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近しい男の死が角居勝彦の人生を変えた。勇退を決めた伯楽の競馬人生を改めて振り返る

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
6月24日に行われた宝塚記念のパドックで愛馬キセキに視線を送る角居勝彦(中央)。

高校を出た後、競馬の世界へ

 角居勝彦は1964年3月28日、石川県金沢市で生まれた。父・実敏、母・繁子の下、男ばかり4人兄弟の三男として育てられた。

 高校卒業後「特殊な技術を身につけたい」という思いから、選んだ就職先がグランド牧場だった。

 馬に触れたことどころか、競馬すら知らずに渡った北海道はまだティーンエイジャーの角居にとってどんな世界だったのか……。

 「ヤバい所に来ちゃったと思いました。朝は早いし、馬は大きくて臭い。北海道弁も理解出来なかったし、仕事はハードで辞める人も多かったので、帰りたいと考えた事もありました」

 しかし、自身にとってこれが初めての就職だったことが奏功する。仕事をするということはこういうものだと思ったため、帰郷することはなかったのだ。

 馬にはすぐに跨った。いや、股がされた。当然、何度も落とされた。それでも負けず魂に火を点し、乗り続けると少しずつ上達していった。

 そんなある日、こんな事があった。

 グランド牧場の当時の社長の子息に現在調教師となった伊藤圭三がいた。角居が働いていた時、大学生だった伊藤が牧場に乗りに来たことがあった。

 「自分が乗って『歩様が悪い』と感じた馬が、伊藤先生が乗るとスイスイと動きました。技術力の差を思い知らされました」

 また、テレビで見た一つの光景にも目を奪われた。

 「ジャパンCに出走した外国馬を、ハイヒールを履いた女の人が曳いていました。どうしたらそんな大人しい馬を作れるのかと疑問に思いました」

 自らの技術の向上と、馬作りに対する探究心を満たすため、選んだ先がJRAだった。

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角居の考えを改めさせた従兄弟の死

 1986年に競馬学校を経て、栗東・中尾謙太郎厩舎で働き出した。

 そんな持ち乗り調教助手時代、1頭の馬と出会った。

 ナリタハヤブサだ。

 同馬は90年代初頭にフェブラリーSを勝つなど、ダートの重賞戦線で大活躍をした。

 「今、思い起こすとこれで調子に乗ってしまいました」

 結局走るのは馬。だから、心血を注いで一所懸命に働かなくても“だいたいの感じ”でやっていれば生活をするのに苦労はしない。そう考えてしまったのだ。

 そんな怠惰な生き方を続けていた角居に、大きな転轍機が待っていた。当時まだ三十代前半だった角居はその報に耳を疑った。

 「同い年の従兄弟が亡くなってしまいました」

 人生なんていつ何が起きるか分からない。1日1日を一所懸命に過ごさなくてはいけないと考えを改めた。

 「このままでは駄目だと思い、まずは環境を変えることにしました」

 1997年1月から、松田国英厩舎へ移った。若いスタッフの多かったこの厩舎では、率先して皆を引っ張った。プリントを配布し、勉強会を開き、扶助操作を始めとした人と馬との約束事をスタッフ間に浸透させた。

 馬ばかりでなく人をも育てようとするその姿を見ていた松田から調教師試験を受けるよう勧められた。関係者に血縁がいるわけでもないし、大学を出て何か資格を持っているというわけでもない角居は、最初それを拒んだが、それでも執拗に勧められ、ついに折れた。すると……。

 「最初の受験で一次は突破できました。これなら、と続けて受けると3回目で合格出来ました」

開業後の2005年、アメリカンオークスを制した時の写真。手綱をとった福永祐一とがっちり握手をかわす若き日の角居勝彦。
開業後の2005年、アメリカンオークスを制した時の写真。手綱をとった福永祐一とがっちり握手をかわす若き日の角居勝彦。

世界中で成し遂げた数々の偉業

 調教師として開業する1年前は、慣例として技術調教師という役職が与えられる。その間は、厩舎や牧場、外の世界に目を向けるなど、比較的自由に時間を使う事が出来る。

 2000年に技術調教師となった角居は森秀行厩舎の英仏遠征に帯同させてもらうと、ニューマーケットでは現地で開業する厩舎でも働いた。

 帰国後にはその足でリーディングトレーナー藤沢和雄の門を叩いた。若い時にはニューマーケットで4年間も暮らした藤沢。『外国馬は何故ハイヒールを履いた女の子でも曳けるのか?』という疑問を持っていた角居にとっては得るモノが多くあった。

 01年に開業すると『世界を目指せる馬と人を作る』と誓い、邁進した。

 結果、05年にはシーザリオでアメリカンオークスを優勝し、日本馬として初めて北米でのG1制覇。翌06年にはデルタブルースで南半球最大のレースと言われるオーストラリアのメルボルンC、更に日本列島が大震災により打ちひしがれていた11年3月にはヴィクトワールピサでドバイワールドCを制覇。香港でも05年にハットトリックで香港マイル、12年にはルーラーシップでクイーンエリザベス2世盃を優勝するなど、まさに世界狭しと活躍。あちこちの国で、日本馬初、初の日本馬という記録を打ち立てて見せた。

06年、メルボルンC優勝時は、多くの地元メディアにも囲まれた。
06年、メルボルンC優勝時は、多くの地元メディアにも囲まれた。

 もちろん日本国内での活躍も枚挙に暇がない。最多勝利、最多賞金獲得、優秀技術調教師賞など、数々のJRA賞を獲得。また、牝馬ウオッカによる日本ダービー制覇など、角居がいなければ成されなかったであろう偉業も数多い。その勢いは未だ止まるところを知らず、昨年はキセキで菊花賞を優勝。今年も6月24日現在で31勝を挙げ、全国リーディング2位を走っている。

 そんな角居だが、家庭の事情で2021年には競馬界を去る。定年までの日を残し、偉大な伯楽が厩舎をたたむのは、返す返す残念でならない。残りわずかな期間で彼が何を残してくれるかは分からない。ただ、一つはっきり分かっているのは、彼がいなくなった後、喪失感だけは残るということだろう。

震災で日本列島が打ちひしがれた11年3月、ドバイワールドCを優勝し、中東から勇気をと届けてくれたヴィクトワールピサ陣営。中央グレーのスーツが角居。
震災で日本列島が打ちひしがれた11年3月、ドバイワールドCを優勝し、中東から勇気をと届けてくれたヴィクトワールピサ陣営。中央グレーのスーツが角居。

(文中敬称略、写真提供=平松さとし)

※なお、この角居調教師のトークライヴが7月2日、新宿のロフトプラスワンで開催されます。残席は僅か。チケットはローソンチケットLコード31481にて絶賛発売中です。

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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