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「男優賞」「女優賞」も差別を生む? 分ける意味はどこに? 一人の俳優の抗議は今後の論議につながるか

斉藤博昭映画ジャーナリスト
『ジョン・ウィック:パラベラム』のプレミアでの、エイジア・ケイト・ディロン(写真:ロイター/アフロ)

アカデミー賞をはじめ、映画の演技賞の多くは「主演男優賞」「主演女優賞」「助演男優賞」「助演女優賞」などにカテゴリーが分けられている。ある意味で、これは常識となった。では「男性監督賞」「女性監督賞」という区分けはあるのか? 女性監督に限定して与えられる賞はあるものの、ひとつの賞でこのような選別は、ほぼ存在しない。他のカテゴリーにしても同様である。「男性の監督のみに与えられる賞」など設けたら、明らかに差別的と糾弾されるだろう(そもそも「男女」という言い方があるように、こうした場合、男優、女優と順番に書くことも固定観念が起因する)。

なぜ俳優のみ性別でカテゴリーが分けられるのか? もちろん映画における役割や、演技のアプローチが違うかもしれない。そして単純に性別で分けることで、受賞者がバラエティに富み、賞自体が華やかになる。これは「伝統」だから……という疑問の余地を挟めない理由もある。

「女性の演技」「男性の演技」の基準は曖昧に

しかし近年、「女性が男性の役を演じたら、あるいはその逆だったら、どうなるのか?」「トランスジェンダーの俳優は、どちらの対象になるのか?」などと論議が起こるケースも生じている。たとえばトランスジェンダーの役を「演じた」場合、演じた俳優の性別でカテゴライズされる。『ボーイズ・ドント・クライ』のヒラリー・スワンクや『トランスアメリカ』のフェリシティ・ハフマンは主演女優賞、『リリーのすべて』のエディ・レッドメインは主演男優賞で、それぞれアカデミー賞で受賞やノミネートを果たしている。

そして2018年、アカデミー賞でも外国語映画賞を受賞した『ナチュラルウーマン』で、トランスジェンダーの主役を務めたダニエラ・ベガは、自身もトランスジェンダーであり、現在の性別どおり、主演女優賞の枠でいくつかの映画賞にノミネートされた。

女性の演技か、男性の演技か。そんな単純な「二分法(バイナリー)」で賞のカテゴリーが設けられることに、意義を呈した俳優がいる。エイジア・ケイト・ディロンだ。

ジョン・ウィック:パラベラム』で、主人公のジョンを追い詰める冷酷な裁定人役で映画デビューを果たしたディロン。キアヌ・リーブスのアイデアから生まれたというこの役には、性別を感じさせない不思議なムードが漂っていた。Netflixのシリーズ「オレンジ・イズ・ニュー・ブラック」を経て、TVシリーズ「ビリオンズ」でディロンが演じたのは、「性別を選ばない」というノンバイナリーのキャラクター、テイラー・メイソン。ノンバイナリーがアメリカのテレビで登場した初めてのケースになった。その結果、ディロン自身もそのノンバイナリーだと気づいたと告白している。

ノンバイナリーは「第3の性」とも言われ、近年、何かと話題に上ることも多くなってきた。では、そのノンバイナリーのエイジア・ケイト・ディロンが、映画やドラマで賞にノミネートされるとしたら、どうなるのか? 現状のように女優/男優と二分されたカテゴリーでは、どちらに含まれるのか不明である。こうした文章でも、ディロンを彼女/彼と、どちらかで呼ぶことは不可能だ。

このままで自分はノミネートされるのか?

そんなディロンが、アカデミー賞の前哨戦でもあるSAG(全米俳優組合)アワードに提案を送った。「男女どちらかに限定する二分法の姿勢を改善してほしい」と。

Variety(バラエティ)が報じた記事によると、そのディロンの提言にSAG側は「現状、賞のカテゴリーを変更する予定はない。変更するためには、さらに広い意見を聞く必要がある」と回答したという。「性別分けをしなければ、人種、民族の多様性を目指すように、ジェンダーの平等性が保たれない」という理由も付加された。たしかに男女で分けないとなると、どちらか一方にノミネートや賞の行方が偏ってしまうリスクもあるからだろう。

この回答に対して、ディロンは「失望した」とSAG側に返信。「男女の二分法が、まるで人種や民族の多様性に寄与しているかのように主張している」と、白人俳優がノミネートの大半を占め続ける現実のデータとともにSAGを批判した。

こうしたSAGの対応の結果、ディロンは次回、2021年のSAGアワードのノミネート委員会を辞退することにしたと、バラエティは伝えている。ディロンは「現在、(ゲイ、レズビアンという代表例をはじめ)64もの性同一性と、5つの生物学的な“性”が存在している。SAGの16万人の会員全員が、男女どちらかに属するとは限らない。演技のカテゴリーを男女で分けることは排他的で、差別的である」と主張しつつ、「自分の目的は、問題を明らかにして、それに取り組むこと」と、冷静に現実的な考えも示した。

たしかに、これはひじょうに繊細かつ難しい問題ではある。全体としては少数派の人々に、どのように対応するべきか。こうした問題は映画界に限ったことではないが、現代の映画の場合、冒頭に書いたように、演技を男女別に判断することへの疑問が絡んでくる。二分化する「意味」が問われるのだ。

社会の流れとして「女らしさ」「男らしさ」という表現自体に違和感を訴える人が増えているのも事実。一方で、多様性を肯定しながらも、従来の「女らしさ」「男らしさ」に魅力を感じ、こだわる人もたくさんいる。もちろんすぐにということはないだろうが、時代とともに女優賞/男優賞という考え方も消えていく運命にあるのかもしれない。いずれにしても論議が起こること自体は健全であり、そこに一石を投じたエイジア・ケイト・ディロンの行動力は評価されるべきだろう。

映画ジャーナリスト

1997年にフリーとなり、映画専門のライター、インタビュアーとして活躍。おもな執筆媒体は、シネマトゥデイ、Safari、ヤングマガジン、クーリエ・ジャポン、スクリーン、キネマ旬報、映画秘宝、VOGUE、シネコンウォーカー、MOVIE WALKER PRESS、スカパー!、GQ JAPAN、 CINEMORE、BANGER!!!、劇場用パンフレットなど。日本映画ペンクラブ会員。全米の映画賞、クリティックス・チョイス・アワード(CCA)に投票する同会員。コロンビアのカルタヘナ国際映画祭、釜山国際映画祭では審査員も経験。「リリーのすべて」(早川書房刊)など翻訳も手がける。

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