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新年早々、競馬界に衝撃が走った。厩舎を解散する伯楽・角居勝彦が語った理由と、そんな彼に贈る言葉

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
牝馬ながらダービーを優勝したウオッカと同馬を管理した調教師の角居勝彦

競馬界を衝撃が襲った”伯楽、突然の廃業宣言”

 「下手なことはできないなって思ったよね」

 そう言ったのは藤沢和雄。

 2000年、角居勝彦(当時、技術調教師)が厩舎に研修しにきた時のエピソードを伺うと、そう答え、さらに続けた。

 「とにかく真面目な人間だと感じたからね。開業後、彼を慕って多くの人が彼の厩舎で研修したみたいだけど、それは実績だけでなく、普段の仕事に対する姿勢をみられていたからだろうね」

 伯楽をしてそう言わせた角居だが、21年2月をもって調教師免許を返上することが判明した。

 1964年3月生まれで現在まだ53歳。定年の70歳までにはまだまだあるにも関わらず、早々と厩舎をたたむことを決断した彼の、競馬界に残してきた実績を振り返りつつ、残された時間に期待すること、直接伺ったその後の予定などを記していきたい。

角居が技術調教師時代に研修に出向いた藤沢和雄調教師(左)とのツーショット。2018年撮影。
角居が技術調教師時代に研修に出向いた藤沢和雄調教師(左)とのツーショット。2018年撮影。

海外を視野に入れ、打ち立てた数々の金字塔

 11~13年まで3年連続でJRA賞最多勝利調教師を獲得した角居。当然、ビッグレースでの実績も枚挙にいとまがなく、JRA、地方、海外でのG1勝利は18年初頭の段階で35にも及ぶ。

 とくに海外での実績はすさまじい。2000年に調教師免許を取得、01年に開業すると「世界に通用する馬作りとホースマン作り」を自身の目標として掲げ、早くから海外を視野に入れた厩舎作りをしてきただけあって、日本人調教師初、日本人調教師唯一という記録を幾度となく打ち立てた。

 05年にはシーザリオでアメリカへ遠征。アメリカンオークスに挑戦し、圧勝した。

 この時は、初めてとなるハリウッドパーク競馬場への遠征ということで、前年、同競馬場へ遠征した藤沢和雄厩舎のスタッフから情報を収集。「洗い場は馬を張れる作りになっていないため誰か1人が馬を持っていないと馬体を洗えない」ことが分かると、出国前の栗東にいる時からそのスタイルで洗うようにした。

2005年、アメリカで行われたアメリカンオークスをシーザリオで優勝。鞍上は福永祐一騎手。左端が角居。
2005年、アメリカで行われたアメリカンオークスをシーザリオで優勝。鞍上は福永祐一騎手。左端が角居。

 翌06年にはオーストラリアへ2頭を連れて行った。南半球最大のレースであるメルボルンCにデルタブルースとポップロックを出走させると、なんと1、2フィニッシュ。

 当時、検疫厩舎のあったサンダウン競馬場に2頭の調教を見学しに行くと、驚きの光景を目のあたりにした。厩舎から出され、馬場入りした2頭は180度別の方向へ歩き出した。そして、最後まで馬場で顔を合わせることなく、別々のメニューで調教を終えた。それどころか、中間はデルタブルースだけをレースの行われるフレミントン競馬場へ連れて行って追い切り、ポップロックはそのままサンダウン競馬場で追い切った日もあった。

 「デルタは少し気を乗せたかったし、ポップは逆に落ち着いて欲しかった」

 その理由をそう語ったが、わざわざ2頭を連れて行きながら別メニューで仕上げるという柔軟な姿勢には舌を巻いたものだ。

2006年、メルボルンC優勝の翌朝、勝ったデルタブルースと。手には偉業を称える地元の新聞が。
2006年、メルボルンC優勝の翌朝、勝ったデルタブルースと。手には偉業を称える地元の新聞が。

 ドバイワールドCを制したヴィクトワールピサの遠征にも感服させられた。現在、そして開設当初はダートで行われていた同レースだが、2010年から5年間はタペタ社製のオールウェザー馬場で施行されていた。

 この5年間の勝ち馬は結果的に芝のビッグレースで好走している馬ばかり。しかし、先述した通り以前はダートで行われていたレースだったせいか、日本からここに挑戦する馬はほとんどがダート馬だった。

 そんな中、角居は芝のG1ホースを送り込む。ドバイのオールウェザー元年にウオッカを現地へ連れて行った角居は、その際、馬場をチェック。結果、翌年ヴィクトワールピサをドバイワールドCへ挑ませ優勝した。オールウェザー2年目だったにも関わらず馬場の性質を把握していたかのような采配は偶然ではなかったのだ。

2010年、ウオッカでドバイへ行った際にタペタの馬場をチェック。「これなら芝馬が走れるはず」と翌年、ヴィクトワールピサをドバイワールドCへ挑ませ、見事に優勝してみせた。
2010年、ウオッカでドバイへ行った際にタペタの馬場をチェック。「これなら芝馬が走れるはず」と翌年、ヴィクトワールピサをドバイワールドCへ挑ませ、見事に優勝してみせた。

ウオッカで近代競馬では初といって良い牝馬によるダービー制覇を達成

 そのウオッカも角居を語る上で忘れてはいけない馬だ。

 08年の天皇賞(秋)を武豊とのコンビで勝った同馬は、前年の07年、日本ダービーを制している。それはご存知のように牝馬としては実に64年ぶりの偉業達成。というか半世紀以上前の競馬が現在とあまりにかけ離れたものであることを考慮すると、“近代競馬史上初の牝馬によるダービー制覇”と言う方が正しいだろう。

 絶対不利と思われていた牝馬によるダービー制覇を成し遂げたことだけでも充分、凄いが、とくに驚かされたのは桜花賞を負けた後に挑戦させた事実。牝馬同士の頂点に立ってから挑むならまだ分かる。負けたのに敢えて矛先をダービーへ向けたことは正直「無謀なのでは?」と思えた。ところが終わってみれば無謀どころか無茶でさえなかったのだ。

 当時、同馬のオーナーである谷水雄三氏に聞いた話では、ダービー挑戦の決断をくだしたのは角居とのことだった。改めて日本の競馬史を作った1人であると思い知らされたものだ。

2009年、ドバイへ遠征したウオッカを見つめる角居。背中は騎手の武豊。
2009年、ドバイへ遠征したウオッカを見つめる角居。背中は騎手の武豊。

調教師を辞める苦しい胸の内を自ら語る

 角居が今回、厩舎解散の決断をくだしたのは実家の問題から。代々、天理教を信仰している家系で、祖母は教会を建立したほど。しかし……。

 「両親共に倒れてしまったため、教会を人任せにしなくてはいけなくなりました。その任せている人というのも、私が幼少時からいる方なのですでに高齢です。自分も調教師をしながら月に2回は帰郷して教会へ行っていたのですが、それだけではいけないな、と思い、今回の決断に至りました」

 責任感も人一倍強い伯楽だけに、心を痛める結論しか導くことができない実家と厩舎との二者択一には、相当、悩んだことだろう。

 「引退馬の支援に関しては家業に差し障りがなければ続けて行きたいです。

 厩舎も今すぐ解散ではありません。まだ3年あるので馬作り、人作りは最後まで精一杯やります」

最後は笑みを見せつつ「引退まで3年あります」と語った角居。しかし、個人的には「3年ある」ではなく「3年しかない」と思えてしまう。
最後は笑みを見せつつ「引退まで3年あります」と語った角居。しかし、個人的には「3年ある」ではなく「3年しかない」と思えてしまう。

去る決断をした伯楽に、あえて言いたい言葉

 私が角居と初めて顔を合わせたのは20年近く前のイギリス・ニューマーケット。街中で偶然、出会った際、こんな場所にいる日本人は馬関係者に違いないと思って声をかけた。角居は当時まだ調教師になる前だったが、開業後のグローバルな活躍をみれば、初対面が海の向こうだったのも必然だったのかもしれない。

 そんな出会いから後、数々の感動する場面に出くわしてもらい、沢山の勉強をさせていただいた。それだけにあと3年で関われなくなるのは残念でならない。今回の件を耳にした多くの関係者が異口同音に「残念だけど、角居調教師の人生だから仕方ない」と語っていた。勿論、その通りだ。その通りであるが、個人的には第二のウオッカがみたいし、第二のデルタブルースやヴィクトワールピサ、シーザリオらをみてみたい。だから、あえて言わせていただきたい。

 “日本の競馬界の発展のため、辞めないで欲しい”と。

2011年、角居はヴィクトワールピサをドバイワールドCへ挑ませ優勝。東日本大震災に沈む日本列島に勇気を届けた。角居には第二のヴィクトワールピサやウオッカを育てていただきたい。
2011年、角居はヴィクトワールピサをドバイワールドCへ挑ませ優勝。東日本大震災に沈む日本列島に勇気を届けた。角居には第二のヴィクトワールピサやウオッカを育てていただきたい。

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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