すべて日本語で行う授業なのに英語力が上がる!? 桐朋女子中・高等学校(2)

仙川の桐朋には幼稚園から大学までがある(筆者撮影)

10分間で400字の論理的文章が書けるようになる

桐朋女子は2016年度から「言語技術教育」という新しい教育プログラムを始めた。ひと言でいえばクリティカルシンキングを身につける取り組みである。具体的にどんな授業なのか、卒業間際の高校3年生たちに聞いた。

生徒A たとえば、1枚の絵を見て、クラスのみんなで5W1H(who, what, where, when, why, how)を分析します。

生徒B 最初は「えーっ」っていう感じで消極的なんだけど、誰かが面白い視点を提供するとみんなものってきて、途中からはすごい盛り上がるよね。

生徒C そう、その議論は楽しい。

生徒A そうすると、友達が自分とは違う観点から見ていることに気づきます。

生徒D みんなの分析をもとに、作者がその絵に込めた思いを考察したり、その絵を論評したり、その絵を見たことのないひとに言葉だけで伝える方法を考えて文章にまとめます。

生徒E そのときにもルールがあって、トピックセンテンス、サポーティングセンテンス、コンクルージョンセンテンスという……。

生徒A そうそう。ハンバーガー構造という型を守らなきゃいけません。

生徒C みんなの意見のどれがどの部分に使えそうか、最終的には先生がうまくまとめていってくれるんですけど。

生徒A そこまでをみんなでやったら、最後の10分くらいで一気に作文を書かなきゃいけません。それは結構面倒くさいです(笑)。

生徒E でもそのおかげで理科や社会のレポートを書くことも苦じゃなくなったし。

生徒B 私は学校の制度を利用してニュージーランドに3カ月間留学しました。そのときに、言語技術教育で学んだことがそのまま役立ちました。

たとえば、教員が朗読する物語を1回目はメモを取らずに聞き、2回目はメモを取りながら聞き、その内容を話の構造を保ったまま、約20分間で1000字の文章にまとめるという活動もある。私が普段職業としてやっている、インタビュー記事をまとめる作業に似ている。そのほか、「対話」「物語」「説明」「論証」「分析」という5つの分野でさまざまな状況での論理的な思考やコミュニケーションの技術を学んでいく。

「中3と高1の2年間、週1時間ずつ、この授業を行います。ぜんぶで43本の作文を書くことになります。クラスみんなでの議論を終えると、彼女たちはわずか10分間で400字の論理だった文章を書き上げることができるようになります。頭のなかに論理的な文章を書く構造がたたき込まれているからです」というのは外国語科の斉藤康晴さん。

ことばを使いこなすことで思考を鍛える

斉藤さんは英語の教員である。言語技術教育の授業は日本語で行われるが、教科としては「英語」の範疇で行われているのだ。

「ことばと思考はほぼイコールだと思っています。でもいまの日本ではことばと思考が乖離しているというか……。キーワードばっかりが頭のなかにポンポンポンと浮かんでいるんだけれど、それがつながっていかない。単語は理解していてもそれらがつながっていかないので、論理的でないまどろっこしい文章ができてしまったりとか、意味不明なプレゼンが始まったりするわけですよね」

論理的な思考術を、方法論として教えるのではなく、実際にことばを使いこなす経験を積むことで体得させようというわけだ。

「本校の言語技術教育のプログラムは、『つくば言語技術教育研究所』からノウハウ提供を受けています。所長の三森ゆりかさんが実は桐朋女子の卒業生なんです。彼女は中高の4年間、ドイツで暮らしていたことがあり、そのときに大変苦労したそうです。ドイツ語の言語自体の理解はできても、学校で求められる思考方法や読解方法、記述方法がわからなかったそうです。ところが苦労しながらも何とか対処して日本に帰国したところ、日本の国語の授業があまりに簡単で驚いたそうです。それで、日本語とドイツ語という言語の相異だけでなく、母語教育のあり方そのものが異なることを知ったということでした。その相違が欧米全体で行われている『言語技術(language arts)』教育に根ざすものであると気付いた彼女は、ドイツの内容を参考に独自のプログラムを考案したと言うことでした」

英語の4技能と並んで、論理的思考や論理的言語運用技術の育成は、いまの教育の大きなテーマになっている。高校の新学習指導要領では「現代の国語」が必修科目になった。社会生活に密着した実用的な文章読解や論理的思考力を鍛えることに重点を置くため、そこでは小説や詩などの文学的な文章を扱わないことになっている。

しかし斉藤さんは「小説などのフィクションからでも論理的な思考を学べます。言語技術教育の授業でも実際にさまざまなフィクションの文章を用います。小説だってきちんと論理だって書かれていますし、フィクションの作家さんのほうが実は質の高い文章が多いですから」と言う。

なんらかの思想や主張を説明する文章を論理的に読み解くのは当たり前のことである。それしかないのだから。一方で、「ことば≒思考」である以上、小説や詩などの文学的な文章のなかにも当然思考があり、論理がある。文学的な表現の中に込められた論理的構造を読み解く力こそ、本当の思考であると私も思う。

シンプルな実用的文章すら読めない子どもたちに文学の読み方を教えてもしょうがないという意見もあろうが、だからといって「国語」という教科を実用的な文章を読むためだけの教科に貶めてしまうのはいかがなものか。

「国語」と「日本語」は似て非なるものである。「国語」は文化に根ざしたことばである。「雨」という単語でも、使用される状況により含まれるニュアンスが変わる。一方、外国語から見た「日本語」では「雨」は一義的に「rain」である。

シンプルな実用的文章すら読めない子どもが多いという現実があるのなら、「国語」の範疇でも「外国語」の範疇でも「社会科」の範疇でもなく、学問の土台としての「言語」あるいは「論理」という教科を創設してもいいのではないか。

英検合格実績もAO入試合格実績も向上

その点、桐朋女子の言語技術教育は、日本語であろうが英語であろうが中国語であろうが共通の、論理的な思考を補助するツールとしての言語運用能力を鍛えるプログラムだ。そのために、生徒たちにとっていちばん扱いやすい言語である日本語を“利用”し、枠組みとして「英語」の時間を使っているだけの話である。

ただし鍛えているのは使用言語に依存しない論理力であるから、結果として英語力も日本語で小論文を書く力も向上する。実際、言語技術教育を始めた1期生に当たる学年では、英検の合格実績も難関大学AO入試の合格実績も向上した。

それだけではなく、おそらくその他教科にもいい影響を与えているはずだ。言語技術教育は、学問するためのエンジンの性能を上げるような取り組みだからだ。

しかしここで大きな疑問が浮かぶ。そのような能力はいかなる学問をするうえで、もともと絶対的に必要だったはずだ。それなのになぜいま、あたかも新しい技術としてそれを獲得しなければいけないのだろうか。かつてはどうやって同様の技術を身につけていたのだろうか。

以下は、1つの仮説である。学校でものを学ぶ単位である「教科」が「学問」から切り離され、「受験」と密接に結びつけられた。その結果、教科学習においては受験で手っ取り早く点を取る方法が優先されるようになり、かつてであれば各教科教育のなかで当たり前のように行われていた学問的な思考がおろそかにされてきた。それで、テストで点は取れても論理的思考が苦手な子が増えた。

教科書の文章すら読めないといわれることもある現代の子どもたちは、いま、そのツケを払わされているだけではないだろうか。でも、悲嘆することはない。桐朋女子の言語技術教育のようなプログラムを実施すれば、如実に効果を上げるわけである。一方で「教科」を再び「学問」に引き寄せる方法を考えるのも、大人たちの責任であろう。容易なことではなさそうだが。

→学校ホームページ http://www.toho.ac.jp/chuko/

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