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あの時、武漢の病院はどうなってた? 信じがたい密着度で76日を追った作品がお披露目【トロント映画祭】

斉藤博昭映画ジャーナリスト
courtesy of TIFF

9月10日から開催されている第45回トロント国際映画祭。例年より大幅に規模を縮小しての開催だが、少数精鋭とばかりに作品のレベルは、例年どおり、いや例年以上かもしれない。中でも「今の世界」を映したドキュメンタリーには注目作があり、そのひとつが、新型コロナウイルスの最初のパンデミックを経験した中国・武漢、ロックダウンされた76日間を、ある病院を中心に密着した『76 Days』だ。このトロント国際映画祭がワールドプレミアとなる。

ハオ・ウー監督は、中国のドキュメンタリーの名手でこれまでも数々の作品を手がけてきた。アメリカのプロデューサー、ジーン・チエンらが協力して作品は完成した。

体力の限界に達する職員たちにもカメラは向けられる。courtesy of TIFF
体力の限界に達する職員たちにもカメラは向けられる。courtesy of TIFF

2020年1月23日、人口約1100万人の武漢市が完全ロックダウン。そこからウー監督は、コロナの患者を受け入れるひとつの病院の中で、ひたすらカメラを回し続ける。冒頭は、パニック映画のような緊迫感と恐ろしさで、観る者の目をクギづけにしていく。次々と押し寄せる患者たち。しかし全員を受け入れられない病院は、選別するしかない。鉄のドアの向こうで溢れかえる患者たちの怒号。医師や看護師たちとの激しい言い争い。その間も重症の急患が運ばれ、ICUの患者は急変して死亡。最後の別れを言いたい家族への対応。疲労で限界に達する防護服の職員たち……。ものすごい勢いで、パンデミック初期の院内の混乱を記録する。

驚くのは「密着度」。一般の病室はもちろん、ICUのベッドまで、信じがたい距離で近づき、さらに蘇生の措置、陽性患者の出産の瞬間など緊急状態にもカメラが容赦なく向けられる。「ここまで映していいのか?」と観ていて戸惑うほど。顔のボカシも一切入らない。亡くなった患者のわずかな遺品が集められた場所で、スマホの着信音が鳴り続けるなど、いたたまれないシーンも多い。

重症患者を励ます意味で看護師たちが作るゴム手袋の風船。courtesy of TIFF
重症患者を励ます意味で看護師たちが作るゴム手袋の風船。courtesy of TIFF

では、この『76 Days』はそんなに衝撃的なのか? じつは、そういうわけではない。むしろ「淡々と」という印象が強い。実際にパンデミックの初期はともかく、日が経つうちに病院側の対応も順調になっていき、医師や看護師たちにも心の余裕が表れる。元気になった患者たちは好き勝手な行動を始めたりと、そうした病院全体の緩やかな「回復」もしっかり映像に収めていく。ゴム手袋を風船のように膨らませ、そこにマジックでかわいい絵を描き、早く回復するように重症患者の胸元に置く。パンデミックが落ち着いたら、まず最初に何を食べたいか、防護服にマジックで書く……。ほっこりする描写や、命をつなぐ希望を与えるエピソードもある。恐怖を煽るスキャンダラスな面だけに走っていないので、そういうものを期待して観た人は肩透かしをくらうかもしれない。音楽も一切、使われておらず、過剰にドラマチックになることはなく、そういう意味で作り手の誠実さを感じられるドキュメンタリーになった。

そして最後は、何もわからずに突然、命を失った人たちの切なさや無念が伝わってきて、静かに胸の奥が締めつけられるのだ。

新型コロナウイルスについては、各国ともどのように対応するのか、それぞれの「経験」が積まれ、方向性が少しずつ明確になりつつある。経験も知識もほとんど皆無だった、この武漢の病院での様子は、各国の医療現場にとってもはや参考になるものではないだろう。しかし、ロックダウン下の都市の風景とともに、あの時、あの瞬間、何が起きていたのかという「記録」として、この『76 Days』は極めて貴重な作品。いずれ、日本で多くの人に観てもらえるチャンスが来ることを望みたい。

映画ジャーナリスト

1997年にフリーとなり、映画専門のライター、インタビュアーとして活躍。おもな執筆媒体は、シネマトゥデイ、Safari、ヤングマガジン、クーリエ・ジャポン、スクリーン、キネマ旬報、映画秘宝、VOGUE、シネコンウォーカー、MOVIE WALKER PRESS、スカパー!、GQ JAPAN、 CINEMORE、BANGER!!!、劇場用パンフレットなど。日本映画ペンクラブ会員。全米の映画賞、クリティックス・チョイス・アワード(CCA)に投票する同会員。コロンビアのカルタヘナ国際映画祭、釜山国際映画祭では審査員も経験。「リリーのすべて」(早川書房刊)など翻訳も手がける。

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