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藤田伸二騎手復帰の真相

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
現在は札幌でバーFavoriを経営する藤田伸二元騎手

本当にあるのか藤田伸二の現役復帰?!

去る3月14日、新聞紙上で“藤田伸二、現役復帰!!”という活字が躍った。

そのニュースが流れる約8カ月前、昨年の夏に私は本人からその話を聞いていた。今回、公になったことで、改めて本人に事の真相を伺った。藤田伸二という男を振り返りつつ、本人の弁を交えてその“真相”を記していこう。

2005年にはアイポッパーでオーストラリアのG1コーフィールドCで2着に好走
2005年にはアイポッパーでオーストラリアのG1コーフィールドCで2着に好走

ビッグレースに強かった藤田伸二

藤田伸二が生まれたのは1972年2月27日。現在45歳ということだ。

1991年から2015年の現役騎手時代、大レースを勝ちまくったことは今さら記すまでもないだろう。デビュー年から重賞を勝ち、2年目には初G1制覇。6年目の96年には24歳という若さで日本ダービーに優勝(フサイチコンコルド)してみせた。

その活躍は国内のみにとどまらなかった。海外は勝ち鞍こそなかったが、05年にはアイポッパーでオーストラリアのコーフィールドC(G1)を2着、ジャパンCダート(当時、現在のチャンピオンズC)連覇などを達成したトランセンドでは11年のドバイワールドカップを好騎乗でこれまた2着。同11年に春の天皇賞を制したヒルノダムールでは凱旋門賞にも挑戦(同11年、10着)。世界でも数少ない『同一年にドバイワールドカップと凱旋門賞という世界のビッグレースに騎乗したジョッキー』となってみせたのだ。

2011年ドバイワールドCではヴィクワールピサ(手前)と叩き合って僅差2着
2011年ドバイワールドCではヴィクワールピサ(手前)と叩き合って僅差2着

数字も残す中で際立ったフェアプレー精神

彼の名が世間に知れ渡ったのは、そういったビッグレースでの活躍ばかりではなかった。大舞台に強いだけではなく、しっかりと数字も残せるジョッキーだったのだ。

02年からの6年連続を含み、年間100勝以上を記録することは実に7回。当時は武豊の全盛期ということもあり、リーディングジョッキーにこそなれなかったが、史上最速や最多という数々の部門で「武豊に次ぐ」記録を作った。

そして、彼の優秀さを示す記録として、フェアプレー賞の多さがあった。年間30勝以上し、かつ制裁点が10点以下という騎手に与えられるフェアプレー賞を藤田はデビュー2年目に初めて獲得すると、94年まで4年連続で同賞を受賞。さらに97年からの9年連続など計16回受賞するのだが、とくに04年と10年には制裁点0点という“特別模範騎手賞”(勝利数、獲得賞金、勝率のいずれかで5位以内に入った上での制裁点0点)をも獲得した。当時、同賞を獲得したのは柴田政人と河内洋(共に現調教師)の2名のみ。2度獲得したのは藤田が史上初めてだった。

「騎手は命を懸けて乗っている。まずは危険でないように、綺麗に乗ることを第一に心掛けなくてはダメ」

藤田はよくそう口にしていた。特別模範騎手賞に関しては武豊をして感心するセリフを往々にして口にしていたものだ。

歯に衣着せぬ発言で絶大な支持を得る!!

さて、そんな藤田伸二の大きな特徴がもう1つある。現役騎手時代から歯に衣着せぬ発言で、度々周囲を驚かせてきたことだ。

その牙は時にマスコミに、また、時に同業者である騎手にも向けられた。実名で「あいつは下手クソ」などといったキツい言葉で他騎手を批判することもあった。

そんな発言をしても彼が多くの支持を受けていたのはその攻撃の矛先がいわゆる強い立場へも向けられたからだろう。調教師や馬主、またJRAに対してもよくかみついた。日本ダービー当日の昼休みにはダービー騎乗騎手をウイナーズサークルで紹介するイベントがあるが、藤田は「集中したいのに都合の良い時だけJRAに使われる」とそれをボイコットしたこともあった。

このようなタカ派ともとれる態度をとるから当然、敵も多かった。

しかし、周囲の目を気にするばかり、優等生発言が多くなりがちな騎手の中に於いて、彼の我が道を行く姿勢は多くのファンに愛された。競馬場での声援も多かったし、外で行なうイベントもいつも大盛況。ヒルノダムールで凱旋門賞に挑戦した際は、現地フランスで行なった決起集会に日本から多くのファンが駆け付けて出席するほどだった。

同じく11年、凱旋門賞に挑戦した際、現地でヒルノダムールの昆貢調教師と
同じく11年、凱旋門賞に挑戦した際、現地でヒルノダムールの昆貢調教師と

藤田が語る現役復帰の真相

そんな彼が突然、騎手を引退したのが15年の9月初旬。この時も私は事前に引退する意思が固まっていることを本人から聞いていた。

当時、「前々から発表すると引退式だなんだで面倒くさいことになるから、レースを終えたら引退届を出してとっとと辞める」と語っており、実際にそれを実行。9月6日、第7レースのイキオイでの騎乗を終えると、引退届を提出。唖然とする周囲の目をしり目にとっとと競馬場を引き上げた。

2015年、札幌競馬場でイキオイに騎乗した後、突然、引退届を提出した
2015年、札幌競馬場でイキオイに騎乗した後、突然、引退届を提出した

現在は札幌市内でバー「Favori」を実質的に経営しながら地元誌やラジオ、ネットなどで情報を発信している。現在発売中の月刊誌「サラブレ」ではこれも元G1騎手の佐藤哲三と対談し、今春のG1を振り返っている。進行役兼構成を私がやらせていただいたのだが、その際、冒頭で記した「藤田伸二現役復帰」の真相を伺ってみた。

現在発売中の月刊サレブレでは同じく元G1騎手の佐藤哲三氏と対談を披露
現在発売中の月刊サレブレでは同じく元G1騎手の佐藤哲三氏と対談を披露

私がその話題を本人の口から耳にした後、すでに1年が経過している。果たして、本人の本気度はどのくらいなのだろうか?

「本気で考えていますよ。9月にはホッカイドウ競馬の騎手試験を受けるつもりです」

自ら鞭を置いたにも関わらず、再びこの世界に戻ろうと決心したのは、やはり未練があったということか?

「いや、俺自身の気持ちがどうこうじゃないんです。現役時代、俺の紹介で馬主になった人が何人かいたんですよ。でも、その人達が正式に馬主免許を取得した時、俺はすでに辞めちゃっていた。だから彼等から『伸二を乗せるつもりだったのにそれはないんじゃないか?!』って言われたんです。まぁ、自分としてもお世話になっている人達だったので、『じゃ、復帰して乗ろうかな……』と。

それともう1つは復帰を望んでくれるファンの声が多く届いたこと。その2つが大きな要因ですね」

もっともJRAでの復帰は現実問題として難しいとみて、現在、暮らしている札幌から遠くはない門別競馬での復帰を考えたのだと言う。

「辞めた後もずっとジムで体は鍛えているし、騎手試験を受けるならと、最近は馬にも乗り出しました。乗り始めた頃はさすがに筋肉痛になったけど、体が覚えていたから乗ること自体は問題なくできましたよ。もちろん試験勉強もしています。あとは門別側が受け入れてくれるかどうか?」

そう言うと、最後に確認をとるように、力強く言った。

「俺は本気ですよ!!」

(文中敬称略、撮影=平松さとし)

ファンの多い騎手だっただけに復帰となればまた大きな話題となるだろう
ファンの多い騎手だっただけに復帰となればまた大きな話題となるだろう
ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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