昭和18年のキスカ島撤退作戦は、適切な霧予報で成功した奇跡の作戦
昭和18年7月29日、アルーシャン列島ほぼ中央部のキスカ島守備隊5183名が撤退をしています。5月中~下旬には、連合軍上陸作戦によって近くのアッツ島守備隊2600名のほとんどが戦死するなか、入念な準備と時期を待つ忍耐力、適切な霧予報で無血撤退でした。
同年の2月のソロモン諸島・ガダルカナル島撤退で多数の犠牲者を出すなど、太平洋戦争初期に太平洋の島々に展開した日本軍は、連合軍の反攻のまえに、多大な犠牲が相次いでいますので、奇跡の作戦でした。
ミッドウェー海戦時にアリューシャン列島を攻略
昭和17年(1942年)6月4日から7日にかけてのミッドウエー海戦では、日本は主力の4隻の空母を失うという大惨敗を喫し、太平洋戦争開始時から続いていた快進撃はストップしています。
太平洋戦争の分岐点になったとされるミッドウエー海戦は、ミッドウェイ島を占領し、アメリカ軍の活動を西太平洋から排除しようとした大規模なものでしたが、この時に、別働隊がアリューシャン列島の要衝、アダック島の攻略を目指していました(図1)。ここに海軍基地があったからです。
しかし、ミッドウェー海戦の敗戦で、アダック島の攻略ができず、アダック島の西にあるキスカ島とアッツ島だけを占領しています。
キスカ島とアッツ島に日本軍の拠点があるとアメリカ本土への脅威になるため、アメリカ軍は日本軍に対する爆撃や補給のための輸送船への攻撃などの反攻作戦を他の戦闘に優先して開始します。
そして、昭和18年5月12日アッツ島の守備隊3000名弱に対し、4倍の1万1000名で上陸作戦を敢行しています。
日本軍は補給も増援も見込めない中でアッツ島守備隊が玉砕しています。
このため、キスカ島の守備隊、約6000名は、アッツ島とアメリカ軍飛行場があるアムチトカ島に挟まれ、孤立してしまいます。このため、大本営は、補給が全くできなくなって戦争継続ができないとの判断で、アリューシャン方面を放棄し、キスカ島は守備隊を撤退させることを決めています。
「ケ」号作戦
キスカ島の守備隊の撤退作戦は、運を天に任せて大勝負をする「乾坤一擲(ケンコンイッテキ)」から、「ケ」号作戦と名付けられました。
最初は潜水艦15隻による物資の補給と傷病兵の輸送でしたが、レーダーなどを使ったアメリカ軍の警戒が厳重で、成果の割には被害が大きく失敗しています。
このため、この地方特有の濃霧に紛れて高速で駆逐艦等がキスカ湾に突入し、素早く守備隊を収容して離脱するという計画が立てられました。
当時のアメリカ軍は、霧の中で攻撃できる爆撃機を持っていなかったからです。
そして、就役したばかりの駆逐艦「島風」が作戦に加わります。島風は、当時の日本としては最新鋭の「二二号電探」と「三式超短波受信機(逆探)」を備えていました。現在のレーダーのような性能はありませんでしたが、電波を発射して敵の艦船の位置を探ったり、敵のレーダー電波を受信することで近くにいるかどうかの判断ができました。
このため、作戦の成否を決める最大の要素は、「視界ゼロに近い濃霧がキスカ島近辺に発生していること」でした。
キスカ島の霧予報
霧予報を担当したのは、巡洋艦「那智」に乗り組んでいた気象士官の竹永一雄少尉でした。
竹永少尉は東京にあった海軍水路部や中央気象台でアリューシャン海域の霧についての資料を皆調査・分析しています。神戸にあった海洋気象台(現在の神戸地方気象台)が世界に先駆けて作成していた日毎の北太平洋天気図や、水産講習所(現在の東京海洋大学)の俊鶻丸(シュンコツマル)による北方観測データ、農林省(現在の農林水産省)の快鳳丸(カイホウマル)が昭和16年に行ったアルーシャン、ベーリング海方面の観測データなどが使われました。
そして、次のようなアリューシャン列島西部の海霧予報則をまとめています。
このうち、(1)は、夏は低気圧の速度が遅く、低気圧が北千島を通過して2日後にはアッツ島付近に達し、それよりも東にあるキスカ島では南よりの風となって海霧発生の可能性が高いというものです。
{{{(1)北千島に濃霧がかかると、2日後にキスカが霧になる。確率は9割以上である。
(2)霧は低気圧の接近により発生し、通過によって晴れる。
(3)霧が発生する時の風速は毎秒5~7メートルが最も大きく、弱い時はすくない。
(4)気温より水温が2度以上高いと霧が発生しやすい。
(5)キスカの霧の季節は、6月下旬から7月上旬までの間であって、7月下旬になると急に少なくなる。
:|半澤正男(1989)、若き艦隊予報官の霧予報的中、海洋気象学会の機関誌「海の気象」に掲載
}}}
帰ればまた来られるさ
「ケ」号作戦は、7月7日に開始されましたが、キスカ島手前のところで高気圧が発達し、霧が薄らいできたため中止となっています。
作戦を指揮した木村昌福少将は、「帰ればまた来られるさ」という名言を残して、引き返しています。
しかし、根拠地である千島列島北部の幌筵(ホロムシロ)に帰ってきた木村少将へは、基地司令部だけでなく、連合艦隊司令部や大本営からも「何故、突入しなかった!」などの非難を浴びています。
これは、もうすぐ霧の季節が終わり、アメリカ軍の上陸作戦が始まるのが確実視されたことに加え、備蓄の重油がそこをついてきたことからです。
しかし、飛行機の援護なしでの艦隊の作戦は、勝算が全くないということを熟知していた木村少将は、濃霧がでている時しか勝負の時はないとして、何を言われても濃霧の発生をじっと待っています。そして北千島で濃霧となるが可能性がでてきた7月22日、再び出撃しています。太平洋戦争中の多くの司令官のように、精神論だけで無茶な作戦を実行しなかったのです(図2)。
オホーツク海中央部と北千島に低気圧が現れた7月27日、北千島では物凄い濃霧となっています。竹永少尉の「プラス2のセオリー」によると、「27日北千島の濃霧が2日後の29日にはキスカ島の周辺に移動してくる」です。
このため、キスカ島への突入は29日と決断されました。そして、キスカ島一体が濃霧につつまれた29日13時40分、キスカ島の鳴神湾に投錨した艦隊に、待ち構えていたキスカ島守備隊員約5,200名が約1時間で乗り移り、ただちに全速で離脱しています。
アメリカ軍は日本軍の撤退にまったく気がつかず、その後、無人のキスカ島を艦船による艦砲射撃や飛行機による猛爆撃をし、8月15日に3万4000名の兵力で上陸作成を行っています。そして、同士打ちで約100名が戦死しています。
流氷観測だけでなく霧観測も
キスカ島の霧予報が偶然的中したのではなく、的中をひきよせたのではないかと思っています。
平和な時代に積み重ねていた地道な観測成果があり、それが、キスカ島撤退での適切な霧予報につながったのではないかと思っています。
そして、海軍水路部や中央気象台での地道なオホーツク海周辺の観測データの積み重ねに加え、多分、飛行機による霧観測も含まれています。というのは、中央気象台による昭和17年以降の流氷観測は、北海道東部から千島方面の霧の観測も合わせて行っているからです。このため、これまでの飛行機に比べ航続距離の長い、89式艦上攻撃機や93式双発軽爆撃機飛行機を使って流氷観測が行われています。
オホーツク海南部は世界中で最も低緯度で凍る海で、昭和10年3月23日から中央気象台(現在の気象庁)により、飛行機による観測が行われています。そのためにできたのが女満別気象台空港(現在の女満別空港)です。
霧観測のため長い距離を単独飛行をすることは非常に危険でした。89式艦上攻撃機は海軍が昭和7年に採用した機種で、最高速度が時速228キロメートル、93式双発軽爆撃機は、陸軍が昭和8年に採用した機種で、最高速度が時速255キロメートルしかでません。敵機に見つかったら簡単に撃墜される時代遅れの飛行機でした。
戦前の流氷観測資料がほとんど残っていませんので、キスカ島撤退作戦のための霧予報に飛行機観測がどのような貢献をしたのかよくわかっていませんが、現存する昭和18年5月7日の飛行機による4時間36分の流氷観測では、南千島までを観測をしています(図4)。