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原爆投下を考える:なぜ標的とされた京都に原爆は投下されず、標的でなかった長崎に投下されたのか?

中岡望ジャーナリスト
問い続けられる、「なぜアメリカは原爆を投下したのか」という疑問ー(写真:イメージマート)

なぜ京都は当初の原爆投下リストのトップから外されたのか

 8月になると、毎年、広島と長崎への原爆投下が話題になる。慰霊祭では、原爆の悲惨さと核軍縮の必要性が訴えられる。慰霊祭が終われば、参加者は日常生活に戻っていく。そうした訴えが、残念ながら現実を動かすことはない。筆者は戦後、広島県三原市で生まれ、小学校3年まで地元の小学校に通った。かすかに残る記憶では、広島に原爆が投下された8月6日は登校日になっていた。原爆が投下された時間に校庭ではサイレンが鳴り響いた。そんな幼い日の夏の思い出がある。だが父の転勤で名古屋に引っ越し、地元の小学校に転入したが、そこでは8月6日は登校日ではなく、サイレンも鳴り響くこともなかった。夏になると、そのことが奇妙に感じた。だが時間が経つと、サイレンが鳴らないのが普通であると感じるようになった。

 アメリカの原爆投下に関する興味深い記事を見つけた。法律専門サイト『Verdict』に8月3日に掲載された「なぜアメリカは京都に原爆を投下しなかったのか(Why Didn’t the U.S. Bomb Kyoto?)」という記事である。筆者はネバダ大学のレスリー・C・グリフィン(Leslie C. Griffin)教授である。教授は最近、京都と長崎を訪問している。京都に向かう道中、教授は京都に関するエッセイを読んだ。

 そのエッセイは、トルーマン大統領が京都への原爆投下を命令しなかった理由が書かれていた。その説明では、ヘンリー・スティムソン戦争長官が、京都は古都なので投下すべきではないとトルーマン大統領を直接説得したからだと書かれていた。また戦争長官は1926年の秋に妻と一緒にハネムーンで京都を訪れており、それが長官の大統領へのアドバイスに影響したのかもしれないとも書かれている。スティムソン長官はハネムーンを含め、少なくとも2度、京都を訪れている。いずれにせよ、スティムソン長官が京都を攻撃目標から外したことは間違いない。

 BBCニュースにも同様な主旨の記事がある(2015年8月9日、「The man who saved Kyoto from the atomic bomb」)。同記事の中に「軍部は京都を攻撃対象から外したくなかった。そのため7月後半まで京都は攻撃対象のリストに載っていた。しかし、スティムソン長官が直接トルーマン大統領に(京都を外すように)訴えた」と書かれている。

 グリフィン教授が帰国途中に映画『オッペンハイマー』が封切られた。オッペンハイマーは“原爆の父”と呼ばれる原爆開発の中心人物である。その映画の中で「スティムソン戦争長官がハネムーンに行った京都への原爆投下を思い留まらせた」と語るシーンがある。

 教授は「この新しく知った2つの物語が、私に個人的経験が個人の道徳的選択にいかに影響しているかを思い起させた」と書いている。さらに教授は「数年前、原爆投下の道徳性を考えているとき、天候のことなど思いもよらなかった」と書いている。ただ、他の歴史学者は、単純にハネムーンを理由に挙げることを批判して、スティムソン長官の決定には「もっと深い個人的経験や戦略的選択があった」と語っている。

爆撃目標の小倉は天候不順で、直前で長崎に変更

 グリフィン教授は、休暇で訪れた京都を歩き回りながら、「本当にハネムーンが原爆投下の場所の決定に影響を与えたのか」と考え続けた。教授が会った日本人の旅行ガイドは「天候が悪かったからだ」と説明したという。また教授は長崎への原爆投下も天候が決定要因になったことも知る。もともと投下予定地は小倉であった。教授は「当日、小倉の空は雲で覆われていたため、投下場所は長崎に変更された」ことを知ったと書いている。また2つ目の原爆は8月11日に小倉に投下される予定であったが、天候不順が予測され、9日に繰り上がり、長崎に投下された。

 なぜ天候が重要であったかといえば、飛行機から原爆の爆発する状況を観察し、破壊力を測定する必要があったからである。広島への原爆投下1時間前にStraight Flushという気象観測機が広島上空を飛んでいる。

 グリフィン教授は「How Weather Determined the Target for Atomic Bombs」と題するエッセイに注目している。その中に「広島の空は晴れ渡っていた。その結果、広島に原爆が投下された」と書かれている。長崎への投下についても、当初、投下場所として選ばれていた小倉の空は曇り、靄がかり、上空は視界が悪かった。その結果、原爆を搭載した爆撃機は爆撃地を長崎に変えた。ただ長崎の上空も曇っており、燃料も少なくなっており、操縦士は原爆を太平洋に投下しようと考えた。だが、エッセイには「ほんの一瞬、雲の間にホールができた」と書かれている。

 教授は「なぜこの事実が興味深いのか。私たちが原爆投下の倫理性を議論するとき、空を飛んでいる爆撃機が作戦に成功するか、失敗するかは、雲と靄によって決まるなどとは考えも及ばない」と書いている。教授は、この事実から「政策の選択がどのように決まり、どんな要素が道徳的決定に入ってくるのか」と自問する。スティムソン長官は、原爆の戦略的な評価より、個人的な経験の故に京都への原爆投下を避けた。同様に東京も原爆投下の対象とはならなかった。グリフィン教授は「アメリカ人は日本人にとって天皇は崇高であり、天皇を殺害することは日本人を降伏させることにはならないこと、あるいは東京や京都への原爆投下は長期的なアメリカの目標を損なうことになることを理解していたのだろうか」と自問する。

 博物館The National WWII Museumのサイトにも「How weather determined the target for the atomic bombs」(2022年8月5日)や「The Bombing of Nagasaki, August 9, 1945」(2020年8月9日)などの論文も掲載されている。極めて個人的な経験が重要な意思決定の要因となりうるのである。それによって多くの人々の運命が左右されるのである。

 グリフィン教授は「アメリカでは原爆投下を巡る議論は、長い間、それが“倫理的”、“道徳的”であったかを巡って行われて来た。あるいは原爆投下は広島だけで十分ではなかったかを巡って行われてきた」と指摘し、「ハネムーンや天候が議論されることはなかった」と書く。

アメリカ政府の原爆投下の正当性の主張

 アメリカ政府はどう原爆投下を正当化したのか。アメリカは「Operation Downfall(破滅作戦)」と呼ばれる本土上陸作戦を策定していた。ノルマンディ上陸作戦を越える大規模な作戦であった。1945年2月から6月までの4か月間の闘いでアメリカ軍は既に死者1万8000人、負傷者7万8000人を出していた。上陸作戦を実行すれば膨大な数のアメリカ兵が死傷することは間違いなかった。戦争省はアメリカ兵の死者は40万人から80万人、日本人の死者は500万人から1000万人に達するという推計を発表していた。ただ、その推計の根拠は明らかではない。アメリカ政府は、戦争を早く終結させ、アメリカ兵が被ると予想される膨大な死傷者数を減らすために必要であったと主張した。原爆投下によってOperation Downfallは実行に移されることはなかった。

 だが、戦後、アメリカ国内から、本当に原爆投下は必要だったのかという道義性と道徳性を問う声がでてきた。『Los Angeles Times』の2020年8月5日の記事(「U.S. leaders knew we didn’t have to drop atomic bombs on Japan to win the war. We did it anyway」)は、「過去75年間、アメリカ人が受け入れてきた考え方は、広島と長崎に原爆を投下することが数十万人のアメリカ人と数百万人の日本人の犠牲者を出す可能性のある上陸作戦を実行に移さないで唯一の戦争を終わらせる方法であるというものであった」、「だが日米両国の圧倒的な歴史資料は、原爆投下がなくても8月に日本は降伏していたことを示している。トルーマン大統領と彼のアドバイザーは、そのことを知っていた」と指摘している。

 日本の降伏を決定付けるのはソビエトの参戦である。同記事は「1945年4月11日の時点でアメリカ統合参謀本部は『もしUSSRが参戦すれば、日本人は絶対的な敗北は避けられないと認識せざるを得ないだろう』と予測していた」と指摘する。要するに、戦争を終わらせるために原爆を投下したというアメリカ政府のロジックは成立しないのである。

スティムソン戦争長官の原爆投下に関する釈明

 こうした批判に対して、原爆を開発したマンハッタン計画の顧問であったジェームズ・コナント・ハーバード大学学長はスティムソン長官に答えるように求めた。これに応じて長官は1947年2月に『Harper Magazine』に長文の記事を寄稿している。記事は「ここ数カ月、広島と長崎に対して原爆を投下する決定に対して多くのコメントが寄せられている。この決定は我が国政府が行った最も重大な決定のひとつである。この問題を広く議論することはまったく適切なことである」という文章から始まる。

 さらに続けて、「1945年夏のアメリカ合衆国の主要な政治的、社会的、軍事的な目的は日本の迅速かつ完全な敗北であった」と書く。「7月の時点で私たちの理解するところでは、日本は最後まで抵抗する可能性が強かった。7月の段階ではニューメキシコでの原爆の実験は完了しておらず、アメリカ軍の戦略計画は原爆に頼らないで準備することであった」と、7月の時点での状況を説明する。さらに11月1日までに九州に上陸し、1946年春までに本土上陸を計画していたと、当時の作戦を説明する。その作戦に500万人の兵士を動員することも決まっていた。長官は「早くても46年後半まで戦闘は終わらないと予想していた。私はアメリカ軍だけで100万人の死傷者がでると報告されていた」と書く。日本に対する空爆などで日本は弱体化していた。「重要な疑問は、こうした軍事行動によって日本が降伏するかどうかであった」。この文章は、アメリカ兵の損傷を減らし、早く戦争を終わらせるために原爆を投下したという主張を認めるものである。

 7月28日、鈴木首相はポツダム宣言を拒否した。この拒絶を受け、アメリカは最後通牒に書かれている内容を実行することを決めた。長官は「(その実行とは)我々の決意に裏付けされた軍事力のすべてを動員して日本軍を完全に壊滅し、日本領土を完全に荒廃させることを意味する。その目的のために原爆は最も適した武器であった」と書く。「日本に対する原爆の使用は極めて重要であったため、詳細な計画案が承認を得るためにスタッフから私に提出された。トルーマン大統領の支持を得て、私は攻撃目標のリストから京都を外した」と続ける。さらに、長官は広島と長崎は重要な軍事拠点であると、両都市を選んだ正当性を主張する。そして「原爆は私たちが意図していた目的を完全に果たした」と結論付けている。すなわち、アメリカ兵の犠牲を防ぎ、戦争を迅速に終わらせたというのが、その主張である。

 だが、ソビエトの参戦で日本の降伏は決定的となったという認識をアメリカ政府が持っていたこと、なぜ広島に原爆を投下した3日後に長崎に投下したのかという疑問には何も答えていない。

世論調査にみるアメリカ国民の原爆投下に対する意識

 アメリカの学校では、原爆投下はスティムソン長官の釈明に沿って生徒に教えられている。ただ戦争が終わってから長い時間が経ち、原爆に対する理解も変わりつつある。1995年に終戦50周年を記念してスミソニアン博物館で原爆に関する展示が計画されたが、原爆投下の歴史的背景をめぐって論争が巻き起こり、退役軍人などから抗議で中止に追い込まれたことがある。だが、現在、スミソニアン博物館は、傘下の国立航空宇宙博物館で2025年に開催予定の展示会「第二次世界大戦の空中戦」で、原爆投下後の広島と長崎の写真を展示する計画を立てている。アメリカの原爆に関する見方も変わってきている。

 世論調査機関Pew Research Centerは2015年8月4日に原爆投下に関する調査結果を発表している(「70 years after Hiroshima, opinions have shifted on use of atomic bomb」)。原爆投下を支持すると答えた比率は、1945年には85%であったが、2005年には57%に低下している。2015年には、正当化できるが56%、正当化できないが34%であった。同調査は「アメリカ人は常に原爆投下を承認し、正当であると考えている。ただ原爆使用を支持する人は次第に少なくなっている」と指摘している。興味深い指摘は、世代によって分かれていることだ。65歳以上の70%は原爆投下を正当であると答えているのに対して、18歳から29歳の世代で正当と答えた比率は47%であった。また政党支持別でみると、共和党の74%、民主党の52%が正当であったと答えるなど大きく分かれている。

 それ以降、原爆投下に関するアメリカ人の意識調査は行われていない。アメリカ人の関心が薄れたのかもしれない。そんな中、今年に入って、再び、原爆投下問題が議論される状況が起こった。

映画『オッペンハイマー』が引き起こす原爆投下の正当性を巡る議論

 7月21日、マンハッタン計画の責任者で原爆開発に携わり、「原爆の父」と呼ばれるロバート・オッペンハイマーを描いた映画『オッペンハイマー』が封切られた。この映画を切っ掛けにアメリカでは原爆投下の是非を巡る議論が再発している。以下、筆者が気付いたメディアに掲載された記事を列挙する。タイトルを見るだけで、ほぼ議論の内容は推察できるだろう。

①「The bomb saved countless lives in WWII. But we must never use it a 

   gain」(Evan Thomas, 4月24日、『The Washinton Post』)。

②「The atomic bombings left Oppenheimer shattered: ‘I have blood on

   my hands’」(Timothy Bella, 7月21日、『The Washington Post』)

③「‘Oppenheimer’ is here. Is Hollywood still afraid of the truth about the

   atomic bomb?」(Greg Mitchell, 7月20日、『Los Angeles Times』)

④「Oppenheimer Is Uncomfortably Timely Tale of Destruction」(7月21

   日、『The New Republic』)

⑤「How Oppenheimer weighed the odds of an atomic bomb test ending  

   Earth」(Mark Johnson、7月24日、『The Washington Post』)

⑥「An Atomic Bomb History Expert on ‘Terrible Moral Dilemma in Oppen

   heimer」(Olivia B. Waxman, 7月25日、『The Time』)

⑦「'Oppenheimer’ reignites debate: Was the U.S. justified in dropping at

   omic bombs on Japan」(Mike Bebernes、7月28日、『Yahoo News』)

 全部の内容を紹介できないので、⑦の記事の内容を紹介する。筆者は『ヤフー・ニュース』の上級編集者である。筆者は「物理学者J・ロバート・オッペンハイマーがいかにして『原爆の父』になったかを描いて大成功を収めた映画『オッペンハイマー』はほぼ80年に渡って行われてきた議論に新しいエネルギーを注ぎ込んだ。第2次世界大戦を終わらせるために日本に原爆を投下したのは正しい決定であったかを巡る議論である」と書いている。原爆投下直後はアメリカ人の大多数は、それを支持した。「だが、人々の受け止め方は、この数十年で変わった。2015年までに原爆投下が正当かどうかを巡ってアメリカの人々の意見は半々に割れている」。

 オッペンハイマーは広島への原爆投下のニュースを聞き、喜んだ。その時、彼は「唯一の後悔は、戦争の初期の段階でナチスに使えるように原爆の開発が間に合わなかったことだ」と語ったと伝えられている。映画を見ていないので、映画のなかで、そうしたシーンがあるのか分からない。広島、長崎に原爆が投下されてから数か月後、オッペンハイマーはトルーマン大統領に「私の手は血塗られているように感じる(I feel I have blood on my hands)」と語り、原爆開発を後悔し始める。戦争が終わってから、オッペンハイマーは原爆の厳格な管理を求め始める。

 筆者は「原爆投下を批判する人々は、アメリカの指導者は日本人に最大限の被害を与えることを望み原爆を投下した。そこには戦争を終結させる最も損害の少ない方法を求める冷静な計算はなかったと主張している」と批判的な立場を紹介する。記事の中には賛否両論が紹介されている。そこで紹介されている様々な議論は政治の現実を踏まえたものである。

 翻って日本で行われている議論を聞いていると、極めて情緒的な印象を受ける。「原爆の悲惨さ」を訴えるだけでは核軍縮はできない。ましてや核廃絶は遠い夢である。広島県以外では、8月6日の原爆投下時間にサイレンは鳴らない。

ジャーナリスト

1971年国際基督教大学卒業、東京銀行(現三菱東京UFJ銀行)、東洋経済新報社編集委員を経て、フリー・ジャーナリスト。アメリカの政治、経済、文化問題について執筆。80~81年のフルブライト・ジャーナリスト。ハーバード大学ケネディ政治大学院研究員、ハワイの東西センター・ジェファーソン・フェロー、ワシントン大学(セントルイス)客員教授。東洋英和女学院大教授、同副学長を経て現職。国際基督教大、日本女子大、武蔵大、成蹊大非常勤講師。アメリカ政治思想、日米経済論、マクロ経済、金融論を担当。著書に『アメリカ保守革命』(中央公論新社)など。contact:nakaoka@pep.ne.jp

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