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【緊急企画】教育虐待への予防接種としての『中学受験「必笑法」』一部公開

おおたとしまさ育児・教育ジャーナリスト
イメージ(写真:アフロ)

いま「教育虐待」という言葉が注目されています。現在名古屋地裁では、教育熱心な父親が中学受験生の息子を刺し殺してしまった事件の公判が開かれていることもあり、いま特に中学受験における教育虐待が話題になっているようです。さきほどまで私も傍聴していました。いたたまれない気持ちになります。

7月12日に新刊『ルポ教育虐待』が出ることもあり、私も連日のように各種メディアからの取材を受けています。そこでよく聞かれるのが「どうやったら教育虐待は防げるのでしょうか」という問いです。そこで拙著『中学受験「必笑法」』の一部をここに公開することにしました。

はっきり言ってしまえば、教育虐待と中学受験について長年取材してきた経験から、中学受験で教育虐待の悲劇を起こさないための「予防接種」として書いた本です。もしかしたら、中学受験当事者にとっては読んでいてちょっぴりチクッと心が痛く感じることがあるかもしれません。予防接種ですから。でも親がその痛みと向き合わないと、子供がもっと痛い思いをするかもしれません。

少しでも役に立つと感じたら、少しでも悲劇を減らすために、シェアをお願いします。

中学受験をやめたほうがいい親の特徴

 中学受験は両刃の剣。やり方を間違えると親子を壊す凶器にもなります。

 中学受験の最悪のシナリオとは、全滅することではありません。途中で子供や親が壊れてしまうことです。

 親子を壊すいちばんの原因となるのが、「全滅したらすべてが水の泡」だとか「第一志望に合格しなければ意味がない」というような「ゼロか百か思考」です。

 ちょっとでもつまずいたとたんに不安に振り回されるようになり、冷静な判断ができなくなるのです。気付いたときには親も子もボロボロ。そこまでのリスクを冒して中学受験をする意味はどこにもありません。

「うちの子は中学受験に向いていなかった」「これ以上やっても苦しめてしまうだけかと思って」と、中学受験を途中離脱する家庭もあります。熟慮のうえのことならば、それもきっと正しい選択です。

 ただ、ひとつだけひっかかります。右記のような表現だと、「子供が中学受験に耐えられなかった」というニュアンスが強く感じられます。でも実際は、心が折れてしまったのは子供ではなくて親のほうではないかと思うケースが、圧倒的に多いのです。

 塾に通い、家でも毎日何時間も勉強し、週末にはテストを受け、その容赦のない結果が送りつけられるという生活に最初から慣れている子供などいるわけがありません。

 ふがいないわが子を見て、多くの親は胸を焦がします。がんばってほしいという応援の気持ちとは裏腹に、口を突いて出る言葉は罵声だったりします。そんな自分に嫌気がさして、「もうやめたい」と思うのではないでしょうか。

 それを子供のせいにしてはいけません。

 子供の心が折れてしまいそうなら、本人とよく話し合い、中学受験をやめるという選択も大いにありです。でも親が勝手に戦線離脱してしまったとしたら、子供に与える傷の深さは計り知れません。

 世間一般にある「中学受験残酷物語」のイメージは、このような親子から生まれたのではないかと思います。でも実際は中学受験が悪いのではなく、やり方が悪いのです。

「中学受験必笑法」の奥義は、極端な言い方をすれば、「たとえ全滅しても『やって良かった』と思える境地」に至ることです。

 それができれば逆に、全滅のリスクは限りなくゼロに近づけることができますし、「納得できる合格」を手にしてその学校に堂々と通い、「この学校に来られて本当に良かった」と思うことができるようになるはずです。そうすればその中学受験は大成功です。

 ではここで、中学受験を大成功で終えるために重要な、親の心構えを5つ紹介しましょう。

●中学受験生の親がもつべき心構え(1)

努力が報われないこともあるという現実を受け入れる

 どんなに優秀な子がどんなに努力したって必ず第一志望に合格できるとは言い切れないのが中学受験。その現実を受け入れる覚悟をまず親自身がもつこと。それが中学受験を志す子の親が最初にすべきことです。

 実際、中学受験において、第一志望に合格できるのは3割にも満たないといわれています。さらにその前提として、小4、小5、小6と学年が上がり、模試を経験するなかで、当初思い描いていた超難関校をそっとあきらめ、現実的に手の届く可能性のある学校を実際の第一志望にするケースは膨大にあるはずです。

 ある私立中高一貫校の教員は、ため息交じりに教えてくれました。

「入学するなり、本校に対する不満ばかり言う保護者がいました。どうもうちが第一志望ではなかったらしいんですね。親がそうなら子もそうなる。親子で散々本校の悪口を言った挙げ句、5月には地元の公立中学に転校してしまいました」

 親が悪口を言う学校に毎日通わなければならない子供の気持ちを想像してみてください。胸の痛みを紛らわすために、親といっしょになってせっかく合格した学校を否定したのではないでしょうか。転校すればその傷は癒えるのでしょうか。だといいのですが……。

 これを「第二志望でも納得できないという病」と呼びます。

 思春期前のこの時期には、子供は自分の価値観よりも親の価値観を通して世の中を見ています。それが絶対的な価値観であると信じて疑いません。自分の努力の結果が親を落胆させるものだったとしたら、子供の自己肯定感は下がります。それが中学受験の大きなリスクのひとつです。

 逆に言えば、親が、子の努力を評価し、どんな結果であろうとたたえることができれば、子供の自己肯定感の低下は阻止できます。

 結果がどうであれ、中学受験という経験を「大変だったけれど良い経験」として心に刻むか、「つらいだけの残酷な経験」として心に刻むかは、親の心構え次第なのです。

●中学受験生の親がもつべき心構え(2)

「何が何でも」というこだわりを捨てる勇気をもつ

 受験を終え、もし第一志望合格という結果ではなかった保護者には「第一志望の存在は、この子のやる気を引き出し、能力を伸ばしてくれたけれど、いま、この子にとっていちばんいい学校は、こちらの学校だったのだ。神様は、努力した者に、最善の結果を与えてくれたのだ」という健全なるルサンチマンを感じてほしいと私は思います。

 ルサンチマンの例として有名な、イソップ童話の「キツネとぶどう」。物語のなかでキツネは、負け惜しみを言うだけの哀れな存在として描かれています。しかし本当にそうでしょうか。

 キツネがぶどうをあきらめることができたのは、視野を広げられたからです。まわりに森があり、ほかにいくらでもおいしいものがあることに途中で気付いたからです。もし一房のぶどうだけが命をつなぐ糧であると思い込んでいたら、キツネはルサンチマンを感じることもなく、いつまでも手の届かぬぶどうを恨めしく思いながら、息絶えたことでしょう。

「何が何でも御三家合格」とか「偏差値60以下の学校は意味がない」などと言って、目の前の一房のぶどうしかこの世に存在しないと思い込むことが、「第二志望でも納得できないという病」の本質です。

 がんばれば手が届きそうだと思えているうちはいい。しかし、ぶどうの木に近づいてみてはじめてその高さに気付いたり、タヌキやカラスも同じぶどうを狙っていることに気付いたりすると、焦ります。身の丈以上に背伸びをしたり、まわりを出し抜こうとがむしゃらにがんばりすぎ、疲弊し、ぶどうの木に手をかける前に倒れてしまう。

 大手進学塾に通う生徒向けに、補助的な個別指導を行う塾の保護者相談会に参加したときのこと。

「成績が伸びません。娘の塾の勉強を毎日見ていますが、授業の内容をほとんど理解できていないように感じます。それでどうしても怒鳴ってしまう……。塾の宿題を全部やらせようとは思っていませんが、あまりにも時間が足りません。どうしたらいいかわからない……」と、いささか取り乱し気味に訴える父親の目は、文字通り血眼でした。

 子供の成績が伸びないから取り乱しているのか、父親がこのような状態だから子供も萎縮して成績が伸びないのか。卵が先か鶏が先かです。

 別の個別指導塾に通うある小学6年生の母親は、涙ながらに告白してくれました。

「模試の成績で偏差値が下がるたびに不安になり、もっとやらせねばならないと焦り、怒鳴り、わが子を罵倒しました。あの参考書がいいと聞けばそれを買い、『これもやりなさい』とさらに負荷をかけました。いま思えば、自分自身が不安に押しつぶされそうになるのを防ぐために、子供を追いつめていました」

 幸いその母親は、受験のプロのカウンセリングを受け、悪循環から脱しました。すると、子供の成績も伸びたそうです。

 いずれの例も、詳しく聞けば、偏差値的には「どこの学校にも入れそうにない」という成績ではありません。でも「このままでは目指す目標には届かない」という焦りから、不安にとりつかれたのだと考えられます。  第一志望に大きな憧れを抱き、受験勉強のモチベーションにすることは大切なことです。しかし、第一志望しか見えなくなると危険です。

 失うものが大きいと感じれば感じるほど、不安も大きくなります。大きな不安を抱えると、その不安に自分自身が振り回されます。その悪循環にはまりやすいのは、受験生本人ではなく、親のほうです。それが、中学受験で親子が壊れ自滅する、典型的なパターンなのです。

 本来であれば受験終了後に発症する「第二志望でも納得できないという病」は、受験勉強のさなかから、親の心に病巣を構え、親子をむしばむことがあるのです。

●中学受験生の親がもつべき心構え(3)

受かった学校が最高の学校だと信じる

 逆に、必ずしも第一志望に合格したわけではなくても「中学受験に成功した」と言う親には共通する何かがあると、多くの取材経験のなかで私は感じました。

 ある母親は「中学受験ができるなんて、あなたはうらやましい! 私は地元の中学校に行って、地元の公立高校に行くしかなくて、自分では何も選べなかった。自分で自分の行く学校を選べるひとなんて、この広い世界のなかで、そうそういないのよ。受験勉強は、自分の努力次第で自分の通う学校の選択肢を増やすこと。そのチャンスを活かさない手はないでしょ!」と、ことあるごとに娘に言って聞かせたそうです。

 娘もその気になって中学受験にのぞみました。そういう視点で考えれば、どこの学校も魅力的に見えたと言います。結果、見事第二志望合格をつかみます。「中学受験は親子にとっていい経験となった」と振り返るその姿は、自信に満ちあふれ、すがすがしくもありました。

 母親は「私は自分の会社を経営する経験から、物事なんでも思うようには進まないということを身にしみて知っていました。ましてや自分ではなく、子供の受験。自分が思うようにことが運ぶとは想定しません。一方で、これも経営者としての経験から、どんな結果であれ、なるようにはなるということも知っていました。だから子供の受験に対しても大きく構えていられたのだと思います」とも語ってくれました。

「大変ではあったけれど、振り返れば中学受験は自分たちにとっていい経験」と胸を張る親子は、もともと「自分にとっていちばんいいところに決まるはず」というブレない信念をもっていたケースが多いのです。そのような信念をもつことで、どんな結果も前向きに受け入れることができるようになるのはもちろん、受験勉強のさなかにおいても、子供は余計なプレッシャーを感じることが少ないので、もてる力を発揮しやすくなるのでしょう。

 中学受験を終えたばかりのある母親は次のように話してくれました。

「6年生の冬、いよいよ大詰めというころ、誰に言われるでもなく自分から机に向かい、目の色を変えてがんばる息子の姿を見たとき、息子の成長を感じました。目標のために自ら机に向かうようになるなんて『ずいぶん成長したなぁ』と涙が出そうでした。その時点で中学受験をして良かったと本気で思えてからは、合否が怖くなくなりました」

 また中学入試本番を間近に控えた別の6年生の男の子は、「いくつか学校を受けるだろうけど、どこの学校が楽しそう?」と聞く私に、こう返事してくれました。「第一志望はあるけれど、どこの学校に行ったって、僕が行けば楽しくなるよ」。そう思えたら、その時点で、その子の中学受験は成功確定です。

 子供が第一志望まっしぐらにがんばるのはいいことです。高望みだってどんどんすればいい。しかし親まで合格という結果ばかりを見ていると、いま、目の前で努力する子供の成長に気付けなくなることがあります。

 小学4年生で塾に通い始め、小学校では習ったことのないような難問にもあきらめずに取り組むようになる。テストの結果に一喜一憂し、「次はもっとがんばるぞ!」などと目標を立てたりするようになる。親の期待だってひしひと感じている。「親を喜ばせたい」という気持ちも当然もっている。しかし、親が「結果がすべて」と思っていたら、これらの成長は合格という形でしか報われません。

「いま、ここ」での子供の努力と成長に目を向け、励ますことを、中学受験を志す子の親は忘れてはなりません。それを忘れなければ、前述の母親の言葉通り、合否が怖くなくなるはずです。「成績が上がってほしい」と切実に願う一方で、「成績が上がらなくても、この子が精一杯がんばって力を出し切れるのなら結果はどうでもいい」と心の底から思えるようになる不思議な体験をするはずです。

 それはすなわち、ありのままの子供を受け入れられるようになるという意味でもあります。それが、親子で中学受験を経験することの最大の効能だと私は考えています。

●中学受験生の親がもつべき心構え(4)

わが子の才能を最大限に評価するモノサシを持つ

 同じように勉強しているはずなのに、わが子よりもよその子のほうが成績が良かったりすると、悔しくなるかもしれません。悲しくなるかもしれません。

「やり方が悪いのだろうか」「どうやったらあの子よりいい成績をとらせてあげることができるのだろうか」。親は思い悩み、「頭が良くなる系」の雑誌や本に手を伸ばすかもしれませんが、それで効果が出るのなら、世の中とっくに「頭がいい子」だらけになっているはずです。

 ひとはそれぞれ、生まれつきもっている才能が違うといえば違う。そしてそれらは、一つのモノサシで優劣をつけ、並べられるものではありません。マラソン選手と、短距離走選手と、どちらの運動能力が高いのかと問われても、それを比べるモノサシがないのと同じです。

 一般的なペーパーテストの点数に表れる「学力」とは、記憶力、思考力、表現力など、実はさまざまな個別の能力の最大公約数的な数値です。バランスがとれている子供のほうが高く出る傾向があります。逆に、どこか一部が天才的に突出していても、テストの点数には表れにくい。

 テストの点数に象徴される「学力」は、その子の能力を推し量るひとつの目安にはなりますが、それがその子供の才能のすべてを言い表しているわけではないことは言うまでもないでしょう。

 であるならば、親がまずすべきことは、わが子の才能を最大限に評価できる独自のモノサシを持つことではないでしょうか。社会一般に用いられているモノサシでわが子を測り一喜一憂するのではなしに。

 毎日コツコツがんばる力、良くない成績にも凹まない明るさ、難問にも果敢に食らいつくガッツ、自分が勉強で疲れているのに親のことまで気遣う優しさ、つらいときにはつらいと言える素直さ……。よその子に負けない才能をたくさん見つけ、中学受験という機会を通してそれをさらに伸ばしていることに常に注目してあげましょう。

 そうすれば、よその子と比べたりしようとも思わなくなるはずです。

●中学受験生の親がもつべき心構え(5)

第一志望以外はすべて第二志望だと考える

「第二志望合格ならまだいい。第三志望もダメ、第四志望もダメとなったらどう考えればいいのか」という指摘もあるでしょう。これにはちょっとしたコツがあります。

 第一志望は、子供のモチベーションを高める憧れの学校。でも、それ以外はすべて第二志望と考えるのです。

 詭弁に聞こえるかもしれません。たしかに模試を受ければ第一志望から順に志望校を記入することになります。しかし、それを偏差値順に書かなければいけないという決まりはありません。

「この学校もいいね。こっちの学校も良さそうだね」などと、受験するどの学校にも入りたい気持ちを盛り上げるのが親の役割です。文化祭やオープンキャンパスに参加して、各学校のいいところをたくさん見せれば、子供には偏差値表など見せなくてもいいでしょう。「ぜんぶ受かっちゃったらどこに行くか迷っちゃうね」などとのんきなことを言っていればいいのです。

 実際、私はこれまでたくさんの学校を取材してきました。その経験から断言できます。偏差値が5や10違ったって、教育内容に大した差はありません。長い歴史のなかで生き残ってきた私立の学校は、総じてどこの学校も恵まれた環境であり、いい学校です。

「これからはグローバル。世界のどこへ行っても通用する人間にならなければいけない」と言われているにもかかわらず、狭い日本の一部地域に密集する中高一貫校のなかで「こっちの学校はいいけれど、この学校じゃダメ」だなんて言っているようでは、それこそ先が思いやられるというものです。

「あなたのため」は呪いの言葉

 わが子に中学受験をさせようというような親は、例外なく教育熱心です。わが子のためなら何でもする。そんな覚悟が感じられます。しかし皮肉にも、教育熱心過ぎる親が、子供を過度に追いつめてしまうことがある。それを近年「教育虐待」と呼びます。いわば「中学受験のダークサイド」です。

「虐待」などというとひどい親を思い浮かべるでしょう。しかし、教育虐待をしてしまう親のほとんどは「あなたのため」だと本気で思っているのです。中学受験生の親であれば、誰でも加害者になる可能性を秘めています。

 最悪の場合、命にもかかわる問題ですが、そもそも教育虐待は気付かれにくい。追いつめられた子が親を殺す事件は、大きく報道されますが、追いつめられた子が自殺した場合には、原因もよくわからないまま、自殺件数の一つとして記録されるだけで終わってしまいます。

 高学歴が得られるのであれば、怒鳴ろうが、叩こうが、心を傷つけようが、結果オーライではないかという考え方があるのかもしれません。それで実際に受験の“勝ち組”になっていく子供たちもいるのでしょう。

 しかしそれで潰れてしまう子供もいます。A君が厳しく勉強させられて最難関中学に合格したからといって、まったく同じ質と量の勉強にB君が耐えられるとは限らない。たまたまそういうことに対する耐性があるかないかの違いです。

 また、仮に受験の世界では“勝ち組”と呼ばれるような結果を残しても、実は教育虐待の被害者が、大人になっても精神的に追いつめられ続けていることがあります。世間的には「成功者」と思われているひとが、実は心に深い闇を抱えており、常に不安や恐怖を感じていることもあるのです。

理性の皮を被った感情による暴力

「これくらいのことができないなら死んでしまえ!」とか「あなたはクズ」などとむやみに怒鳴ったり叩いたりする親は、実は少数派ではないかと思います。多くの親は、子供を叱るのに十分な理由を見つけてから、その正論を振りかざします。「この子が約束を破ったから、そのことを叱っている」などと、親には親なりの理屈があるのです。そうやって「自分は感情的に怒っているのではない」と自分に言い訳しながら、しつけや教育的指導と称して罵声を浴びせたり、罰を与えたりするのです。

 しかし結局のところ言外に伝えているメッセージは、「あなたは自分で言ったことも遂行できないダメ人間だ。だから成績が悪いのだ」です。子供に反論の余地はありません。逃げ場を塞がれ、完全に追いつめられる。

 いわば、理性の皮を被った感情による暴力です。

 自律を学ばせるために、親子でルールを話し合い、それを守らせること自体は立派な教育です。しかしやり過ぎれば約束を盾にした容赦ない攻撃になってしまいます。どこからが「教育虐待」なのか、明確な線引きはきっとありませんが、親であれば誰でも一度や二度、「もしかして、必要以上に傷つけてしまったかも……」と思い当たる節があるのではないでしょうか。

●子供を追いつめるNGワード(1)

「どうしてできないの?」

「どうしてできないの?」は、子供の勉強を見ているとつい言ってしまう言葉の代表格でしょう。

 本来であれば、「この子はなぜこんな簡単に見える問題が解けないのだろう。この子にとってはどこが難しいのだろう。どうやったらこの子にもこの問題の解き方がわかるようになるだろうか」と考えるべきところであるはずですが、つい「どうしてできないの?」というひと言に集約されてしまう。

 すでにそこには「どうして?」という優しい問いかけのニュアンスはありません。「こんな問題ができないあなたはバカだ」という言外のメッセージが、子供を直撃します。いわば「疑問」の形をした罵声です。

 まわりの子供たちができているのになぜうちの子だけできないのかと思うことは、中学受験勉強のなかでたびたびあるでしょう。でも勉強に限らず一般論として、みんなができるようなことは、そのときが来さえすれば誰でもできるようになるものです。

 それでも親は焦ってしまう。「今度のテストまでにできるようにしなければ」などと思うから。だから、「いまはできない」という子供の現状を受け入れることができない。子供をいま、この瞬間に変えてやろうと思ってしまう。

 それでもってプロでもないのにあの手この手で教えようとします。でも教え方もうまくはないので子供はますます混乱する。自分は一生懸命教えているのに、それを理解してくれない子供にますます腹が立つ。そこでつい「どうしてできないの? ちゃんと考えなさい!」と言ってしまうのです。

「どうしてできないの?」と言われても、本人だってどうしようもありません。何の解決にもならない非生産的なフレーズです。それどころか、問いつめられれば問いつめられるほど、頭は真っ白になるものです。できない自分のイメージが強化されます。だからますますできなくなります。

「どうしてできないの?」が口を突きそうになったときにはぐっとこらえて、まずは深呼吸でもしましょう。どうすればできるようになるのか、うまいサポートの仕方をちゃんと考えなきゃいけないのは親のほうなのです。

●子供を追いつめるNGワード(2)

「やるって言ったじゃない!」

 もう1つ、よくあるのが「約束」です。

 たとえばテストで悪い点をとってしまったとき、その成績を見ながら親が説教を始めます。でもその場では激高しません。「どうしてこうなったと思う?」「これからはどうする?」などと、あくまでも冷静に、原因と対策について話し合う姿勢を見せます。

 ヘビににらまれたカエルのような状態の子供は、反省点と改善策を話すでしょう。「具体的にはどうするんだ?」と親はさらに問いつめます。たとえば「これからはテレビゲームをやる時間を減らして、毎日3時間勉強する」などと、子供は応対するしかありません。ほとんど誘導尋問ですが、こうやって子供は約束させられるのです。

 約束したときには子供も本気です。でも人間そんなに強くはありません。ましてや子供。しばらくすると気が緩み、約束が破られてしまうということが起こります。

 これが赤の他人同士なら、多少約束が不履行になっていても気付きません。しかし同じ屋根の下で暮らす家族同士、しかも親子であれば、約束不履行はすぐに発見されてしまいます。

「あなたは約束を破った」「やるって言ったじゃない!」。親はそのことを責めます。約束を破るのは人の道に反することだとされているので、親はそれを厳しく叱る正当性を得たのです。子供は言い逃れができません。完全に追いつめられてしまいます。勉強ができないことを叱られるだけでなく、人格まで否定されてしまうのです。

 毎日の運動が持続できない、つい間食をしてしまう、ストレスのせいで深酒をしてしまうなど、親にだって人間としていたらない部分はたくさんあるはずなのに、それを棚に上げて、子供には完璧を要求してしまうのです。

イラ立ちの原因は必ず自分のなかにある

 わが子が簡単な問題でミスをするからイラ立つのではありません。子供にとっては難しい問題であっても、「これは簡単な問題だ」と決めつけるからイラ立つのです。

 簡単な問題を間違えてしまうことは誰にだってあるはずです。それなのに、「簡単な問題は100%正解しなければいけない」という信念をもっているからイラ立つのです。

 大方の簡単な問題は正解しているのに、視野を全体に広げようとせず、たまたま間違ってしまった1問や2問にだけ意識を向けるから、イラ立ちが収まらないのです。

 イラ立ちや怒りを感じたとき、まずその原因を自分以外の何かに求めるのをやめましょう。そして、自分のなかのどんな信念や思い込みがイラ立ちや怒りを継続させているのかを考えてみてください。イラ立ちや怒りを完全に取り除くことは難しいかもしれませんが、わが子だけを悪者にする心理からは抜け出せるはずです。

 つい子供を叱り過ぎてしまったり傷つけてしまったりということは、誰でも経験します。でも、勇気をもって自分の未熟さと向き合うことができれば、どこかでブレーキがきくようになります。そうやって少しずつ、手前でストップができるようになればいいのです。そうやって親も成長していくのです。

 プロの塾講師であっても、「わが子だけは教えられない」と苦笑いをするのを私は何度も見ました。お預かりしている子供であれば、プロとして客観的な立場に立って適切な指導ができます。しかし、わが子となると、プロの塾講師でも、どうしても感情的になりやすいというのです。子供のほうも、相手が自分の親だとつい甘えが出てしまう。それがまた、親からすると許せなかったりする。そして、親子関係が悪化するのです。

 プロですら難しい。ましてや素人の親がわが子に勉強を教えるのは、あまりにリスクが高いと断言していいでしょう。子供にとってはありがた迷惑もいいところ。

 ある塾講師は私にこう教えてくれました。「親が下手に教えて子供を凹ませてしまうくらいなら、わからないままにしておいてくれたほうが、こちらとしては何倍もやりやすい」。

 多くの塾で「保護者は勉強を教えないでください。子供の勉強を見守り、励ます、サポーターに徹してください」と訴えるのはそのためです。

 ある意味では、中学受験は残酷なまでに親の未熟さをあぶり出すイベントです。わが子がテストの結果と真摯に向き合い努力を重ねているというのに、親が自分の未熟さから目を背けていては、親子関係がギクシャクするのは当然です。結局のところ、中学受験を笑顔で終えられる親子とは、子供のみならず親自身も、中学受験という機会によって自らを変え、成長できた親子なのです。

親のエゴが暴走する

 巷には「頭が良くなる勉強法」や「東大に合格するための習慣」などの本がたくさんあります。しかし人間はロボットではありません。誰かの成功体験をそのままあてはめても、同じような結果が出るとは限りません。当たり前です。

 しかしダークサイドに堕ちてしまった親にはそれがわかりません。「自分はさまざまな方法を調べて、正しいやり方でわが子を教育しているのに……。うまくいかないのはこの子がちゃんとやっていないからだ!」となってしまいます。その焦りが、過度な叱責や強制的な勉強につながります。

 そもそも教育によって得られる成果はひとによって違います。あるひとは勉強して身に着けた知識と技能を利用して、画期的な発明を成し遂げ、大金持ちになるかもしれません。あるひとは勉強して身に付けた教養とコミュニケーション能力で、たくさんの仲間をつくり社会を変革するかもしれません。またあるひとは数学の世界にのめりこみ、食べることも忘れて数式の美しさに没頭するかもしれません。

 さらにその成果は、教育を受けたその瞬間に表れる場合もありますし、数十年後に表れることもある。それこそ、ひとの数だけ、勉強の意味があるといえます。

 つまり、その子供が勉強して何を得るのかを、予言することはできません。要するに、勉強の価値は、やってみなければわからない。教育とは本来、「こうすればこうなる!」と効果をうたえない類の営みなのです。

 たとえば中高6年一貫教育といっても、その教育の目的はあくまでも生徒の人生を豊かにすることであり、6年の間に即時的に効果を発揮することではありません。希望する進路を実現させたりテストの点数を上げたりすることは教育の必要条件ではありますが、十分条件ではありません。「いい学校」に通って希望の大学には入れたけれど、なぜだか人生はうまくいかないというのでは意味がありません。少なくとも私がよく取材するような学校の先生たちは、そう考えています。

 しかし実際は「こうしたらこうなる!」と効果をうたう教育系コンテンツや、「これからのグローバル社会を生き抜くために」という脅しの文脈で不安をあおりお金に換える怪しい教育類似商法が氾濫しています。教育にわかりやすい成果を求める風潮を利用したビジネスです。ビジネスの原理が教育を汚染しているといってもいいでしょう。

 ビジネスとは、お互いにとって価値あるものを即時的に等価交換するしくみです。教育に無理やりビジネスの原理をあてはめるとどうなるか。教育にも、予言できる成果が求められるようになります。大学進学実績や偏差値のような“わかりやすい”数字ばかりが注目されるようになります。

 教育の価値が数値化されると、子供の価値も同じ数値で測られるようになります。「あの子は○○学校の子、あの子は△△学校の子。○○学校の子のほうが格が上」とか「あの子は偏差値60、この子は偏差値40。偏差値60の子のほうが出来がいい」とか。

 果ては、それがそのまま親の能力までを物語るようにもなります。「あの子の親は、息子を○○学校に入れたからすごい。この子の親は、娘を△△学校にしか入れられなかったからたいしたことない」など。

 このような風潮のなかにいれば、「できる親」の証しとして、子供を有名中学に合格させたいと思う欲求が強まるのも無理はありません。もはや子供のためでなく、自分の見栄のために、子供に勉強を強いるのです。

 こういった状況が教育虐待に拍車をかけているとも考えられます。

「親は無力」という悟りの境地へ

 ちょっと気が早いかもしれませんが、第一志望入試本番当日を想像してみてください。

 忘れ物がないかと何度も確認して、家を出ます。電車にはほかにも、中学入試に向かうとおぼしき親子の姿が見られます。

 学校に到着すると塾の先生たちが校門の両脇に並び、自塾の生徒たちを励まします。ちょっとうるさいくらいです。

「保護者の付き添いはここまで」というところで、わが子を見送ります。もうかけるべき言葉すらありません。ただ目を見て、無言でうなずきます。「大丈夫。自分を信じて」。そう念じながら。その思いが伝わったかのように子供も無言でうなずき返します。

 その瞬間を最後に、わが子は自分に背中を向け、もう振り返りません。自分の目標に向かって前だけを見て歩み始めます。その背中が、初めて塾に通い始めたときとは比べものにならないくらいに大きく見えるでしょう。

 そうやって不安な気持ちでいっぱいになりながら子供の背中を見守るしかないというのが子育ての本質であり、そのこと自体がこのうえなく幸せなことなのではないでしょうか。そのことを強く実感できるのも、中学受験という機会がもたらす宝物だろうと私は思っています。

 志望校合格という目標に向かって親子で全力を尽くして、泣いたり笑ったりする約3年間の末に、親はようやく悟るのです。

「結局のところ、親は無力である」と。

 思い返せば、塾に通い始める前はろくに勉強もしなかった子が、最後にはまがりなりにも自分から勉強するようになりました。難問にはすぐに音を上げていた子が、どんな難問にも果敢に挑戦するようにもなりました。そんな成長を間近に見て、親は、「この子は、最後はがんばる子。自分で自分の人生を切り拓く力のある子」と確信します。

 子供だって、親が自分のために少なくない犠牲を払ってくれていることを知っています。ときどき衝突することはあっても、自分のことを大切に思ってくれていることは間違いないと確信しています。言葉には出さなくても感謝の気持ちが芽生えます。そして、できれば、親を喜ばせたいと思っています。

 この時点でもうすでに、中学受験は成功しているのです。

 その土台があるからこそ、中学受験を終えて、本格的な思春期が始まったときにも、表面的には親子の衝突をくり返しながらも、お互いの心の底では相手を信頼する気持ちが揺るぎません。子供は安心して反抗することができるし、親は子供を信じて見守ることができます。それがまた、親子の成長につながります。

 中学受験のプロセス自体がすべて、親子にとってのかけがえのない財産になるのです。駆け抜けた、決して楽ではなかった約3年間の月日が、親子にとっての誇りになります。結果がどうであれ、その誇りが奪われることはありません。

中学受験生はヒーローだ

 中学受験生たちは、どんなに努力をしても報われないかもしれない、やめようと思えばいつでもやめられることに挑戦しています。たった12歳で、自分の力で、自らの進む道を切り開こうとしているのです。

「本当に報われるのだろうか」

 不安になることもあるでしょう。不安を感じたときこそ、さらに勉強に打ち込んでその不安を打ち消そうとするのです。彼らのなかには、すでにある種の人生哲学が萌芽しています。

 成績がいい子も悪い子もいるでしょう。ケロッとしているように見えて、実は内心では大きなプレッシャーを感じつつ、次のテストではなんとか親を喜ばせたいと願っている心優しい子供もいるはずです。いずれにせよ、彼らはみんな、小さな体と心で、自分なりのベストを尽くしています。模試の結果を受け入れ、たとえそれが悪い結果であったとしてもめげずに努力を続けています。尊敬されるべき存在です。

 ふがいなさよりも誇らしさを、絶望より希望を、努力するわが子の背中に感じましょう。どんな状況においても、わが子を尊敬する気持ちをもち続けましょう。それが何よりの、親から子への最強の励ましになります。

 そして、わが子のために、思い付くありとあらゆることをしたうえで、さらに拙文を最後まで読む時間と労力を惜しまないみなさんも、十分に尊敬されるべき存在です。中学受験生の親である自分自身にも、誇りを感じてください。

 中学受験を志すすべての親子に、心からのエールを送ります。

育児・教育ジャーナリスト

1973年東京生まれ。麻布中学・高校卒業。東京外国語大学英米語学科中退。上智大学英語学科卒業。リクルートから独立後、数々の育児・教育誌のデスクや監修を歴任。男性の育児、夫婦関係、学校や塾の現状などに関し、各種メディアへの寄稿、コメント掲載、出演多数。中高教員免許をもつほか、小学校での教員経験、心理カウンセラーとしての活動経験あり。著書は『ルポ名門校』『ルポ塾歴社会』『ルポ教育虐待』『受験と進学の新常識』『中学受験「必笑法」』『なぜ中学受験するのか?』『ルポ父親たちの葛藤』『<喧嘩とセックス>夫婦のお作法』など70冊以上。

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