宝塚記念を制したミルコ・デムーロ騎手のひとつの想い

サトノクラウンで宝塚記念を優勝し、ガッツポーズをするミルコ・デムーロ騎手

ミルコ・デムーロ、好騎乗で宝塚記念を優勝

今春、最後のG1レース・宝塚記念を制したのはサトノクラウン。騎乗したのはミルコ・デムーロ騎手だった。

6月25日、阪神競馬場で行なわれた宝塚記念。大阪杯、春の天皇賞とG1を連勝中のキタサンブラックが単勝1・4倍の圧倒的1番人気に支持された。午前中は雨が降って馬場状態は稍重。午後に雨は上がったものの陽が出ることはなく、ゴール板を彩る無数の華の鮮やかさとは対照的な曇天の下、芝2200メートル戦のスタートは切られた。

主導権を握るかと思われたキタサンブラックだが、手綱をとった武豊はハナへ行こうとせず、控える策を選択した。

押し出されるように先頭に立ったのはシュヴァルグラン。2番手にC・ルメールのシャケトラが続き、キタサンブラックは3番手。中団6、7番手でミルコのサトノクラウンと横山典弘のゴールドアクターが続いた。

レースが動いたのは向こう正面。外からスーッとミルコ=サトノクラウンが動いたことで先行集団が凝縮。押されるようになったキタサンブラックは早くも前の2頭に並びに行く形となった。

そのまま前を捉えに行くのかと思えたサトノクラウンだが、3コーナーでは再び6番手に下がる。結果的にキタサンブラックが9着に沈んだことで「ミルコがプレッシャーをかけていったのが奏功した」と言う人もいたが、イタリア人ジョッキーはかぶりを振って言う。

「決してプレッシャーをかけにいったわけではありません。ペースが遅かったから少し番手を上げて行っただけです」

この言葉に偽りはないだろう。道中のラップをみてみるとミルコが動く直前は1ハロン13秒台だったが、動いたことで12秒台→11秒台とペースアップした。つまりミルコとしては単純に「遅いペースのままだと前が有利」と考え、上がって行ったのであり、ペースが上がったことで再び控えたのだ。そして、その策は見事に当たり、末脚を炸裂。2着ゴールドアクターに4分の3馬身差をつけ先頭でゴールに飛び込んでみせたのである。

宝塚記念のゴール前。抜け出したサトノクラウンとミルコ
宝塚記念のゴール前。抜け出したサトノクラウンとミルコ

ドバイも制したその腕前

さて、このように記すとまるで3手詰めくらいの簡単な詰め将棋のようにレースを運んだみたいだが、実際、生き物である馬をコントロールするのは口で言うほど容易いものではない。毎回、行こうとすれば行けて止まろうとすれば止まれる。そんな単純なものではないのだ。

しかし、ミルコはいとも簡単に馬を操ってみせる。思えば2011年にドバイでドバイワールドカップを制した時もそうだった。彼の乗ったヴィクトワールピサはスタートが今一つ。後方からの競馬になった。しかし、ペースが遅いとみるや彼は同馬を一気に先頭集団まで進出させた。それでも決してそのまま突っ走ることはなく、前へつけるとあとは暴走にならないようにすぐに抑えてみせた。そうすることで結果、日本馬として史上初の、そして現在でも唯一のドバイワールドカップ制覇を成し遂げてみせたのだ。

幼い頃から馬に接して育ち、ジョッキーとなった後は世界を飛び回って経験を積んできた。そんな中で、いとも簡単にサラブレッドを手の内に入れる技術を培ってきたのだ。

2011年、ドバイワールドカップを制した時のミルコ
2011年、ドバイワールドカップを制した時のミルコ

ここまでのジョッキー人生

ここで簡単に彼のジョッキー人生をおさらいしてみよう。

ミルコ・デムーロは1979年1月11日、イタリアで生まれた。父は元ジョッキー。叔父もジョッキー。その後、弟のクリスチャンもジョッキーとなったことは広く知られているが、従兄弟もジョッキーになり、妹は調教師免許を取得する。まさに競馬一家。ミルコはイタリアンサラブレッドなのだ。

騎手を目指すと決意したのは13歳の時。15歳でデビューを果たすとまたたく間に見習いリーディングを獲得。その後、全国リーディングを獲るのにも時間を要さず、18歳の時にはイタリアナンバー1ジョッキーへとのぼりつめた。

99年、二十歳で初来日。短期免許を取得し、日本競馬にも参戦するようになると、03年にはネオユニヴァースとのコンビで皐月賞、日本ダービーの二冠を制覇。その後も先述したヴィクトワールピサで有馬記念やドバイワールドカップを優勝するなど大活躍。

15年には日本での通年免許を取得し、京都で暮らし始めると、ドゥラメンテとのコンビでいきなり皐月賞、日本ダービーを優勝。今年もゴールドドリームでフェブラリーS(G1)を勝ったほか、冒頭で記したようにサトノクラウンをパートナーとして宝塚記念も勝利。昨年はドゥラメンテがレース中に故障して2着に敗れたレースでリベンジを果たし、ミルコにとってJRAのG1・20勝目を達成してみせた。

宝塚記念終了後のミルコ。これがJRAG1・20勝目となった
宝塚記念終了後のミルコ。これがJRAG1・20勝目となった

離れて暮らす弟への想い

「日本が大好き。日本人が大好き」と語るミルコはお寿司こそわさびを抜くものの、納豆も「美味しい」といって食べるくらいだから本当に日本の文化、生活に馴染んでいる。しかし、彼が母国を旅立ち日本を主戦場としたのは単に日本贔屓という理由だけではない。

現在、イタリア競馬は政府からの資金援助が打ち切られ、経営破たんに近い状況。賞金が激減しただけでなく、聞くところによると支払いが遅延。それなのにしかるべき税金だけは払わなければいけないのだと言う。

そうなれば祖国を後にする気持ちも分かる。実際、イタリアの競馬界で働いていた調教師や騎手はミルコだけでなく多くの人が泣く泣く国外へ脱出。他の国の競馬界で働いている。

母国の競馬について語るミルコの表情は常に曇る。彼は自分を育ててくれた競馬場の現状に心を痛めているのだ。

弟のクリスチャンも同様だ。13年にアユサンの手綱をとって桜花賞を制した彼は現在、フランスへ移住し、かの地のレースに騎乗している。

92年7月8日生まれだから、ミルコとは14歳も年の差のある弟は、幼少時から騎手に憧れていた。私は03年、イタリアで当時まだ11歳のクリスチャンをミルコから紹介してもらったが、その手には鞭が握りしめられていたことをよく覚えている。

クリスチャンはまだ年端もいかない頃からポニーに跨っていた。そして、そのポニーをミルコがはやし立てると、危険に感じた母親はいつもミルコを叱っていたのだと言う。しかし、ミルコは「クリスチャンは将来、ジョッキーになるのだから……」とはやし立てることをやめなかった。クリスチャンが桜花賞を勝った時、この兄弟2人と食事をする機会があったが、当時ミルコは「あの時の僕のお陰」と笑いながら語っていたものだ。

さて、フランスにわたったクリスチャンは今年、ブラムトという馬と巡り合い、プールデッセプーランとジョケクラブ賞を制した。日本流に言えば前者はフランス版皐月賞、後者は同ダービーである。

国は違えど弟のこういった活躍に兄貴が刺激を受けないわけはないわけはないだろう。傷心の思いで祖国を離れ、バラバラに暮らす彼等にはそれぞれ思うところもあるはずだ。しかし、距離の壁など関係なく切磋琢磨し、それぞれの国で大活躍した彼等が、いずれ世界のどこかの大舞台で再び顔を合わせる日がくることを願いたい。

(文中敬称略、撮影=平松さとし)

英国アスコット競馬場でのデムーロ兄弟(右が兄ミルコ、左は弟のクリスチャン)
英国アスコット競馬場でのデムーロ兄弟(右が兄ミルコ、左は弟のクリスチャン)