二極化し、変容もみせる『Fukushima 50』への反応。ニュートラルに観ることは不可能なのか

(c) 2020『Fukushima 50』製作委員会

映画が製作されると決まった時点から、ある程度、賛否が起こることは予想されていた。日本で、大規模に公開される作品として、2011年の福島第一原発事故を描くこと。そのハードルの高さは、想像に難くない。

3月6日に公開された『Fukushima 50(フクシマフィフティ)』は、その週末の動員1位を記録。2週目もトップをキープしているが、新型コロナウイルスの影響もあり、映画館全体の客足は落ちているので、数字としては突出しているわけではない。しかし公開以来、さまざまな反応が飛び交い、イデオロギーの対立のような構図も作っている。一本の映画が論議を呼んでいることなど些細なニュースではあるし、『Fukushima 50』が社会を急激に変えることはないだろう。たかが「映画」である。しかしその反応からは、映画というものをどう観るべきか、どう判断するべきか、考えさせられる部分が多い。

ちなみに筆者は、どちらかといえば「反原発」だが、『Fukushima 50』を映画として「よく作った」と評価するスタンスである。

映画サイトのユーザーレビューは、Yahoo!が★4~5がメインで、Filmarksも4.0前後を推移しており、比較的、高い評価で迎えられている。そのコメントも「こんなことが起きていたとは知らなかった」「素直に感動した」というものが目立つ。公開直後に、論議を呼んだ「2時間泣きっぱなし」という糸井重里氏のツイートは(もちろん感想は人それぞれとはいえ)やや大げさで違和感をもった人も多いようだが、全体的には好意的な反応が並んでいた。しかし、映画評論家らマスコミの反応には温度差がある。衝撃的だったのは、映画雑誌、キネマ旬報の星取レビューで、3人のレビュアーが全員、★1つ(満点は5つ)を付けたのである。このキネ旬レビューは基本的にシビアなので、過去にも「3人とも★1つ」は出ているが(最近では斎藤工プロデュースの『万力』)、大作では稀なケース。こうした、観る人による極端な反応の違いは、イデオロギーによる「二極化」も進ませていく。

劇映画でどこまで事実を描くことができるか

否定側でまず多く目立つのが「この映画が事実を描いていない」という指摘である。『Fukushima 50』は、門田隆将のノンフィクション「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発」を原作にしている。門田氏の事故関係者への取材によるものなので、一応「事実」と受け止められる題材。この映画版も基本的な部分は原作に忠実である。つまり「事実を描いている」わけだが、劇映画なので当然のごとく「脚色」された部分も出てくる。その脚色部分が、過剰に感動を喚起したり、原発事故の実態を歪めているとの指摘に加え、原作者の門田氏の思想的、いわゆる「保守」な側面もとりざたされることになる。結果、『Fukushima 50』は「原発事故を運転員たちが見事に収束させた」と伝える映画で、そのために事実を歪曲してプロパガンダになりうるという論調。そうなる予感をかぎとり、あるいは反論の書き込みを読んで、「まったく観る気が起こらない」という声も聞く。この流れは昨年公開され、先日、日本アカデミー賞を受賞した『新聞記者』とも通じる部分がある。

「改変」として批判を受けているのは首相の描写で、ベントを急がせるために福島第一に乗り込んでくる首相が一見、「悪役」のように描かれたことで、当時の民主党政権への批判=現在の安倍政権を持ち上げた作品、などと指摘する声も上がる。それに対してさらに、事故前の第一次安倍政権こそが、津波による冷却機能喪失対策を拒否していた、などとの非難が覆いかぶさったりもする。

この首相まわりの描写の意図について、『Fukushima 50』の椿宜和プロデューサーに尋ねると「原作の枠の中で描こうとしたので、あえて菅直人さんに取材することはしませんでした。しかし原作はもちろん、さまざまな資料を総合しての描き方であり、実際に当時の何人かの政治記者に作品を観てもらったところ、『むしろマイルドに描かれているのではないか』との感想もありました」とのこと。菅直人元首相自身が映画を観た後にインタビューに応じているし、「この時期によく描いた作品だ」と評価しているという。

原作、あるいは事実に忠実でない点として、「実名が出ていない」部分も指摘される。メインキャラクターで実名なのは、福島第一の吉田昌郎所長(当時)のみ。菅直人という名前は出てこないし、東京電力も「東都電力」と改名されている。日本の観客には一目瞭然なので、あえて隠したり、変えたりする必要もないとも思うし、すべて実名で出すことで、映画の「覚悟」を感じさせられるのではないか? このあたりも椿プロデューサーにぶつけると、「吉田昌郎さんは故人のため、ご家族の許可を得て実名で出すことにしました。すべて実名にすると、再現ドラマになる。映画=フィクションであり、そのあたりの境界は論議し、悩み抜いた末の結論なんです。菅さんはともかく、Fukushima 50の実名を出すことは、日本映画として難しい部分があるし、ある程度の配慮が必要」と、複雑な心境を明かす。

吉田昌郎所長を演じる渡辺謙 (c) 2020『Fukushima 50』製作委員会
吉田昌郎所長を演じる渡辺謙 (c) 2020『Fukushima 50』製作委員会

例えば、ハリウッドに目を移すと、比較する題材はかけ離れているかもしれないが、日本でも公開中の『スキャンダル』は、FOXニュースのセクハラ問題を、すべて「実名」で描いている。一方で架空のキャラクターも創造しているし、主人公のニュースキャスター、メーガン・ケリーらモデルとなった本人たちが「事実と違う点もあるし、変更を加えてほしいところもあった。しかし作品は力強い」と容認している。ハリウッドと比べて、日本映画の「大作」で実名、実際の会社名を出すことの難しさについては、いろいろと考えさせられる。2016年に、やはり原発事故を描いた映画『太陽の蓋』も、政府の面々は本人の了解をとって実名で出しているが、企業名は変えられている。こうしたスポンサーに気を遣うことで自由度が制限されてしまう日本映画の姿勢は、観客にも「どうせ、ちゃんと描いてないんでしょう?」という先入観も与えてしまう気もする。

日本映画として「テーマ」を強調する難しさ

ただ、このような批判的な指摘も踏まえたうえで、冷静に『Fukushima 50』を観ると、全体としては事故当時の状況を、できるだけ克明に再現しようとする「意思」が貫かれていると感じる。原発への海水注入をどうするかのやりとりや、ベントと住民の避難の関係も、映像で描ききれない部分をテロップでフォローしたりする苦心が見てとれる。事故調査報告を参照すれば、強烈に批判されるほどではない。最大の危機と考えられた2号機の爆発が回避できたのは、今でも確たる要因がわかっていない。この最大のポイントをありのままに描いたことで、映画としての「劇的さ」では、むしろ物足りなさも創出するのだが、そこをあえて劇的に改変してはいない。

また、劇中、ドラマチックな場面のひとつに、吉田所長に「決死隊」と称された運転員たちの自己犠牲が試されるシーンがあり、ここはいかにも映画的だが、その描写について、実際にあの事故現場にいた人に取材したところ、「あのとおり。いやもっと『自分が!』という感じで、脚色された感じではない」と打ち明けている。

最大の問題は、映画として何を訴えたいのか、そこに「揺らぎ」を感じさせる点ではないだろうか。もちろんFukushima 50と呼ばれた人々の苦闘という表面的なテーマはクリアする。しかし、ラスト近くに「迷い」と「苦心」がにじみ出て、その結果、観た後の印象を大きく変える可能性があるとも感じる。実際に、全体としては「日本映画として原発事故によく向き合った力作」だと受け止められつつ、ラストのテロップにがっかりしたという声も聞く。ラスト直前に、あの有名な「原子力 明るい未来のエネルギー」の看板が映し出される。観る人によっては、原発に頼ったことへのシニカルな批判とも感じるが、椿プロデューサーは「2011年から何も変わっていない現状を見せたかったのです。そこに反原発の意思は込めていない。映画を観る人がどう捉えるか、任せたかった」と説明する。さらにその後、「2020年7月、復興のための五輪が、日本で開催される。聖火は、福島からスタートする」というテロップが出るので、「まるで事故が収束したかのような印象を与えるのではないか」との批判も聞かれるのだ。

「2020年3月に公開される。だからこそのメッセージであり、肯定的にも否定的にもとれるようになっている」という椿プロデューサーの思いは納得できるし、ではどんなメッセージで終わらせれば良かったのかを考えると、「現実をシビアに伝える」と「映画としてのまとめ方」の両天秤で難しい選択だったと察する。

このラストも含め、映画というものは「印象」が大きく支配し、その印象を基準に、何か自分の感覚と合わない部分が生じれば、突っ込みながら観ることになる。『Fukushima 50』のような作品はそこが顕著であり、ある種、映画の見方としては健全でもある。しかしこの映画の場合、さらに意外な反応も起きていると、椿プロデューサーは打ち明ける。「公開前に観て絶賛していた人が、新型コロナウイルスが騒がれているこの状況で公開されることで、『現場の人のドラマよりも、原発の恐ろしさだけが残る映画に受け取られる』と批判の声を上げたりしています。逆に反原発の人から『実際に観たら怖さが伝わってきたので、多くの人に勧めようと思った』との声も届くのです

現在の状況に照らし合わせて印象が変容したり、思い込みが覆ったりと、想定を超えた反応も起こっているようだ。

記憶を風化させないため、問題提起の意義は?

また、HBOのドラマ「チェルノブイリ」との比較をする論調もある。放射能による被曝の実態も生々しく描いた「チェルノブイリ」に比べて、たしかに『Fukushima 50』を「甘い」と感じる人がいるのは理解できる。しかしチェルノブイリ事故では多数起こった放射能による直接死が、福島ではなかったので、描き方の生々しさは比べられない。また、「チェルノブイリ」は事故から33年後で、しかも当事国ではないアメリカの製作。『Fukushima 50』は、9年後で当事国が作った映画。問題提起という点で、そこは評価されるべきだろう。9年間で原発事故は過去のものと感じる人も増え、その問題から顔を背ける人も多い。「まだ収束していないのに映画か」と批判する人もいるし、事故を起こした側の視点で初めて描いているため、批判の標的にもなりやすい。しかし収束していないからこそ、そして記憶を風化させないためにも、「何か」が製作されるべきだと思う。その意味で、この映画は大枠ながら「事実を伝える」役割は果たす。

結果的に、この映画が事実を歪曲して、現政権や東京電力のプロパガンダになっているかといえば、冷静に考えて、そこまでではない。映画に感動した人も「事故は収束した」とは思わないだろう。若松節朗監督以下、佐藤浩市、渡辺謙のメインキャストも、みなが強調していたのは、事故が「現在進行形」である事実だった。つまり運転員たちの苦闘をヒロイックに描くことで、原発推進派に好意的に迎えられそうな作品を、作り手たちが、その逆に向かわせようとする静かな努力が満ちている。このあたりに、近年の日本映画の傾向である「当たり障りのなさ」も感じられるのだが、椿プロデューサーが『Fukushima 50』のテーマについて「死と直面する恐怖を、少しでも自分と置き換えて考えてほしい」と語るように、今回は事故現場の苦闘にフォーカスされたと考え、原発の是非を問いかける別の映画が再び現れることを願う。

少なくとも『Fukushima 50』への賛否が原子力政策の今後に投げかける何かはあるだろうし、そこに今作の「意義」を見出すことができるのではないか。

劇中、危機が迫った状況を諦めと冷静さの両方で見つめながら、佐藤浩市が演じる伊崎利夫が、こんな言葉を口にする。

俺たちは何か間違ったのか?

そこには原子力政策への賛否という、作品が直接的にふれなかったテーマはもちろん、この映画が作られ、公開されることへの逡巡と疑問、作品への賛否、さらに人として現代社会をどう生きていくべきかという普遍的な投げかけ……と、映画そのものを超えた側面が不覚にもリンクすることになった。