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米国の老後資金問題の深刻度:37%が老後資金ゼロ、公的年金に依存できず、生涯働き続けるしか道はない

中岡望ジャーナリスト
この家族に幸せな老後生活が待っているのだろうか(写真:アフロ)

アメリカで必要な老後資金は50万ドル

 定年退職後、どうすごすかは、世界共通のテーマである。寿命が延びた結果、老後に掛かる総資金の額は増えている。退職後を豊かに過ごすには十分な「年金」と「蓄え」が必要である。日本では「2000万円問題」として、老後資金の不足問題が取り上げられた。日本の現状では公的年金で充実した老後を送るのは難しいことが明らかである。日本の場合、特に寿命が延び、老後に必要とされる資金の総額が多い。また資金の中で大きな比率を占める「退職金」も、期待通り貰えるかどうか怪しくなっている。

 だが老後資金問題は、日本だけの問題ではない。アメリカでは退職を控えたベビー・ブーマー世代(56歳~64歳)の約半数は、老後のための蓄えを持たず、公的年金だけを頼りに生活しなければならない状況に置かれている。大企業に勤めているホワイトカラーは、企業年金や個人年金制度を利用して老後資金を確保できる。だが、中小企業に勤務する人や自営業の人、低賃金で貯蓄の余裕のない人は、そうした制度の恩恵を受けることができない。

 アメリカでは「退職前に50万ドルの老後資金を確保する」こと、あるいは「年収の10倍の老後資金を確保」するのが理想と言われている。50万ドルは1ドル=140円換算で約7000万円に相当する。年収の10倍で考えると、2022年9月時点での一人暮らしの人の年収の中央値は3万7000ドル(518万円)で、その10倍は37万ドル(約5180万円)になる。共働きの家計の年収の中央値は7万0786ドル(約991万円)で、その10倍は約70万8000ドル(約9900万円)になる。アメリカで余裕ある老後生活を送るためには相当な額の老後資金が必要となる。

 ただ、日米を単純に名目的な金額だけで比較しても意味はない。物価水準や為替相場を加味する必要がある。過去最高の円高の時、為替相場は1ドル=89円であった。その為替相場で換算すれば、50万ドルは4450万円である。さらに物価水準はアメリカの方が高いので、実質ベースで考えると、日米間で必要な老後資金の額の差は、数字の差ほど大きくない。いずれにせよ、日米とも公的年金だけでは老後生活はできない。働いている間に巨額の老後資金を蓄える必要がある。

37%が全く老後資金の蓄えがない

 だが、2020年のアメリカの国勢調査では、勤労者の半分が老後のために十分な蓄えを持っていないという結果が出ている。公的年金に依存するしかない。アメリカの通常の退職年齢は65歳である。退職後は「公的年金(Social Security)」がもらえる。平均な公的年金の額は月1800ドル(約25万円)である。65歳以上の家計の1カ月の平均支出額は4000ドル(56万円)である。公的年金では支出の半分も賄えない。足りない分は企業年金や個人年金勘定に頼るしかない。

 シュローダー証券の「2023 US Retirement Survey」によれば、45歳以上の人は、快適な老後生活を送るためには110万ドル(1億5000万円)必要だと信じている。その額は富裕層の場合だと思われる。100万ドルの蓄えができると答えた比率は21%に過ぎない。59%の人は50万ドルを貯めることができると答え、34%は25万ドルを貯めるのも無理だと答えている。45歳以上の人の69%は毎日、お金のことを心配していると答えている。53%はお金のことでストレスを感じていると答えている。

 ちなみにアメリカ人は積極的に資産運用を行っている。同調査では、2022年の資産運用の内訳は、株式31%、確定利付債16%、現金29%、投資信託13%、その他10%となっている。株式運用が多いことで、株価の変動で貯蓄額が大きく変わる。また60歳から67歳の層で十分に老後の蓄えがあると答えた比率は24%であった。

 アメリカ人が持っている「企業年金」や「個人退職勘定(IRA)」などによる貯蓄額の中央値は2022年末の時点で35歳未満が1万3000ドル(182万円)、35歳から44歳で6万ドル(840万円)、45歳から54歳で10万ドル(1400万円)、55歳から64歳で13万4000ドル(1876万円)、65歳から74歳で16万4000ドル(2296万円)である。富裕層を含めた65歳から74歳の層の平均貯蓄額は42万6070ドル(約6000万円)と、中央値を大きく上回っている。

 逆に、まったく老後資金の蓄えのない人の割合は37%に達している。多くの人は、十分な老後資金の蓄えがないまま退職している。また、将来、「公的年金」や「企業年金」は減額されると予想される。個人退職勘定を増やすなどの対応を取っても、悠々自適の老後生活を送ることは難しくなっている。Fidelity Investmentの2023年の調査では、「平均的なアメリカ人は退職後に必要な資金の78%しか確保できておらず、家計の52%は退職後の必要な経費を払えなくなるかもしれない」と指摘している(2023年6月23日、Nerdwallet,「What is the average retirement savings by age」)。

民間企業で働く48%の人は企業年金制度がない

 民間企業で働く5700万人(全従業員に占める比率は48%)は企業年金がない。多くの民間企業は中小企業で、企業年金制度を持っていない。企業年金は大企業で働く人の特権である。従業員10人未満の企業の78%、従業員数が10名から24名の企業の65%には企業年金制度がない。従業員が1000人を越える企業でも、3分の1の従業員は企業年金がない。現在、企業年金は「確定拠出型(401k)」が主流になっている。ただ企業年金を提供する企業は減る傾向にある。企業年金がない企業で働く人は「個人退職勘定」を利用するしかない。これは個人が税の優遇措置が受けられる個人年金口座に資金を積み立て、老後に備える制度である。ただ低所得者の場合、金融機関が口座開設を受け入れないので、実質的にこの制度を利用できない現実もある。

 またアメリカには特殊な状況がある。アメリカは“学歴社会”かつ“階級社会”であり、学歴や人種によって給料だけでなく、企業年金の受給状況が異なる。高卒以下の76%、大卒の50%、大学院卒の32%は企業年金を受給していない。また人種差も大きい。ヒスパニック系のアメリカ人の64%、黒人の53%、アジア系アメリカ人の45%は企業年金を受給していない。

 老後の蓄えがないと、最初に問題となるのは、医療費である。65歳以上の人は、長期的な医療費やケア費に平均12万0900ドル(約1700万円)が必要になると推計されている。National Council on Agingの調査では、自宅でケアを受ける場合、多くの人は2年間分の費用の備えしかない。そうなると国の高齢者医療保険制度(メディケア)に頼るしかない。

残された道は、退職せず、老後も働き続けること

 老後資金を確保できない人はどうするか。できるだけ長く働き続けることである。それしか選択肢はない。現在、75歳以上で働いている人の比率は11%に達している。1996年には、その比率は5%に過ぎなかった。もちろん貧困が理由だけで老後も働いているわけではない。老後になっても社会とのつながりや生き甲斐を求めて働き続ける人もいる。だが多くの人は老後資金の不足を補うために働かざるを得ないのが現実である。

 Axios/Ipsosの調査(2023年7月20日発表)では、20%の人が「生涯働き続ける」と答えている。そのうちの70%が、その理由として「退職後の生活を経済的に維持できない」からと答えている。19%が「経済的な理由以外で仕事を続けたい」としている。40%が「可能な限り仕事をし、完全に引退したくはない」と答えている。退職しないで働いている人の20%は「できるだけ長く働きたい」か、「完全には引退しない」と答えている。

 さらに同調査では、退職せずに働き続けている人の62%は「公的年金では生活費の25%程度しかカバーできない」と答えている。37%は「公的年金では生活費の24%から49%しかカバーできない」と答えている。他方、既に退職した人の37%が「公的年金は生活費の半分もカバーしていない」と、公的年金だけでは生活できないと答えている。19%は「25%以下しかカバーできない」と答え、18%は「25%から49%しかカバーできない」と答えている。「公的年金で生活費の100%以上カバーできる」と答えた人の比率は、わずか5%に過ぎない。

 こうした貯蓄不足の状況に対応するために、多くの人は公的年金の受給開始を遅らせることで老後資金の不足を補っている。アメリカでは62歳になると公的年金を受け取ることができる。しかし、受給開始を70歳まで遅らせると、月々の受取額は倍になる。さらに持ち家の人は、家を担保に資金を借り、不足分を補うことができる。これは「リバース・モーゲージ」と呼ばれる制度である。個人にとって住宅は最大の資産である。

 アメリカでは信じがたいほどの所得格差が存在している。老後資金問題は、苛烈な競争社会がもたらした現実でもある。アメリカでは2020年時点で人口の11.4%の人が貧困線以下で生活している。そうした貧困層は、最初から優雅な老後生活は存在しない。アメリカの老後問題は、日本の「2000万円問題」とは比較にならないほど深刻かもしれない。

ジャーナリスト

1971年国際基督教大学卒業、東京銀行(現三菱東京UFJ銀行)、東洋経済新報社編集委員を経て、フリー・ジャーナリスト。アメリカの政治、経済、文化問題について執筆。80~81年のフルブライト・ジャーナリスト。ハーバード大学ケネディ政治大学院研究員、ハワイの東西センター・ジェファーソン・フェロー、ワシントン大学(セントルイス)客員教授。東洋英和女学院大教授、同副学長を経て現職。国際基督教大、日本女子大、武蔵大、成蹊大非常勤講師。アメリカ政治思想、日米経済論、マクロ経済、金融論を担当。著書に『アメリカ保守革命』(中央公論新社)など。contact:nakaoka@pep.ne.jp

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