会見の「質問制限」問題をアメリカで考える(前):信頼の基盤とは何か ~ワシントンDC研究ノートその2

菅官房長官の記者会見 質問がある記者が手を挙げている。(写真:ロイター/アフロ)

「国民の代表」の条件とは

 官房長官の記者会見で、東京新聞記者の質問に対し首相官邸側から問題視する文書が何度も出されたり、当の記者からの質問に官房長官が「あなたに答える必要はない」と回答したりした問題について、少し別の角度から議論をしてみたいと思います。ニュースメディアの基盤に関係する話です。

 前提として、官房長官が、記者がある出来事について「内閣としての見解」を問うているにもかかわらず、「当事者に聞いて下さい」のひと言で終えてしまい、特定の記者の質問にまともに答えようとしない態度も、それに対し周囲の記者が異議を唱えたり、あるいは内閣記者会が明確な抗議をしたりしないのも大問題だと、かねてから思っています。東京新聞の望月衣塑子記者の質問が始まると直ちに、首相官邸の報道室長が「質問は簡潔にお願いします」「質問に移って下さい」などと声を出す、一般の人から見たら質問妨害にしか見えないような対応も行政府の中心で行われている貴重な情報公開の場では論外だと言わざるを得ません。

 一方、望月記者の取材方法も一定の合理性はあるものの、ジャーナリストの江川紹子さんが指摘するように、論理の運び方も、答えを引き出す戦略も、もう少し改善の余地はあるように思います。しかし、だから「どっちもどっち」だと片付けてしまうだけでは、ひとつも問題の解決につながりません。

 東京新聞側が首相官邸とのやりとりの中で「記者は国民の代表」と表現した、ニュースメディアと人々の「信頼」関係をもう少し掘り下げて考えてみます。日本の報道機関は読者や視聴者に何の約束や、自らの役割についての見解も公式に明らかにせず、「国民の代表」と言っているのではないかという問題です。これは東京新聞に降りかかった出来事ですが、これから議論することは、日本の報道機関の大部分に当てはまることです。

 この問題の議論は安倍政権を支持するかどうか、東京新聞というリベラルメディアや望月記者を応援するかどうかなどで、非常に政治化され、「賛成か反対か」という二極化した議論になっています。しかし、これはむしろ、官邸という「権力」に立ち向かうジャーナリズムの基盤の問題です。「国民の代表」という時に、政治的な立場を超えて人々がメディアの後ろで応援してくれるには、何かが欠けているのではないかと思われるのです。

「本来しなくていい」質問

 2月26日の官房長官の記者会見で、望月記者との以下のやりとりが大きくクローズアップされました。

  望月記者「(記者)会見は政府のためでも、メディアのためでもなく、やはり国民の知る権利に応えるためにあるものだと思いますが、長官は今のご発言をふまえても、この会見はいったい何の場だと思っていらっしゃるのでしょうか?」

  菅官房長官「あなたに答える必要はありません」

 官邸の記者会見では、かなり異様な問答です。官邸の記者会見に「運営委員会」のような場があれば、そもそもそこでやりとりされるべき問題のようです。官房長官が「あなたに」答える必要はありませんと発言したのは、「そのような問いについては、みんな納得してこの場に出ているという前提なのだから、改めて説明する必要はない」というタテマエで回答拒否できると考えたからだと思われます。

 反対に望月記者が、このような質問を敢えてしなければならないと思ったのは、とっさの判断だったとしても、そのような前提がまったく成立していないと考えたからだと思われます。個人的には、この質問が仮にどんなに的外れであったとしても、官房長官には行政府のナンバーツーとして、情報公開の原則と報道の自由の尊重について、明確に説明をして政府の姿勢を示して欲しかったとは思います。

しかし、この1日2回行われている記者会見が「何のために行われているのか」と官房長官に疑念をぶつけなければならないような事態なのであれば、もうそれは望月記者が単独で提起するような問題ではなく、東京新聞や、あるいは内閣記者会全体で提起されなければならない問題のはずです。権力とはそのくらい強力なものだと思います。

記事だけでは足りない「何か」

 東京新聞は2月20日の朝刊でこの問題について「検証と見解/官邸側の本紙記者質問制限と申し入れ」という特集記事を掲載しています。これによると、望月記者の質問に対して官邸側からの申し入れは2017年9月から、すでに始まっていて、9件にのぼります。そのうちの数件は、どう見ても会見の場で直接指摘すればいいことも含まれていますし、裏側でこのような「申し入れ」があるのは、そもそも異常な事態です。

 漏れなく検証はできませんが、東京新聞に最初の「申し入れ」があった2017年9月1日から、この記事を書いている2019年3月8日(アメリカ東部時間)まで東京新聞の記事で「官房長官 会見 質問」のキーワードで検索をかけてみますと、64件の記事がヒットしますが、望月記者の質問をめぐる問題を扱った記事は、2月6日付の「本紙記者質問に『誤認、問題』新聞労連 官邸に抗議」というものが最初のようです。自分の会社が当事者であるにもかかわらず、新聞労連という第三者の行動が初めて記事化されるというのも疑問ですが、なぜ1年半近くも東京新聞がこの事態を公にしなかったのかの方が問題だと思われます。

 2月20日の検証記事では9件の申し入れが「質問や表現の自由を制限するものもある」と書かれています。内容を見ますと、国連人権委員会のデービッド・ケイ氏による報道の自由度の調査の日程が延期された問題について、菅官房長官への面会要請などについての事実確認が、一部不十分であったという、東京新聞側に「弱み」もあり、できれば伏せておきたい事情もあったのかもしれません。しかし、「表現の自由」の大原則が冒される可能性があるとの認識が以前からあったのであれば、その時点でこのようなやりとりがあったことを公にして、オープンな場に議論を持ち込むべきでした。社内でどのような個人的激励があったのかどうかは知りませんが、少なくとも仕組みの上では、その間、望月記者は孤立無援の戦いを強いられていたということです。

 2月20日の検証記事では、東京新聞側の「記者は国民の代表として質問に臨んでいる」という主張に対し、官邸側から「会見に出る記者は、民間企業である東京新聞社の人事で定められている(だけ)」という反論がありました。東京新聞は公式に再反論をしていないようですが、会社が全力で反論し、記者の立場を保護しなければ、官房長官が「あなたに答える必要はない」という態度を取るのは、ある意味で当然のことです。

 しかし、「おまえは国民の代表なのか」と権力から問い詰められて、ニュースメディアが完全に合理的な説明ができないのも事実です。これは東京新聞に限らず、メディア全体の問題として考える必要があります。

ジャーナリストに免許がない理由

 私のジャーナリズムの授業では、「ジャーナリストとは免許がない職業なのはどうしてか」という問いから考えてもらいます。例えば運転免許は、あなたが事故を起こさず運転ができるということを誰かに「裏書き」してもらわなければならないため、その裏書きをする主体を政府(日本では都道府県の公安委員会)が請け負っています。政府は実にさまざまな「裏書き」作業を行っていて信用も実績もあり、もし交通法規などを守らない不届き者がいても、警察やその他の監督機能などの組み合わせで、何らかの罰を加えることもできるし、「その罰を受けたくない」という気持ちが、抑止力として働き、不届き者が減るかもしれないという効果も期待できます。その罰を与え、人に言うことをきかせる能力こそが権力です。

 ジャーナリストは、そのような権力が、特定の政治的な立場の人にだけ厳しくしたり、あるいは特定の集団の不正な行動を見て見ぬ振りをしたりなど、不公平、不公正を監視するということが最大の仕事です。そうすると政府はジャーナリズムに免許を出すには、基本的には不適当な主体だということになります。

 ソムリエなど、特定の技能が一定以上の水準に達しているかを「その道の達人」が資格を与えることはありますが、ジャーナリズムの検証作業は実に多様な注意深さや考え方、情報のありかを突き止めたり、質問を繰り出したりして情報を引き出す能力など、実に多様です。また、もし気候変動の問題を取材していても、環境政策など政治的な立場や経済的な利害も絡む場合が多く、誰も、どこもジャーナリストの能力を公式に認めることができません。だからジャーナリストには免許がありません。しかし反対に、誰でも「オレはジャーナリストだ」と言えば、なれるということでもあります。

 日本では新聞社や通信社、放送局やネットメディアなど外国のメディアも含め25社前後が官房長官の記者会見に出席しているとみられます。それらのうち、大部分のメディアがなぜ記者会見の出席を独占的に認められているかと言えば、乱暴な言い方をお許しいただければ、昔から新聞やテレビという事業をしてきたので、一定の形式的な手続きを経てそうなったとしか説明のしようがありません。

ジャーナリズムの根拠は単独では弱い

 そのようなメディアがジャーナリズムの担い手、「国民の代表」として機能しているのは、なんとか数十年、まともな記事やニュースを発信し続けてきたことで、何となく認められているに過ぎないとも言えます。

 その一方、民主主義では、それを支える私たち国民ひとりひとりが、自治を行う判断をするための裏付けとなる「正確な情報」が不可欠で、それを伝えるメディアは非常に重要なものです。そうして選ばれた代表は、選んだ人たち=国民がその選択が正しかったかどうか検証するために、あるいは国民のためになる仕事を誠実に行っているかどうかわかるように、メディアを尊重し、情報公開に努めることを期待されています。

 国民とメディア、そして選ばれた政治リーダーの関係は、法律などで定められてはいません。根拠も必ずしも明確ではありません。各々が誠実に役割を果たし、お互いを評価し合うことで辛うじて成立し、その経験をもとに実績と信頼を重ね、育てて行くシステムと言えます。

 その基盤が今揺らいでいます。原因については別の議論に委ね詳しくは触れませんが、世界的にニュースメディアへの不信が蔓延し、政治リーダーが、メディアが国民の代表である根拠を改めて問題にしているのです。

約束で共通の基盤をつくる

 三者のバランスが崩れてしまった中、日本のメディアはひたすら「自分たちは、ひたすら誠実にニュースを出し続けてきた実績がある」ことだけを頼りに、追加の説明の努力を何もできていないように思います。

 アメリカでもメディア不信は深刻ですが、少しだけ違うことがあります。どのくらい効果があるのかわかりませんが、少なくともメディア側の基盤を強くするための仕組みがあります。それは、メディア側が「何のためにニュースを発信するのか」というミッションステートメントを公開して国民に説明していることです。さらに、そのミッションを実行するために、記者にどのような手続きを徹底するのかという「倫理規定」を明確にしていることです。全てのメディアではありませんが。

 メディアのブランドを維持するには、ある意味で「当たり前」のことでもあります。とにかく、いつでも誰でもアクセスできるような形で公開しておくことが最も大切です。そうすれば、権力側に「おまえたちは何を根拠に私に情報公開を迫るのか」と問われた場合、これを根拠に「私たちは誠実に国民に情報を知らせるために、これこれの行動を取ることを約束して、ニュースとして届けています」と主張することができます。これまでニュースを発信してきた長年の実績がそれを補強します。この2つの条件が揃って初めて「そうやって一生懸命ニュースを届けてきたのだから、国民に代わってあなたの話を聞く資格があると思いますが、どうですか?」と権力側に主張ができるようになるのではないかと思います。

 日本では新聞もテレビも長らく、比較的安定したビジネス環境と記者クラブなどの独占的な地位に守られて、何となく安定的な地位を確保してきました。しかし、「ではその根拠は?」と改めて問われても、発行部数や視聴率などを持ち出すしかなさそうです。経済的に支えてくれる読者や視聴者がいたとしても、ニュースの発信のしかたには全面的に支持をしていないかもしれない。

 そのメディアの政治的な姿勢に同意はできなくても、公正な手続きで取材し、情報を処理してニュースを出しているということは認めてもらえるかも知れない。それを正確に計測する術はありません。しかしそのように「八方手を尽くして、読者や視聴者の信頼を得るという基盤を作っています」という事実を公表し、その上に実績を積み重ねるという、ぎりぎりの努力を絶え間なく重ねて、「国民の代表として活動することに疑義をはさまれないだけのことはしています」と言うことができると思います。

「絶対的な価値」に反応するべき

 そもそも、首相官邸という権力中の権力が、今まである程度の緊張関係を保って情報のやりとりをしてきたメディアに向かって、「国民の代表ではない」と言い放つのは異常なことです。また、これは東京新聞のみに向けて言われたのではなく、メディア「企業」「団体」として取材活動を行っている全ての報道機関に向けられたものであると考えるべきです。

 しかし、この間の報道を見ると、報道機関によって大きな差があります。報道のしかたの「温度差」は、そのメディアが安倍政権をどの程度支持しているかという「立ち位置」を反映しているように見えます。この問題が「表現の自由」とか「報道の自由」という民主主義の原則にかかわることであるにもかかわらず、少なくとも一部のメディアは、この問題を官邸が主張するように、「政治的に偏った記者の、事実に基づかない質問によって官房長官の記者会見の秩序が乱れた話」として扱っているようです。

記事だけでは抗議ではない

 一部の新聞は社説で取り扱ったり、コラムニストがこれまでの政治報道の反省を込めた分析を行ったりしていますが、記事だけでは足りません。首相官邸や官房長官の報道の自由を侵害するような言動に強く抗議し、止めてもらわなければならないとしたら、直接の抗議を行うべきです。記事は、その抗議について、読者や視聴者の支持と理解を得るためのひとつの手段にしか過ぎません。

 この問題について、新聞労連(日本新聞労働組合連合)や、日本ジャーナリスト会議などが抗議の声明を発表したことが新聞などで伝えられています。強い抗議をしたいのなら、声はなるべく色々なところから上がった方が効果的です。しかし、当事者であるはずの内閣記者会も、内閣記者会に所属する報道機関が所属する日本新聞協会や日本民間放送連盟(民放連)も、メディアの「倫理」に密接にかかわるはずの問題なのに、まさにその名前が入っている、マスコミ倫理懇談会も、抗議の声明を出したことは、少なくともこの原稿を書いている2019年3月14日現在、確認できません。理解に苦しむところです。表現の自由にかかわる原理原則に、それも迅速に反応できないようでは、「国民の代表」であると納得してもらうことなど到底できないのではないでしょうか。 

 メディア間で見解の相違があることは理解しますが、内部でどのような議論がなされているのか(誰も何も動いていないとしたら、さらに問題ですが)公表するだけでも、何もしないよりもはるかにましだと思います。

 さらに言うなら、これは東京新聞だけでなく、政治を取材しているメディア各社が「取材の自由」に関わる問題だという認識があるなら、それぞれや連名での編集局長や報道局長名からの抗議や声明、公開質問状などが公開されてもおかしくないほどの重大な問題だとも思われます。

FOXニュースもトランプ政権に抗議した

 あまり「出羽守」の議論は好きではありませんが、現在研究のために滞在しているということでご理解をいただくとしてアメリカのメディアと比較すると、日本のメディアの反応の悪さがよくわかります。

 2018年11月、中間選挙の結果を受けてトランプ大統領が記者会見を行った際に、CNNのホワイトハウス担当記者で、以前から「おまえはフェイクニュースだ」などと名指しされてきたジム・アコスタ記者が「衝突」、ホワイトハウスの記者資格を無期限で停止させられたことがありました。

 壁の建設が問題となっていたアメリカとメキシコの国境を目指して中南米から歩いてきているキャラバン隊の人々を「侵略者」と呼んだことに関して、「彼らは侵略者ではない」とアコスタ記者が批判的な質問をしたことに大統領が激昂、回答を拒否、さらに質問を続けたアコスタ記者に対し「おまえを働かせているCNNはかわいそうだ」などと中傷(やりとりのもようはこちら)、その際マイクを取り上げようとしたホワイトハウスのインターンの女性と、マイクの取り合いになった際に、その映像が何者かによって加工され、いわゆる「コマ落とし」の状態となり、いかにもアコスタ記者が乱暴をしているように見える映像を、ホワイトハウスのサンダース報道官があろうことか証拠として採用、「記者会見の秩序が乱れる」として記者資格を停止したというものです。

 アコスタ記者は、以前から挑発的な質問の手法に賛否両論がありましたが(彼の取材手法のジャーナリズム的議論の内容については、拙稿『アコスタ記者騒動から考えるトランプ政権取材の手法~対決しない「高次元」のジャーナリズムとは』 にまとめてあります)、CNNはアコスタ記者の資格停止が発表された5日後にワシントンDCの連邦地方裁判所にトランプ大統領ら6人を相手取って、アコスタ記者の身分回復を求めて提訴しました。ホワイトハウスの記者会(White House Correspondent Association)はその日に、「CNNのアコスタ記者の身分回復の行動を支持する。大統領は自分勝手に記者を選別することはできない」という声明を発表しています。

 トランプ政権の「応援団」とも揶揄されるFOXニュースも、CNNの動きを支持しました。ワシントン連邦地裁の仮処分の後、ホワイトハウス側がアコスタ記者の記者資格を完全回復することを約束したため、この問題は2週間程度で収束しました。少なくともこの時、アメリカのメディアや記者たちの団体は、表現の自由という民主主義の原理原則を守るために最大限の努力を、スピーディに、何のためらいもなく実行しました。

 後半は、メディアが「国民の代表」として信頼を得るために、どのような具体的な内容を、どのように説明して納得を得るべきなのか考えます。(続く