黒潮で北上する鰹や鮪 魚群の飛行機探査が漁船に無線機を積ませた

静岡市・谷津山の鉄塔(著者撮影)

無線機を積んだ船舶の増加

 明治45年(1912年)4月14日、北大西洋でタイタニック号が氷山と衝突、1490名が死亡しています。陸地から遠く離れた冷たい海での海難で、乗員・乗客全員死亡の可能性がありましたが、タイタニック号に積んでいた実用化され始めたばかりの無線通信機によって救助要請がうたれ、駆けつけた船によって711名が助かっています。

 タイタニック号の事故をきっかけに外航船には無線機が積まれるようになり、船舶安全航行のための国際的な情報提供が始まりました。神戸の海洋気象台(現在は神戸地方気象台)は、世界に先駆けて船舶に対して気象情報の提供を開始しました。

 しかし、高価で取り扱いが不便であったため漁船ではなかなか使われませんでした。

 しかし、昭和に入り、静岡県で飛行機による漁群探査が始まると状況が変わります。無線機を積んだ漁船は、大漁になることがわかったからです。

群れで北上する鰹や鮪

 黒潮に乗って北上する鰹(カツオ)や鮪(マグロ)は、群れとなっていますので、沖合を黒潮が流れる静岡県などでは、小高い山の上から海を監視し、海岸近くにきた群れに向かって急いで漁船がでかけるということが行われていましたが、あくまで海岸付近にきた群れに対して追いかけるということで、効果は限られたものでした。

 静岡県では、実用化され始めた飛行機を使い、昭和3年4月から上空から海面付近で群をなしている鮪などの位置を漁船に知らせる魚群探査事業をしています。最初は、魚群探査の結果を報告筒に入れ、飛行機から漁船に向かって投下するという方法でしたが、魚群探査が本格的に始まった昭和5年(1930年)からは報告筒に加えて、帰着後に漁船根拠地から漁船にあてて無線電話での放送が始まりました。

 この事業は、立ち上がりから鈴木興平(鈴与)の援助をうけ、静岡県三保で飛行場を経営していた根岸錦蔵に委託していました。

 しかし、静岡県は、魚群探査事業の委託先を東京航空輸送に突然変更しています。推測ですが、その理由は東京航空輸送の経営を支援するためと思われます。

東京航空輸送と「空飛ぶ天女」

 パイロット養成をしていた日本飛行学校は、サイドビジネスとして東京航空輸送を作り、昭和4年(1929年)から海軍から払い下げを受けたハンザ・ブランデブルグ機で東京の羽田と伊豆の下田間に定期航空路を開設しています。もともとは、第一次世界大戦末期にドイツで作られた2人乗りの水上戦闘偵察機ですので、パイロットを除くと、乗客は1名しか運べませんでした。

 東京航空輸送は、愛知航空機が作った6人乗りの水上機である愛知AB型輸送機の貸与を受けると、昭和6年(1931年)4月1日からエアーガールと呼んだ女性の客室乗務員を乗せ、航空路を海岸沿いに静岡・清水まで延長しています。

 これが、日本初の客室乗務員によるサービスです。世界で初めて客室乗務員を乗せてサービスを行ったアメリカのボーイング航空輸送から11ヶ月後のことで、かなり早い段階での試みといえます。ただ、6人乗りといっても、パイロットやエアーガールなどを除くと乗客は3人です。出発から到着まで座席に座っていなければならないという狭いスペースで、サービスと言っても限度があります。サービスというより、「エアーガールが乗るほど安全です」というPR効果が狙いといわれています。

 黎明期の飛行機は、郵便の輸送に使われましたので、飛行機を管轄している役所は、郵便を管轄している逓信省でした。客室乗務員によるサービス開始3日前の3月29日の試乗で、小泉又治郎逓信大臣は、愛嬢と一緒に乗り、「この芳江はプロペラの音を大変気にするが、私はプロベラの音があって飛行機に乗った気がする」と言っています。

 つまり、最初に乗った女性乗客は、この愛嬢の小泉芳江ということになりますが、小泉芳江嬢は、のちに防衛庁長官などを歴任する鮫島純也を婿にとり、小泉純一郎元総理大臣を生んでいます。

 飛行機によく搭乗したという菊池寛は、「エアーガールは近代的天女である」と表現していますが、静岡・清水にある三保の松原の天女伝説を意識してのことかもしれません。三保の松原は、静岡市清水区の三保半島にある景勝地で、ユネスコの世界文化遺産「富士山ー信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産です。

日本航空輸送の魚群探査

 乗客に少しでも快適な空の旅を提供しようとする試みが始まったのは静岡県ということになりますが、東京航空輪送による客室乗務員サービスは、1年ほどで中止となります。厳しい会社経営があったためと思われます。

 静岡県による魚群探査は、昭和6年(1931年)からは飛行機に無線通信機を積んで直接放送も行われています。これは、飛行機での観測が漁船に即座に伝われば漁獲高が増えることがわかり、無線機を積んだ漁船が増えてきたためです。

 図は、昭和6年(1931年)9月23日の魚群探険飛行ですが、駿河湾を飛行中に鰹を6群、キハダ鮪を1群発見し、出漁していた9隻の漁船に対して8個の報告筒を海に投下しています。

図1 魚群探検飛行航跡(昭和6年(1931年)9月23日)
図1 魚群探検飛行航跡(昭和6年(1931年)9月23日)

 漁船は、この報告筒を回収し、魚の群れに急行しました。その後、漁船に無線機が積まれるようになると、無線で漁船に魚群の情報が伝えられます(表)。

表 飛行機を利用した魚群探査
表 飛行機を利用した魚群探査

谷津山山頂の鉄塔

 昭和7年(1932年)には、漁船基地の無線発信機が故障したため、代替として静岡放送局からラジオ放送が行われました。昭和8年(1933年)に根拠地の無線発信機の故障が直り、放送再開したあとも静岡放送局のラジオ放送は続き、現在のNHK静岡放送局の静岡県近海の漁業気象を伝えるラジオ番組につながっています。

 大正14年の東京放送局によるラジオ放送開始後、全国に放送局ができますが、静岡放送局(JOPK)が全国13番目に開局し、静岡市の谷津山の山頂の鉄塔から電波を出したのが昭和6年(1931年)3月21日ですので、ほぼ設立と同時に始まった番組ともいえます。

 谷津山の鉄塔は、昭和34年(1959年)に東海大学に売却となり、東海大学海洋学部は太平洋の鮪漁船などに魚群分布図や天気図といった海上情報を流す海洋FAX無線局として利用し、現在は東海大学の広告塔になっています。

 漁船に無線機を積む効果、つまり、海難防止と漁獲量の増加は絶大で、各地の漁船には無線機が積まれるようになります。

 先行していた静岡県の漁船は、基地局と交信を支えに鮪を求めて沿岸から南洋へと漁場を拡大してゆきます。そして、静岡県焼津港は、東京や名古屋、大阪などの大消費地と鉄道や高速道路で結ばれている立地条件を生かし、遠洋漁業の中継基地として大発展をしています。

中央気象台三保臨時出張所

 東京航空輸送の魚群探査事業は、記録的な鮪の豊漁をもたらし、それを使った「ツナ缶」が静岡県の重要な輸出品となっています。

 昨年夏に発生した黒潮大蛇行は現在も続いており(図2)、黒潮に乗って北上する鰹や鮪の漁場が変わったことによる不漁が問題になっていますが、観測データが少ないとはいえ、昭和8年(1933年)から10年間も黒潮大蛇行があったと推定されています。

 つまり、飛行機による魚群探査が始まったころの、不漁の県が多いなかでの静岡県の豊漁は、全国の漁船が無線機を積む大きなきっかけになったことは十分考えられます。

図2 現在の黒潮大蛇行
図2 現在の黒潮大蛇行

 一方、東京航空輸送に委託するまで魚群探査事業を企画・推進してきた根岸錦蔵は、しばらくして職を辞しています。

 根岸錦蔵は、東京航空輸送に魚群探検事業を奪われた形になりましたが、同じ頃、急拡大している飛行機へ情報を提供したり、逆に飛行機からの情報を得たいと考えていた中央気象台(現在の気象庁)からの依頼を受けることになります。

 中央気象台三保臨時出張所の誕生です。以後、根岸錦蔵とそのグループは、飛行機を用いた高層気象観測、雲の上からの皆既日食観測、流氷の観測、地震被害の上空からの調査など、中央気象台(気象庁の前身)の画期的な業績に貢献しています。

 現在の気象庁と違い、中央気象台は、自由に使える飛行機と空港(三保空港と女満別空港)を持ち、機動的に自然現象を解明していた背景には、今では考えられない航空業界の黎明期の苦労がありました。

タイトル画像、図1の出典:饒村曜(2010)、静岡の地震と気象のうんちく、静岡新聞社。

図2の出典:気象庁ホームページ。

表の出典:静岡県漁業統計報告書をもとに著者作成。