2020年の1月、東京国際フォーラム。

満席の観客は、高音と低音がめまぐるしく行き来する難しいメロディを、切々と歌い上げるヴォーカルに聴き入っていた。舞台上は、わずか一人のパフォーマンスながら、ミュージカルの名シーンがドラマチックに展開しているかのように感じられた。

その歌声とパフォーマンスは、もう二度とライヴで体験することは叶わない。

ブロードウェイのスーパースター、シンシア・エリヴォの来日コンサートに、ゲストで出演した三浦春馬さんは、「ウェイビング・スルー・ア・ウィンドウ(窓ごしに手を振って)」を熱唱した。三浦さんは他にも自身の当たり役となった『キンキーブーツ』や、3月に出演を控えていた『ホイッスル・ダウン・ザ・ウィンド〜汚れなき瞳〜』の曲も歌ったが、「ウェイビング〜」は、このコンサートのために練習し、披露したものである。

なぜ彼は、この曲を選んだのか?

「ウェイビング〜」は、2017年、第71回トニー賞でミュージカル作品賞、最優秀作曲賞などを受賞したミュージカル『ディア・エヴァン・ハンセン』の曲。三浦さんは、2016年、オフ・ブロードウェイで同作を観劇し、物語と音楽に激しく魅了され、いつかこの主人公を自分で演じたくなったことを告白している。エリヴォとのコンサートの時点で、もしかしたらその実現へ向けた話が出ていたのかもしれないが、いずれにしても、「ウェイビング〜」は『ディア・エヴァン・ハンセン』の中で、歌詞もメロディも、最もドラマチックで心に残る曲のひとつ。「いつか演じたい」という思いとともに、魂の込もったパフォーマンスにつながったのである。

名コンビによる曲、切ない青春ドラマ

ミュージカル『ディア・エヴァン・ハンセン』は、あの『ラ・ラ・ランド』『グレイテスト・ショーマン』を手がけたバンジ・パセクとジャスティン・ポールが作曲と作詞を担当。要するに、ミュージカルとしての曲のレベルは保証済み。そして物語は、青春ドラマである。親友のいない高校生のエヴァン・ハンセンが、ある目的で自分宛てに書いた手紙。それを同級生のコナーに持ち去られるが、その後、コナーは自ら命を絶ってしまう。コナーの家族が手紙を見つけ、息子がエヴァンに書いたものだと勘違いするのだが、彼らを傷つけたくないエヴァンは、コナーと親友だったと偽り、美しい思い出話を創作していく。エヴァンはもともとコナーの妹、ゾーイに想いを寄せており、それぞれの複雑な感情が交錯しつつ、やがて「嘘の友情」がSNSによって思わぬ運命へと向かうーー。

『ラ・ラ・ランド』や『グレイテスト・ショーマン』の派手さとは一味違う、この感動系のミュージカルは、2018年には映画化のプロジェクトがスタート。2021年9月9日(現地時間)、第46回トロント国際映画祭のオープニング作品としてお披露目された。毎年、トロントでは、アカデミー賞などその後の映画賞レースに絡む傑作を多数上映することが話題。オープニング作品にも大きな注目が集まる。昨年の第45回のオープニングは『アメリカン・ユートピア』で、同作は今年日本で公開され、熱烈な支持も受けてロングランヒットを記録した。

『ディア・エヴァン・ハンセン』を監督したのは、スティーヴン・チョボスキー。これまで『ウォールフラワー』『ワンダー 君は太陽』と、子供たち、ティーンエイジャーが主人公の傑作を監督してきた。しかも『レント』『美女と野獣』というミュージカルの映画版で脚本にも携わっている。つまり、作品に対して最適の監督。そして実際に、この映画版『ディア・エヴァン・ハンセン』を、基本的にオリジナルの魅力をまったく損なわず、映画らしい傑作に仕立てていた。

(c) 01 Courtesy of TIFF
(c) 01 Courtesy of TIFF

何より、この物語が映画にふさわしいことが証明された。孤独な高校生、シングルマザーと息子の関係、恋のときめき、息子を失った家族の悲しみ、「嘘」をきっかけにした思わぬ絆、そしてSNSの弊害……と、今の観客が求めているネタ、とくに青春映画のヒリヒリとした要素がきっちり物語で機能している。そこに『ラ・ラ・ランド』と同様に、一度聴いたら耳に残るメロディが美しく重なる。

オリジナルの魅力どおりの美しき映画化

映画版用に新曲も追加されているし、たとえばエヴァンがコナーとの思い出を勝手に作り上げるシーンなど、さまざまなシーンがテンポよく編集される、「ミュージカル映画」ならではの効果が満点になっている。『ディア・エヴァン・ハンセン』は舞台版も映像が多用される演出ではあるが、このあたり、映画となることで、よりナチュラルに仕上がっているのだ。

そして舞台よりも、俳優のアップの表情がより試されるのが映画だが、ジュリアン・ムーア(エヴァンの母)、エイミー・アダムス(コナーの母)ら演技派スターたちが説得力をもたせる熱演。とくにアダムスは『魔法にかけられて』『ザ・マペッツ』などでミュージカルの経験もあるので、歌も見事にこなしている。

心配だったのは、主人公エヴァン役のベン・プラット。ブロードウェイのオリジナルキャストだが、年齢的(現在27歳)に映画で高校生を演じることに不安の声もささやかれていた。完成作では、ぎりぎりセーフという印象(もちろんメイクなどでカバーしているが)。しかしエヴァンの複雑な心情を歌で表現するという意味で、長年の経験が最高のかたちで映画に刻印されたのは、誰もが認めるだろう。もし2〜3年、映画が遅れたらこのキャスティングは不可能だったはずで、最高のタイミングとなった。

すべての要素において、舞台の傑作ミュージカルが、スムーズに映画に変換されたことを実感する。映画でこの作品に初めて触れる人に、ドラマの感動の輪が広がることだろう。トロント国際映画祭の最高賞は、観客の投票によって決まる「観客賞」で、昨年は『ノマドランド』、さらに遡ると『ジョジョ・ラビット』、『グリーンブック』、『スリー・ビルボード』、『ラ・ラ・ランド』……と、アカデミー賞作品賞、または争った作品が受賞している。トロントのオープニング作品が観客賞となるのは稀なのだが、『ディア・エヴァン・ハンセン』は、そのポテンシャルがありそうで、今後の賞レースにも絡んでいくかもしれない。

三浦春馬さんが歌った「ウェイビング・スルー・ア・ウィンドウ」は、この映画版でも舞台版と同じく作品の前半で歌われ、観客の心を一気に引き込む役割を果たす。孤独を抱えながら自宅を出て、学校へ向かうエヴァンに、否が応でも感情移入してしまうのだ。

「ウェイビング〜」は、このような歌詞がうたわれる。

“これからは今までの自分より 良い人間になれるのだろうか

ガラスを叩いて 窓越しに手を振る

話しかけても 誰も聞いてくれない

行き交う人を眺め 答えが現れるをの待っているんだ

誰か僕を見て 手を振り返してくれないか“

(翻訳/筆者)

「ウェイビング・スルー・ア・ウィンドウ」のシーンを観ながら、一瞬、シンシア・エリヴォ・コンサートの夜の記憶が頭をよぎった。同じように、「あの人の歌声」を重ねながら、『ディア・エヴァン・ハンセン』を劇場のスクリーンで観て、胸が締めつけられる人もいるのではないだろうか。

映画『ディア・エヴァン・ハンセン』は、日本では11月26日に劇場公開される。