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コロナ死のキム・ギドク監督、無神経な追悼には猛批判も。性暴力の罪と作品の関係からも目を反らせない

斉藤博昭映画ジャーナリスト
12/11に新型コロナウイルス感染症のためラトビアで死去したキム・ギドク監督(写真:Shutterstock/アフロ)

新型コロナウイルスによって、また一人の著名な映画人がこの世を去った。韓国人のキム・ギドク監督がラトビアで亡くなったニュースは、映画ファン、映画関係者に驚きを与えた。間もなく60歳を迎えようとしていたギドクは、2004年の『サマリア』がベルリンの銀熊賞、同年の『うつせみ』がヴェネチアの銀獅子賞、2012年の『嘆きのピエタ』がヴェネチアの金獅子賞など、名だたる映画祭で栄冠を手にし、世界的巨匠という名にふさわしい映画を撮り続けてきた。当然のごとく、その突然の訃報を悼む声が素直に上がり続けたものの、一方で、近年のギドクは性暴力、いわゆるセクハラでいくつもの告訴を受ける、スキャンダルの人としても有名になっていた。

なぜギドクはラトビアでコロナに感染し、亡くなったのか。それは祖国で仕事を続けることが不可能だったからだ。

2013年のギドクの監督作『メビウス』は、父の浮気現場を目撃した息子が、母親に性器を切り取られるという、想像を絶するショッキングな展開だが、2017年、同作に出演するはずだった女優がギドクを告訴する。撮影現場でギドクに暴力をふるわれ、予定になかったベッドシーンを強要された、という訴えだ。さらにテレビ報道番組「PD手帳」で、出演した2人の女優がギドクからセクハラや性的暴行を受けたことを告白した。

世界的巨匠といわれるキム・ギドクの訃報に関し、とりあえず追悼の意を表す、映画ファン、映画ニュースが続いたが、これに関して、『かぞくのくに』などの映画監督で知られるヤン・ヨンヒ氏が次のようなツイートで怒りをあらわにした。

このヨンヒ氏のツイートは、世界的巨匠の映画に出演したいという女性に、暴力をふるい、性的暴行までしたギドクの過去の非道が書き連ねてあるが、文字にできないほどの非道行為も含め、ギドクの生前の行いが信じがたいレベルであったことを再認識させる。どこまで真実なのか? 韓国の映画人、あるいは韓国映画事情に精通している人にとって、キム・ギドクは世界的映画祭に認められる才人ながら、ここ数年、このように次々と出てくる衝撃の過去によって、韓国国内では映画を撮れない状況になっていた事実は有名だ。

チャン・グンソク、アン・ソンギというスターを揃え、オダギリジョーも共演した2018年の『人間の時間』以後は、事実上、ギドクは韓国からの退去を余儀なくされている。死地となったラトビアに自宅をかまえようとしていたという報道もある。

ヤン・ヨンヒ氏のツイートの最後に「女性記者や評論家には紳士的だった」とあるように、あれだけ強烈な作風ながら、キム・ギドクは取材時などではとても穏やかで優しく、作品とのギャップを感じさせる人だった。しかし数々のスキャンダルが明るみに出る以前にも、釜山国際映画祭のスタッフにギドクのその印象を話したところ、「それはあなたが日本人だからです。われわれに対する態度は……」と彼の素顔を切々と語られ、韓国国内でのギドクの人柄への評価を肌で感じたこともあった。援護する人が少ないゆえに、スキャンダルが雪崩のように明らかになっていったのかもしれない。

こうした性暴力の過去も含め、亡くなったばかりのキム・ギドクに対し、どのような感情が湧き起こるのか。ギドクのやったことは当事者同士の問題であり、完成した映画は撮影の舞台裏とは別に評価したい、という声も散見される。ある映画監督は、ギドクの行為をふまえたうえで、「それでもこのショックは大きい」と、喪失感を語っている。

実際に、韓国映画を世界レベルへと発展させた意味で、キム・ギドクの貢献は計り知れない。日本の映画ファンでも、彼の作品に人生が変わるほどの衝撃を受けた人も多いはずだ。

一方で、別の映画監督は「被害者の話を聞いてからギドクの作品を一切観なくなった。一瞬も自分の時間を与えたくなかった」と、ギドクの訃報の後に告白している。そして韓国の映画製作スタッフの間では「キム・ギドクとは絶対に仕事をしないように」と忠告し合っていたという話も伝わってきた。

こうした作り手側の「素顔」と、完成した映画の関係をどう考えるべきか。キム・ギドクの場合は、たとえば初期の傑作とされる『悪い男』を観れば、女性に対する男性の行為の描写に監督の「志向」を重ねずにはいられない。性暴力告発の後にこの作品を観れば、公開当時以上に拒否反応が起こる可能性はある。その他の作品でも似たような感覚をもたらす瞬間は多く、そういう意味で、作り手と作品の関係を読み解くには、ギドク作品はわかりやすいサンプルになる。しかし日常的に性暴力を続けていた監督の映画を世に送り出していいのか、好きになれるかというのは、被害者の心情を考えれば別問題だろう。

似たような例を挙げると、ウディ・アレン監督がいる。養女への性的虐待の件で告発され、いまだに両者の言い分が合わないグレーな状況ではあるものの、アレンの人としての世間の信頼度は急落し、直近の新作『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』はアメリカで劇場公開を見送られた。アレンの作風と、彼が起こしたかもしれない虐待との関係は、キム・ギドクほど明瞭ではない。しかし「そのような人間が作った映画を観るべきか」という問題は残り、アレンもかつてのように映画の製作が自由に行えない状況にある。

同じく、1977年、少女への性的強要で有罪の判決を受けたロマン・ポランスキー監督に対するハリウッドの反応、評価は、時を経て、名作を撮ってもシビアである。

日本では『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』も、そしてギドクのスキャンダル発覚後にも彼の作品(『人間の時間』)も劇場公開された。『レイニーデイ〜』の公開時は、日本でも公開の是非、どう作品と向き合うかなど論議もみられたが、公開を中止せよという声が広がることはなかった。キム・ギドクの訃報への反応も含め、やはり日本ではこうした問題への考え方が甘いのだろうか?

近年、日本では出演者が不祥事や事件を起こした際に、映画の公開の是非が論議されることが多く、作り手と作品の関係について考える機会も増えた。キム・ギドク作品に対する評価は、今後、どのように変わっていくのだろうか。そして何より、仕事の現場での性暴力、パワハラをなくすという根本的な問題に、真摯に向き合う姿勢が改めて問われている気がする。

映画ジャーナリスト

1997年にフリーとなり、映画専門のライター、インタビュアーとして活躍。おもな執筆媒体は、シネマトゥデイ、Safari、ヤングマガジン、クーリエ・ジャポン、スクリーン、キネマ旬報、映画秘宝、VOGUE、シネコンウォーカー、MOVIE WALKER PRESS、スカパー!、GQ JAPAN、 CINEMORE、BANGER!!!、劇場用パンフレットなど。日本映画ペンクラブ会員。全米の映画賞、クリティックス・チョイス・アワード(CCA)に投票する同会員。コロンビアのカルタヘナ国際映画祭、釜山国際映画祭では審査員も経験。「リリーのすべて」(早川書房刊)など翻訳も手がける。

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