ウイナーにはあって、未勝利馬にはあわないという分け方は出来ませんでした」

 調教師として何百頭もの馬と別れを告げてきた。その全てと再会するのは物理的に不可能。ならば、どの馬にも等しくあわないようにしたのだ。

現役時代のユビキタス
現役時代のユビキタス

ユビキタスとの再会

 そんな鈴木にターニングポイントが訪れた。話は2014年まで遡る。

 「その頃、JRA主導で『引退競走馬に関する準備委員会』が立ち上げられました」

 文字通り、競走馬の引退後の道を考える会だった。

 「自分自身、以前から何か出来ないか?と考えていたので、すぐ活動に加わらせてもらいました」

 JRAは勿論、農林水産省や日本軽種馬協会、日本馬主協会連合会に地方競馬全国協会や騎手クラブらの代表が定期的に集まり、意見を交換するこの委員会に、JRAの調教師代表として出席を重ねた。

 「JRAを抹消になった馬のセカンドキャリア、また、地方での競走馬や乗馬といったセカンドキャリアを終えた後のサードキャリアまで、1頭でも多くの馬の命を救えるように皆で、考えています」

 そんな18年の事だった。あるテレビ番組の企画で「再会したい人や動物はいませんか?」と問われた鈴木は、ユビキタスの名を挙げた。

 「引退馬に対し優劣をつけたくなかったので、以前ならお断りした企画でした。でも、引退馬支援を考える立場になり、改めて自らがかかわった馬がどこで何をしているのか、きちんと知っておくのは義務だと考えるようになりました」

 番組スタッフが調べてくれた結果、かつて育てた馬が福島で元気に過ごしている事が分かった。そこで現地へ行った。

 「ユビキタスが私の事を認識しているのかは分かりませんでした。でも、久しぶりに跨ると、背中の動きに『あれ?こいつ覚えていてくれたのでは?』と感じました」

牧場で再会したユビキタス(18年撮影)
牧場で再会したユビキタス(18年撮影)

セカンド、サードキャリアを考える

 再び話は10年まで遡る。この年、鈴木が管理するニシノブルームーンは中山牝馬S(GⅢ)を優勝した。その後、同馬は西山茂行オーナーの西山牧場で繁殖牝馬としてのセカンドキャリアを始めた。

 「ただ、お母さんみたいに走る産駒は出て来ないし、そろそろ繁殖の引退後も考えなくてはいけない年齢になってきました。その時、もし自分で何か力になれるのであれば、何とかしてあげたいと考えています」

10年、中山牝馬Sを勝った際のニシノブルームーン
10年、中山牝馬Sを勝った際のニシノブルームーン

 また、現役馬では7月18日の函館記念(GⅢ)を目指すウインイクシード(牡7歳)などもセカンドキャリアを考える時期に差し掛かっている。

 「あと少しのところで重賞に手が届かないけど、おそらく今年が最後の年になりそうなので、何とか勝たせてあげたいです。種牡馬は難しいかもしれないので、その後のキャリアを考えてあげなくては、と思っています」

 こう言った後、改めて続けた。

 「そういった事を考えなくてはいけないのは未勝利の馬も同じで、かかわっている全ての馬に対してやらなければいけないんです」

函館記念を目指すウインイクシード(右)は7歳馬。そろそろセカンドキャリアを考える時期だ。写真は2着だった20年の中山金杯
函館記念を目指すウインイクシード(右)は7歳馬。そろそろセカンドキャリアを考える時期だ。写真は2着だった20年の中山金杯

現在の活動

 馬の支援はお金もかかるし、場所も必要で、小動物を飼うのとは違う。現実問題として、現時点では限界があるのも事実だろう。しかし、鈴木が諦めずに考え続けるのは、ユビキタスとの再会もひきがねになっていた。

 「ユビキタスと再会した際、彼が引退後、どうしていたのかを聞きました。すると、福島にいる時、東日本大震災で被災した事が分かりました。その後、茨城の牧場に避難し、落ち着いた後、改めて福島に戻ったというのです。ユビキタス自身もかわいそうだと思ったけど、それに合わせてかかわっている人達の苦労も分かりました。彼等は『馬がかわいそう』という一心で、お金や時間、労力をいとわず行動し、助けてくれていたのです」

 そして、それは当然、ユビキタスだけに限った話ではなかった。再び言う。

 「馬のために365日、休みなく働いてくれている人達が沢山いるのに、馬に大きな恩恵を受けている競馬サークルの私達が何もしないのはおかしいだろうと痛感しました」

 そこで先述した『引退競走馬に関する準備委員会』とは別に自らも支援団体を立ち上げた。

 「民間では限度があるのは事実ですが、何かしなくてはいられなくなりました。そこで意を同じくする大竹(正博調教師)君や斎藤(誠調教師)君と共に“ウェルフェア専門委員会”というのを作り、各地で講義や講演をして引退馬の啓もう活動を行っています」

 また、乗用馬や神事を司る馬へのリトレーニング、余生を過ごせる養老牧場の紹介や援助など、「今後も出来る限りの活動をしていく」と語る。

 ユニコーンSの名を聞き、ユビキタスを思い出した。そして、そこから鈴木の行動が思い起こされた。彼の活動が更に広まり、いずれ全ての競走馬が天寿を全うするまで余生を過ごせるシステムが構築出来る事を願いたい。

鈴木調教師とユビキタス(18年撮影)
鈴木調教師とユビキタス(18年撮影)

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)