「種」としての生き残りをかけた危機に女性リーダーが活躍するわけ

ニュージーランド首相のジャシンダ・アーダーンさん(写真:ロイター/アフロ)

新型コロナ禍において、世界で女性リーダーの活躍に注目が集まっている。

●Forbes Japan

コロナ対策に成功した国々、共通点は女性リーダーの存在

https://forbesjapan.com/articles/detail/33831

●CNN.co.jp

新型コロナ対策、際立つ女性リーダーの手腕 スピードと実行力で拡大阻止

https://www.cnn.co.jp/world/35152496.html

優先順位の付け方、コミュニケーションの仕方の傾向が、多くの男性リーダーとは違うのだろうか。特に今回のような人類の「種」としての生き残りをかけた戦略策定においては、女性リーダーのほうが向いているのかもしれない(もちろん女性であれば誰でもいいとか男性ではダメだとかいう意味ではないのだが)。

その理由は、もちろん明確に言語化などできるはずもないのだが、これまでの取材経験を通して、なんとなく私にも思い当たる節がある。参考まで、拙著『新・女子校という選択』(2019年、日本経済新聞出版社)の最終章に述べたことをここに転載する。

今後、宇宙人が突然地球を襲うようなパニック映画がつくられるなら、そのシナリオにおけるリーダーは女性であり、多くのひとがその設定を合理的と見なす確率が高いと私は思う。

『新・女子校という選択』の取材成果をふまえたうえで、さらに先行きの見通せないこれからの時代を生きる世代を育てる親の心構えを女子校の教員に聞いてまとめた近著に『21世紀の「女の子」の親たちへ』(2020年、祥伝社)もあるので、あわせて参照されたい。

女子校の不思議な文化

最後に蛇足ながら、取材を通して発見した、これまで論じてきたこととはまったく別の観点からの女子校の存在意義についても触れておきたい。

おそらくこれは、私がエビデンスを集める学者ではなく、現場で見たこと感じたことを伝えるジャーナリストだから言えることであり、言わなければいけないことである。要するに取材に基づいてはいるがあくまでも私の主観であり、そこにどのような評価を与えるかは読者であるみなさんの自由であることを前提に述べる。

女子校で「御校の名物を教えてください」と聞くと、次のような答えが返ってくることが多かった。

「運動会のクライマックスで、高三が披露する伝統の踊りがあります。卒業生であればみんな踊れます。孫が踊るのを見ながら、『私だってまだ踊れる』と胸を張る高齢の卒業生もいます。毎年あの時間には、踊る本人たちも観客たちも、感極まります。その舞いを見て、下級生たちは、いつか自分たちも先輩たちのようになりたいと憧れます」

「御校の名物」と尋ねたにもかかわらず、同じ答えが返ってくるのである。その情景を思い出しながら、取材のその場で目を潤ませる教員もいる。「六年間の教育の象徴的シーンである」という教員もいる。その舞いが、学校にとって、ただならぬ意味をもつことが伝わってくる。男子校にはそのような文化はない。

いくつかの女子校では実際の映像も見せてもらった。たしかに見事な舞いではある。しかし正直にいえば、部外者にとっては、運動会の踊りでしかない。その何が女子校関係者の心の琴線を振るわせているのか、共感の糸口を探そうにも難しい。私は、頭の中の棚に「女子校の不思議な文化」というラベルをつけ、そのことをしまい込んでいた。

謎が解けたのは、第四章で紹介したフリーアナウンサー・渡辺真理さんのインタビューの最中だった。渡辺さんが何気なく語った言葉の美しさと力強さに受けた衝撃をいまでも忘れられない。

「伝統とは外に向かって誇るものではないと思うのです。自己満足でいいのかもしれない。受け継ぎたいと思っているひとが、静かに受け継いでいけばいい。受け継ぎたいという『願い』が継承されることが伝統ではないかと思います。そして、それが恐らく、とてつもない財産なのではないでしょうか」

本書執筆のための取材も最終局面となったときに出会ったこの言葉。巨大なパズルの最後のピースをようやく見つけた思いがした。

女子校の存在意義や教育上のメリットを見出すため、数十人の女子校関係者に会い、パズルのピースをかき集めてきた。そしてたどりついた最後のピースをはめ込んだとき、そこにはこう書かれていたのである。

「女子校の存在意義は、外に向かってアピールするようなものではない。その伝統を受け継ぎたいと思うひとがいることこそが存在意義である」

それ以上の意味が必要であろうか。

女子校がいいと思っているひとたちがいるのだから女子校を存続せよなどという理屈をいっているのではない。理屈を超えて、抗いようのない大きな力の存在を感じるということだ。

理屈抜きで受け継ごうとする本能

私は、女子校の存在意義を可視化しようと意気込んでいた。しかし、最後に胸を打たれたのは皮肉にも、可視化・数値化できないものに価値を見出し、共感し、理屈抜きに守ろうとする、女子校に脈々と受け継がれる文化の美しさであった。

そして大げさに聞こえるかもしれないが、それが、男女という性を超越した生命の源「母性(あるいは、愛)」というものの正体なのかと、私は思い至った。

先に引用した『できそこないの男たち』https://amzn.to/2SqewmTの一節に「メスからメスへ、女系という縦糸だけで長い間、生命はずっと紡がれていた」とあるように、生命の本質とは縦糸としての女性であり、女性の本質とは理屈抜きで受け継ごうとする本能であり、理屈抜きで受け継ごうとする本能こそ母性である。

女子校に吸い寄せられた彼女たちのなかにもともとあった「母性」を集中的に震わせることによって、彼女たちは理屈抜きで自分たちの宿命を受け入れる存在へと覚醒する。その象徴的瞬間が、高三の舞いなのではないだろうか。それがまた見る者の心の奥底にある「母性」を揺さぶるのではないか。

そこまでを理解してから、私は幸いにもある女子校の運動会を最初から最後まで間近で見る機会を得た。クライマックスで涙しながら舞う高三の生徒たちの美しさを見て、私の脳裏には曼荼羅が浮かんだ。時空を超えた宇宙そのものを実感した。私は完全に心を打たれていた。この感覚こそ、外に向けてアピールできるものではなく、中に入ってこそ感じられると渡辺さんが言っていた価値なのだと腑に落ちた。

キャリア教育、グローバル教育、道徳教育、奉仕活動、礼儀作法……時代や学校によって女子校の打ち出す教育内容は変わる。しかし、根底にあるものは変わらない。損得勘定を超えて、理屈抜きで受け継ぐ本能。それ自体が目的であり手段である。

このような結論に至るとは私自身、まったく予想していなかった。改めてこう書くと、我ながらあまりに陳腐な結論に思えてならないし、何より性差別的な誤解を招くといけないので、最後にもう少し「母性」について説明を加える。

ここで「母性」と括弧をつけているのにはわけがある。母性という言葉が狭義に解釈されては困るからである。括弧をつけた「母性」は父性の反義語ではない。ここでいう「母性」とはすべての生命に宿された「宿命」のことであり、普遍的な意味での「愛」のニュアンスを含んでいる。女性の劣化コピーである「できそこないの男たち」にももちろんある。

次世代を産み育むことは、あらゆる生命に植え付けられた本能。生きとし生けるすべてのものの営みのメインストリームである。自分たちの命を生かし、次世代につなげるためにこそ、糧を得るのであり、それをよりたしかなものとするためにこそ人間は群れをつくり、むらをつくり、弱者優先の社会をつくることで発展してきたはず。つまり、高度に文明化された社会も、グローバルな経済活動も、もとはといえば「母性」を守るため、「母性」によってつくられた。それこそが目的であり手段である。

しかしいつしか、糧を得ること自体や、社会や経済を継続させることが私たちの目的であると考えられるようになり、子どもを産み育てることはむしろ、メインストリームから外れることであるとされるようになった。

本末転倒。完全なる錯覚である。

ここで、さきほどの女子校と男子校が向かい合う鏡の関係におけるねじれとそれに対する私の推察を敷衍するならば、経済活動優先の現代社会は、妊娠や出産や授乳という直接的な形で「母性」を示すことができないオスたちが、自分たちがもつ別の価値を誇張してみせるためにこつこつと築き上げた壮大で巧妙な舞台装置だといえるかもしれない。

だとすれば、文明のはじまり以来オスたちは、自分たちの中にも必ずある「母性」をあえて軽視するような反生命的な文化を半ば意図的に発展させてきたのだともいえる。それが、戦争、環境汚染、差別などの人類の愚かさを生み出している。

しかしオスがいない女子校という環境では、「母性」すなわち理屈抜きで受け継ごうとする本能が生き生きと覚醒するのを私はこの目で見た。これが、オスに最適化された現代社会を内側から溶かす溶剤になるのではないか。

女性がジェンダー・ギャップを乗り越えるためだけでなく、何千年もかけて構築された社会の歪みを内側から溶かして再構成するためにも、女子校が重要な役割を果たすのではないかと私は思う。

その意味で、文明社会はいま、さなぎの時期を迎えようとしているのかもしれない。「母性」の価値が再評価され、妊娠や出産や授乳ができなくても広義での「母性」を発揮することはできることを男性も学べば、社会は大きく変わるだろう。