東日本大震災から10年 問われる日本の危機管理力

復興が進む石巻市 2020年11月筆者撮影

東日本大震災から今年で10年目を迎える。5年目に当たる2016年には熊本地震が起き、10 年目を迎える今年は新型コロナウイルスにより世界中が混乱に陥っている。その間にも台風や梅雨前線に伴う記録的な豪雨により甚大な被害が度々発生していることを考えると、少なくてもわが国においては、危機のテンポが着実に早まっているかのようにも感じる。

この10 年、莫大(ばくだい)な投資により社会インフラは年々強化され、情報ネットワークの整備や人工知能(AI)の登場により都市機能は飛躍的に高度化し、政府が目指す国土強靭(きょうじん)化は大きく進展しているようである。ところが、危機は一向に減らない、むしろ増えているといってもいい。なぜか? 

防災白書をもとに、2011年以降に発生した主な災害を挙げてみた。

防災白書をもとに作成※平成25年台風26号は筆者が追加
防災白書をもとに作成※平成25年台風26号は筆者が追加

2011~13年は毎年のように大雪が降り、多くの人が命を落とした。2016年の熊本地震では、支援物資が被災地に届かないラストワンマイル問題が発生。小規模自治体への支援はまたも大きな課題となり、避難所運営も困難を極めた。2016年以降は毎年のように豪雨災害が発生。さらに、この表には載っていないが、2015年には猛烈な豪雨により茨城県常総市で鬼怒川が決壊。2016年12月には糸魚川で歴史的な大火も発生した。2018年6月には大阪府北部で通勤時間帯を襲った地震により、都市部を中心に出社困難者と出社後に帰宅できなくなった帰宅困難者が道にあふれた。この年の台風21号による被害では、関西国際空港の滑走路が冠水、強風により大型タンカーが連絡橋に衝突するなど、交通の要が機能停止に陥り、陸の孤島と化した。また、2018年は猛暑が襲い、この年の熱中症による死者は1500人を超えた。

そして昨年、新型コロナウイルス感染症によるパンデミックが発生した。2009年のH1N1パンデミックで顕在化した課題は再び繰り返され、マスクや消毒液の不足に始まり、リーダーシップが欠落したリスクコミュニケーションにより人々は混乱の極みに陥った。さらにコロナを起因に、経済、雇用、働き方、メンタル、家庭問題、情報セキュリティー、風評など、さまざまなリスクがドミノ倒しのように連鎖的に発生した。1つのリスクに対処すれば、それにより別のリスクが引き起こされるリスクトレードオフも顕在化した。その光景は福島第一原子力発電所の事故後とも重なる。

危機対応が向上しない理由

危機対応が向上しない理由は、1つは外部環境の変化として、災害の多発・甚大化が挙げられる。気候変動が大きな要因ではあるが、経済活動などの活発化や国際化も間接的な要因に挙げることができる。感染症も、国際化が進んだことで一昔前より感染拡大のスピードは飛躍的に早まった。今後もこうしたリスクは減ることはないだろう。

2つ目の理由も外部環境の変化として、情報の高度化を挙げてみたい。SNSなどの広まりは、その際たるものだ。ある有名人が発した声はSNSを通じて瞬く間に全国に広がり、世論を動かす。市民一人一人は、好き勝手に自分の意見を発信する。シェアやリツイートは、マジョリティ化に拍車をかけ過激な意見が深く考えられないまま多くの人々に支持をされる。そのことは、3つ目の理由としての政治・行政の問題とも結びつく。すなわち、国の舵取りである。

情報化により、多種多様な意見を持つ国民に対し、どのような意思決定を行い、メッセージを発するのか。リスクコミュニケーションのあり方は、かなり難易度が高くなっているといえる。にもかかわらず、その方法が全く進化していない。旧態依然とした縦割りの体制では複雑化する問題に対処できるはずがない。もっと言うなら、最もリスクコミュニケーションが求められる場面で、最もそれを苦手とするトップが政権運営を担い、それをサポートする人すらいないのが現状だ。

コロナでいうなら、緊急事態宣言を当然とする意見もあれば、「コロナは季節性の風邪と変わらない」「毎年、コロナによる死者以上にインフルエンザでも人が亡くなっている」「コロナを過度に恐れる必要はない」などの主張もネット上では再びかなりの支持を得はじめている。時間が経てば経つほど、さまざまな考え方が広がり、専門的な知見からも否定しきれない意見が出ることは仕方がないことだ。これまでは無視して抑え込むことができたマイノリティの意見だったかもしれないが、情報化社会では、そうはいかない。SNSも含め、こまめにさまざまな意見を分析し、関係者が連携して戦略的に丁寧に対応していくことが求められる。対話を惜しまず、さまざまな意見・立場の人とのコミュニケーションを通じ、メッセージを発していくことが求められる。そのことが、改めて最後に書くが公共哲学とも結びつく。

関連して内部環境の変化についても言及しておきたい。そもそも任期が限られる政治家において危機の教訓は引き継がれにくいことは認識しておく必要がある。東日本大震災や過去の危機・災害における政治の失敗・課題はどこにあったのか、そのことは今一度、検証が必要ではないか。行政においても、任期の問題は危機管理上においては大きな課題と言える。東日本大震災で対応に当たった多くの防災部局担当者は今は別の部署、あるいはすでに退職していることだろう。

そして、国民一人一人についていうなら、リスクに対する人々のリテラシーの問題がある。つまり、喉元過ぎれば熱さを忘れるということ。危機から時間が経てば忘却してしまう。感染を抑えるために外出を自粛、大雨が降るなら早めの避難、大雪や猛暑が予想されるなら外出を控える――。リスクを回避する当然の行動だが、リスクの受け止め方は人により異なり、ましてや、時間が経過したり、社会インフラが整備されるほど人々は根拠なき安心感を抱き、自由を犠牲にするような行動は選択されにくくなる。もちろん、正常性バイアス、楽観主義バイアス、集団性バイアスもある。

1982年にカナダの交通心理学者ジェラルド・ワイルドが提唱した「リスク・ホメオスタシス理論」がある。これは、自動車の安全性を高めても、ドライバーは安全になった分だけ利益を求めて危険性の高い運転をするため、結果として事故が発生する確率は一定の範囲内に保たれるとする理論である。自然災害で例えるなら、河川に堤防ができても、人々は安全になっただけ雨が降っても避難しなくなり、結果として浸水被害に遭う可能性は一定の範囲内にとどまる、というようなことだ。が、感染症にも当てはめて考えることができるのではないか。すなわち、マスクや消毒液の設置により、あたかも感染症対策ができているような気になり、そのうち、気の緩みから、基本となる手洗いなどは徹底されなくなり、結局、感染リスクは以前と変わらない状態に戻ってしまう。

最後に、政治と国民の意識のズレをどう解消していくのか。そのためには、どのような国が危機に強い国と言えるのか、経済的な影響を受ける割合が少ない国か、幸福と感じる人が多い国か、それとも、弱者を救える国か、こうした公共哲学についても改めて考え、政治の姿勢を我がこととして見ていく必要があるのではないか。