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「稲むらの火の地震」は嘉永7年に発生したが、改元で安政の南海地震

饒村曜気象予報士
古地図(ペイレスイメージズ/アフロ)

 平成31年(2019年)4月30日に平成が終わり、翌5月1日から新しい元号になることが決まりました。

昔は1月1日に遡って適用

 昭和64年(1989年)は、昭和天皇が崩御した1月7日までの7日間しかなく、翌日は、平成元年1月8日です。

 大正15年(1926年)は、大正天皇が崩御した12月25日の前日までです。崩御した日は、昭和元年12月25日です。昭和元年は7日間しかありません。そして、昭和元年の最初の日である元日はクリスマスの日ということになります。

 明治45年(1912年)は、明治天皇が崩御した7月30日の前日までです。崩御した日は、大正元年7月30日です。

 このように、平成、昭和、大正は、年の途中で改元となっています。

 しかし、慶応4年9月8日(1868年10月23日)に明治と改元が決まりますが、慶応4年1月1日(1868年1月25日)に遡って適用となっています。

 このように、慶応以前は、年の途中で改元が決まっても、その年の1月1日まで遡って適用となっていました。

安政東海地震と安政南海地震

 嘉永7年1月16日(2月13日)にアメリカのペリーが再来日し、3月3日(3月31日)には日米和親条約が結ばれています。

 徳川家光以来200年以上続いていた鎖国が終わるという激動の年は、大きな地震が相次ぎ、江戸幕府の終焉を早めています

 11月4日(12月23日)には東海地震が発生し、死者3000から4000名という大きな被害がでています。そして、翌5日(12月24日)には南海地震が発生し、死者数千名という大きな被害が発生しています。

 このため、11月27日(1855年1月15日)には、「内裏炎上、地震、黒船来航の災異」を理由として、安政に改元となっています。

 そして、嘉永7年1月1日まで遡って安政元年になっていますので、東海地震は安政東海地震、南海地震は安政南海地震と呼ばれます。

稲むらの火

 戦前の日本では、師範学校で使われた英語の読本「A living god(生ける神)」や、尋常小学校の国語読本「稲むらの火」によって、「強い揺れを感じたら、高いところに逃げる」という、事実上の防災教育が行われていました。

 これらの本のモデルとなったのは、紀伊国有田郡広村の豪農で、関東の醤油業で財をなした浜口儀兵衛(梧陵)が安政南海地震のときにとった行動です。

 広村では、嘉永7年11月4日(12月23日)四つ時(午前10時)に強い揺れを感じたあと、津波が押し寄せています(安政東海地震)。このとき、浜口儀兵衛は、昔からの伝承によって大地震のあと津波が来るとして村人を高台にある八幡神社境内に避難させています。そして、夕刻には津波が治まったものの、民家のほとんどが無人となったことから、盗難や火災防止のために強壮の者30余名を三分し、終夜村内を巡視させています。

 翌日、村人たちは自他の無異を喜び家路についていますが、七つ時(午後4時)に、前日とは比べることができない激しい揺れと大きな津波が村を襲っています(安政南海地震)。逃げ惑ったりしているうちに日は暮れています。

 このときの様子を、浜口儀兵衛は、次のように書き残しています。

是に於いて松火を焚き壮者十余人に之を持たしめ、田野の往路を下り、流家の梁柱散乱の中を越え、行々助命者数名に遇へり。尚進まんとするに流材道を塞ぎ、歩行自由ならず。依って従者に退却を命じ、路傍の稲村に火を放たしむるもの十余、以て漂流者に其身を寄せ安全を得るの地を表示す。此計空しからず。之に頼りて万死に一生を得たるもの少なからず。

出典:浜口梧陵翁五十年祭協賛会(1934年)、浜口梧陵小伝。

 安政南海地震が起きた11月5日は津波防災の日です

 浜口儀兵衛の安政南海地震での行動は、大きな揺れを感じたときは、まず高いところへ避難ということを訴えています。情報収集などの行動は、まず安全な場所に避難してからです。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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