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同性愛を治す電気ショックも行われた時代の実話。ゲイ役を当事者が演じるかの論議も言及する伊ベテラン俳優

斉藤博昭映画ジャーナリスト
ルイジ・ロ・カーショ

1960年代末のイタリアで、劇作家で詩人のアルド・ブライバンティが、「教唆罪」で9年の有罪判決を受ける。教唆とは、肉体的、あるいは精神的に相手を自分の意志に従わせること。ブライバンティの場合は、年齢も離れた同性の青年エットレに対し、教唆を行ったことで捕らえられた。その相手とは、純粋な愛と信頼の絆で結ばれていたにもかかわらず──。

当時の社会ではセクシュアリティが問題視され、矯正施設で「治療」という名目の電気ショック療法なども描かれる。この実話を基に映画化されたのが『蟻の王』である。ブライバンティは蟻の生態研究者としても活動していた。

失ったものが大きい彼の名を日本にも伝えたい

ブライバンティを演じたのは、イタリアの名優、ルイジ・ロ・カーショ。ブライバンティのこの事実は、イタリア本国でも「そこまで誰でも知っているわけではない」と話しつつ、見事に生前の本人の面影を踏襲している。

「たとえば最近、舞台でピエル・パオロ・パゾリーニ(イタリアの映画監督)を演じましたが、彼は有名な人物なので、かなり外見を似せる必要がありました。ブライバンティの場合は、彼の書いた詩や、生前のインタビューを読んだりして内面から近づいた感覚です。彼はリベラルな思想で、蟻に興味を持ったのも、その集団性が国のために犠牲になる多数の人々と重なったからかもしれません。そのように共感を育みつつ、もしスクリーンの姿が本人と似ているとしたら、それは優秀なヘア・メイク・アーティストのおかげでしょう」

ブライバンティ自身は、野心的な性格ではなかったと分析するロ・カーショ。そんな温和な人物が過酷な運命を強いられたことについて「彼が人生で失ったものを、こうして映画で後世に伝えたい。遠く離れた日本の皆さんが『ブライバンティ』という名を耳にするだけでも私の仕事の意味がある」と、彼は真摯に言葉を紡ぐ。

蟻の生態研究者ブライバンティは、彼を慕うエットレと絆を深めていく
蟻の生態研究者ブライバンティは、彼を慕うエットレと絆を深めていく

アルド・ブライバンティは、同性の恋人との関係を育んだわけだが、近年、こうした主人公を描く際、演じる俳優自身のセクシュアリティが問われるケースも多い。また、「ストレートであるあなたが、ゲイ役を演じた思いは?」など、俳優のセクシュアリティを“決めつける”ことへの論議もある。自らをヘテロセクシュアルだと語るルイジ・ロ・カーショは、こうした風潮についてどう考えるのか。

「たしかにアメリカのTVシリーズや映画を観ていると、ある役に対し、そのキャラクターに近い俳優が演じるという傾向を感じます。ゲイの役ならゲイの俳優が演じるべきだという風潮も耳にします。ただ、これは私個人の意見ですが、『俳優ならどんな役でも演じられる』という前提条件を排除してはいけないと感じるのです。私は人を殺したことがない。では、殺人者の役は演じられないのか? そんな風に突き詰めていけば、私は自分自身しか演じられなくなり、仕事もなくなってしまう。自分とは違う役に対し、イマジネーションも駆使して演じるのが俳優の仕事であって、もし観ている人が『違う』と感じたら、それは俳優の実力が足りないということでしょう。

 今回のブライバンティ役に関して、彼がエットレに注ぐ愛情は、私の妻に対する愛情、あるいは女性に対しての愛情やパッションと変わらないように演じたつもり。そういう意味では違和感はありませんでした」

本作のジャンニ・アメリオ監督とは「ホモセクシュアルに関する描写について、偏見につながらないよう、話し方や仕草など型にはまった表現だけは避け、人物の感情が湧き上がってくるような演技を追求しよう」と意見を一致させたという。

俳優として成熟期の始まりを感じている

また、ここ数年、この『蟻の王』も含め、日本で公開されるイタリア映画には『天空の結婚式』(同性カップルの結婚を巡り、親世代とのギャップを描いたコメディ)、『泣いたり笑ったり』(父親同士が同性結婚する、2つの家族の騒動)のようにLGBTQを扱った作品が目立つ印象もある。このあたり、イタリアで暮らすロ・カーショは「そうでもないのでは?」と語りつつ、同時に社会の変化も感じているようだ。

「イタリアでは近年、同性間の事実婚や養子縁組に関する法制化で、さまざまな論議が起こり、社会的な注目の話題にはなっています。それに対し、政治家やアーティストが自分の立場を表明するニーズも増えているので、そうした社会状況を反映した映画が増えている可能性はあります」(現在のイタリアでは同性婚ではなく、同性の登録パートナーシップ制度が設けられている段階)

現在56歳のルイジ・ロ・カーショ。『蟻の王』を経験し、俳優としての今の自分がどのような状態にあると感じているのか。

「私のキャリアの中で、現在は成熟期の始まりという気がします。成熟期といっても、すべてを達観したわけでなく、自分の限界も理解したうえで、そこから新しい何かを探している状態です。最近は、出演した作品が注目を集めるとか、ヒットするとかを気にしなくなり、より自分の感性を信頼するようになりました。とはいえ、上から目線で演じる役を選んでいるわけではありません。『蟻の王』のような作品こそ、私の成熟期の始まりを象徴しているのだと強く感じます」

今だからこそ味わっている俳優業の喜びについては、「人間の本性が現れる重要な瞬間を、その人物の経験から表現できたとき」とも語る。

そんなロ・カーショにとって、俳優業と並行させているライフワークがある。それは「文章を書くこと」。

「よく本を読みますし、ほとんど毎日、何かしら文章を書いています。創造力を試される作業が大好きなんです。最近、イタリアの出版社から短編集の出版を依頼されました。カニやサソリが出てくる物語で、人間と同じように組織化された社会を作る蟻も登場します。そこは“蟻の王”ブライバンティ役のリサーチが無意識につながった可能性がありますね(笑)。主人公が部屋に帰り、ソファが消えた場所にハエがいて、そのハエに『お前がソファを食べたんだろう』と詰め寄る……と、ちょっと私の頭の構造が疑われそうな奇妙な話も収められていますよ」

『蟻の王』で演じたブライバンティは劇作家で詩人だった。「書くこと」でつながった俳優と役の濃密な一体感を、本作でぜひ堪能してほしい。

『蟻の王』

11月10日(金)よりヒューマントラストシネマ有楽町、YEBISU GARDEN CINEMA、アップリンク吉祥寺ほか全国順次公開

(c) Kavac Srl / Ibc Movie/ Tender Stories/ (2022) 

配給:ザジフィルムズ

映画ジャーナリスト

1997年にフリーとなり、映画専門のライター、インタビュアーとして活躍。おもな執筆媒体は、シネマトゥデイ、Safari、ヤングマガジン、クーリエ・ジャポン、スクリーン、キネマ旬報、映画秘宝、VOGUE、シネコンウォーカー、MOVIE WALKER PRESS、スカパー!、GQ JAPAN、 CINEMORE、BANGER!!!、劇場用パンフレットなど。日本映画ペンクラブ会員。全米の映画賞、クリティックス・チョイス・アワード(CCA)に投票する同会員。コロンビアのカルタヘナ国際映画祭、釜山国際映画祭では審査員も経験。「リリーのすべて」(早川書房刊)など翻訳も手がける。

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