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日本は本当に「経済大国」なのか?:経済統計と海外経済との比較でみた日本経済の本当の姿

中岡望ジャーナリスト
日本経済に再び活況は戻るのだろうか(写真:アフロ)

■GDPは本当の豊かさの尺度ではない

人は、自分のことを過大評価する傾向がある。国に対する意識も同様である。日本は本当に豊かな国なのか。日本は世界第3位の「経済大国」という言葉が一般的に使われ、国民もそれを額面通りに受け取っている。だが世界を見渡すと、日本は誇るほどの経済大国ではないのかもしれない。確かにGDP(国内総生産)を見れば、アメリカ、中国に次ぐ規模の経済大国である(以下の統計はIMFによる)。GDPは国民が一年間働いて新たに付け加えた価値(付加価値)の総額である。単純に言えば、労働人口が多く、国民が一生懸命働けば、それだけ合計額のGDPは大きくなる。だが、GDPだけでは、本当の豊かさを計ることはできない。ちなみに、アメリカのGDPは20兆8072億ドルである。中国は14兆8697億ドル、日本は4兆9105億ドルである。

 通常使われるGDP統計には国内の物価水準が反映されていない。国際比較する場合、ドルで換算する。だが、同じ1ドルでも、それぞれの国では価値が違う。1ドルの価値は日本と中国では違う。中国の物価水準は日本より安いので、中国では多く買える。それを調整するために、それぞれの国の物価水準を反映したGDPが必要になる。それが「購買力平価(PPP: Purchasing Power Parity)」で計ったGDPである。「購買力平価GDP」で見ると、各国の順位は大きく変わってくる。世界第1位は中国になる。要するに中国の物価水準は低いのである。すなわち1ドルの実質価値は高いことを意味する。2位はアメリカである。日本は第4位に順位を下げる。その額は、中国が24兆1624億ドル、アメリカが20兆8072億ドル、3位がインドで8兆813億ドル、そして日本が5兆2361億ドルである。ちなみにお隣の韓国は14位である(GDPでは10位)。

 これでも正確に国民の豊かさは表現されない。既に指摘したように、労働人口の多い国はGDPが大きくなる。だが一人がどれだけの価値を生み出しているかは分からない。そこで、「一人当たりのGDP」が重要になってくる。すると1位はルクセンブルクになる。2位がスイスである。アメリカは5位に順位を下げる。日本は22位に低下する。中国は59位と発展途上国の水準にまで低下する。要するに中国のGDPが大きい最大の理由は人口が多いことなのである。

一人当たりの購買力GDPで見ると日本は世界28位

 これでも十分に国民の豊かさを表現できない。「購買力平価でみたGDPの一人当たりのGDP」が重要になる。それによると、アメリカは7位とさらにランクを下げる。日本はどうか。世界で28位である。

 中国に至っては73位にまで順位を落とす。人口が多いから、人口数で割ったGDPが少なくなるわけである。この数字から見る限り、中国が経済大国だというのは憚られる。規模が大きいから、国家予算の規模も大きく、軍事力強化や海外援助もできるのである。ただ、その分、国民に負担を強いていることになる。これが「超大国」中国のもうひとつの顔である。

 お隣の韓国は24位で、日本より順位は上にくる。アジアで見ると、シンガボールが全体の第2位で、アジアでトップにランクされている。他のアジアの国では、香港が9位、台湾が14位であり、日本はアジアでは4位に過ぎない。日本は経済大国であるというのは、日本人の思い込みによる“幻想”である。世界と比較すると、日本人はそれほど豊かな生活を送っているわけではない。多くの日本人が持っている“自己イメージ”は修正すべきかもしれない。

富の偏在こそが一番の問題

 さらに問題なのは、国内における“富の配分”が公平に行われているかどうかである。最富裕層1%が全体の所得に占める割合は、アメリカは20.2%、中国は13.9%、日本は10.4%である。参考として韓国は12.2%である(国連統計)。所得配分の平等という点では、日本は平等な社会と言える。“ストック”でみると格差はもっと広がる。アメリカの場合、最富裕層1%は総資産の27.9%を保有している。純資産では31.0%、株式と投信の保有では52.7%を保有している(セントルイス連銀資料)。想像を絶する格差が存在している。日本も同様な傾向を示しており、野村総合研究所の富裕層調査では、2019年の純金融資産保有額が1億円以上の富裕層は約133万世帯と調査開始以降過去最多となっている。

 この傾向は世界全体でも見られる。国際労働機関の調査では、所得階層別で上位10%に属する人が受け取る勤労所得は全体の48.9%を占めるのに対し、下位50%の人々の所得は全体のわずか6.4%にしすぎない(資料:『The Global Labour Income Share and Distribution』2019年7月)。

 所得や資産の格差は拡大傾向にある。ベストセラー『21世紀の資本』で著者のトマ・ピケティは、所得・資産格差はさらに拡大すると分析し、話題となった。その論理は簡単である。超富裕層の所得源泉は勤労所得ではなく、金利や配当収入といった資本収益である。上で示したように、超富裕層1%がアメリカの株式・投信の52%を保有している。株高は超富裕層に巨額の配当収入だけでなく、純資産増をもたらす。一方、賃金は経済成長率で決まる。しかし、経済成長率は投資収益率を恒常的に下回るので、富裕層の所得の伸びのほうが常に大きくなる。リーマン・ショック後の株価暴落があったとき、超富裕層の所得や資産は一時的に減少したが、超低金利を背景に株高が進み、すぐに回復している。

 アメリカは富裕層が優遇されている国である。ただし、以前、限界最高所得税率はもっと高かった時代がある。1944年には94%であった。戦後も1954年には92%であった。次第に税率の引き下げが行われ、1989年には28%にまで引き下げられている。日本の現在の限界最高税率は所得4000万円以上に対して45%であるが、1970年代は75%(対象は8000万円以上)。アメリカほどではないが、富裕層の税負担は大幅に低下している。

労働者の分け前(労働分配率)が低下している

 経済が成長しても、言い換えればGDPが大きくなっても、一般の人々の所得が増えないことには生活は豊かにはならない。世界的な傾向として、労働者の取り分は減少している。逆にいえば、株主や企業の取り分が増えているのである。「労働分配率」は、賃金を付加価値で割った値である。この値が高い場合、労働者の取り分が多いことを意味する。アメリカの場合、1950年代、労働分配率は65%程度であった。しかし、2016年には56%にまで低下している。10ポイントも低下している(『New Look at the declining labor share of income in the United States』,McKinsey Global Institute 2019年5月)。その傾向は現在も続いている。2017年の水準を2000年と比較した場合、アメリカの労働分配率は5.9ポイント低下している。

 日本の場合、戦後、着実に上昇し続けた労働分配率は2010年を境に低下に転じている。労働分配率は景気の影響を受けやすい。景気が良い時は低下し、景気が悪い時は上昇する傾向がある。したがって短期の変動よりも長期的な推移を見ることが重要である。日本特有な問題は、労働分配率の低下と企業の内部留保の増加が対応していることだ。企業は本来賃上げに充当すべき利益を独占しているのである。また労働組合の交渉力の低下や「賃上げよりも雇用確保」といった方針も、労働分配率低下の要因のひとつであろう。

 労働分配率の低下は、実質賃金低下につながる。生活の豊かさは物価上昇分を除いた「実質賃金水準」で決まる。時間当たりの労働賃金の国際比較を見てみる。全労連が作成した「実質賃金指数の推移と国際比較」によると、先進国の中で唯一日本だけが実質賃金が低下している。1997年を100とすると、2016年の日本の実質賃金は89.7と大きく減っている。これに対してスエーデンは138.4と38%も上昇している。低迷しているアメリカでも115.3、ドイツでも116.3の上昇を達成している。フルタイム就労者の購買力平価でみた賃金年収では、1997年には日本はOECD平均を上回っていた。金額でいえば、日本は3万6249ドルで、OECD平均は3万5478ドルであった。トップのルクセンブルクは5万ドルを超えていた。アメリカは4万6415ドルであった。アジアでは、韓国は2万5947ドルに過ぎなかった。

 だが2015年になると、状況は大きく変わる。日本の賃金年収は3万5780ドルと減少している。OECD平均は4万1253ドルに増えている。アメリカは5万8714ドルに増え、第2位になっている。1位のルクセンルクは変わらず、6万ドルを上回っている。韓国は3万3110ドルと日本に肉薄している。

 「時間当たりの実質労働賃金」も、当然ながら、同じ傾向を示している(『データブック国際労働比較2019』、労働政策研究・研修機構)。2005年の日本の時間当たり購買力平価換算の賃金を100とすると、アメリカは121、イギリスは108、ドイツは150だった。2017年になると、日本の100に対して、アメリカは133、イギリス114、ドイツ178となっている。先進国のいずれとも格差は拡大している。日本の水準を指数100としているが、現実は12年間の間に低下しているのである。

貧困状況で暮らす子供たちが増えている

 貧困問題は途上国だけの問題ではない。世界銀行の推定では、世界の推計では、2020年に貧困の生活を強いられている人は1億1500万人に達し、2021年には1億5000万人に増えると推定している。先進国でも、経済格差の拡大で貧困問題が深刻になっている。特にアメリカの貧困問題は深刻である。OECD加盟国で2019年の貧困率は第3位である。貧困線以下で生活している人の割合は、17.8%、実数で3815万人である。アフリカ系アメリカ人の20.8%が貧困の生活を強いられている。アメリカの貧困問題は、人種問題と絡み合っている。

 ちなみに韓国の貧困率は16.7%の全体の7位である。先進国ではイタリアの13.9% 、カナダの11.8%、ドイツの10.4%などがある。日本は2019年の統計は同調査には載っていない。日本の貧困率は2018年で15.4%であった。貧困率の高い国に入る。ピークは2012年の16.1%である(資料:Statista Research、2021年2月9日)。韓国と大差はない。

 それよりも深刻なのは子供の貧困である。日本の子供の貧困率はG7の中で最高である。厚生労働省の「2019年国民生活基礎調査」では、2018年の18歳未満の子供の貧困率は15.7%であった。7人に一人の子供が貧困生活を強いられている計算になる。母子家庭世帯の貧困率は48.1%と信じられないほど高い。母子世帯の86.7%が「生活が苦しい」と答えている。ちなみに日本の貧困線は112万円である(その定義は可処分所得の中央値の半分)。この水準の所得は貧困線というよりも「飢餓線」ともいえる水準である。

 筆者が公立高校の評議員をやっていたとき、ある福祉関係の担当者から話を聞いたことがある。貧困家庭の子供は学習達成度が低く、生活意欲に欠けるが、福祉施設に入所し、生活習慣が改善すると成績は確実に上昇するとのことであった。子供の能力の問題ではなく、家庭の問題なのである。そうした子供は学習機会に恵まれず、貧困の再生産が起こる。政府はそれなりの政策を取っているのであろうが、成果が上がったという話は聞かない。

 子供の貧困と同様に高齢者の貧困も深刻である。OECDの統計では、日本の60歳以上の高齢者の約20%が貧困状況にある。

日本は“豊かな社会”を作り上げることができるのか

 日本は、GDPは大きいが、実態は中進国並みである。人はいつも自分を実態以上に高く評価する傾向がある。日本人は日本の経済を過大評価しているのかもしれない。

 日本政府は、バブル経済後の経済再建に失敗した。GDPの成長は止まってしまった。GDPが大きくならなければ国民は豊かになれない。経済学でいう“トリクル・ダウン効果”が期待できる。だが政府は経済政策に失敗しただけでなく、GDPが大きくなっても、貧しい人に恩恵が及ばない仕組みを作り上げてしまった。非正規労働者の増加である。

 総務省の2020年12月の「労働力調査」では、役員を除く従業員総数は5625万人であった。内訳は、正規労働者数は3534万人、非正規労働者数は2093万人であった。非正規の比率は37.2%であった。その比率はやや低下しているが、それは正規雇用への転換によるものではなく、新型コロナウイルスの影響で仕事を失った人が増えたためであろう。

 小泉改革以降、非正規労働が合法化され、企業は正規労働者を減らし、非正規労働者を増やすことで大幅に労働コストを削減できるようになった。同じ仕事をしながら、正規社員と非正規社員の間に大きな賃金格差が存在している。欧米のように「同一労働同一賃金制」が確立されていない状況であれば、企業が非正規社員を増やすのは当然のことである。非正規社員は賃金格差に加え、社会保険費も自己負担を迫られる。いつ契約が解除されるかという不安な精神状況に置かれる。

 さらに政府は「働き方改革」という言葉は美しいが、働く人に対する過酷な政策を行おうとしている。残業削減は好ましいが、多くの社員にとって残業代がなくなることは大きな収入減を意味する。短い時間で同じ仕事を処理するのであれば、労働生産性は向上したことになる。生産性向上は本来なら従業員に還元されるはずが、すべて企業が自分のものにする。「働き方改革」でも企業は労せずして労働コストを削減し、利益を上げることができる仕組みになっている。

 政府は、労働時間が減った社員に“副業”を進める。それは労働の“流動性”を高め、従業員の“能力アップ”につながると説く。“正業”をこなしながら、“副業”に勤しむのは容易ではない。普通の人にとって負担はさらに大きくなり、「働き方改革」とは逆の結果がもたらされるだろう。超人的な優れた能力を持つ人にとっては好ましい制度かもしれない。就業時間の短縮で収入が減った社員は、副業をしなければ、十分な所得は得られない。“強者のための制度”である。普通の社員は今まで以上に疲弊するのは目に見えている。企業は“短期的に”成果を享受できるだろうが、長期的には衰退に向かうことになる。

失われる“日本経済の強み”

 非正規従業員の増加や副業推奨は、日本企業の最大の利点を奪ってしまう。現場で“継続的な改善”を行うのが日本企業の強みであった。革新的なイノベーションは簡単に起こるものではない。政府が笛を吹き、旗を振り、資金を出しても、イノベーションが起こるわけではない。政府主導のイノベーションが成功したという話は聞いたことがない。日本企業は、日々の生産工程や作業の見直しを進めることでコストを削減し、競争力を付けてきた。非正規従業員や副業を強いられた従業員に、そうした貢献を期待できるだろうか。

 日本経済の低迷は、人々の働きが足りないからではない。GDPの70%以上を占める個人消費が低迷しているからである。既に説明したように、20年以上にわたって実質賃金の伸びは低迷している。所得が増えなければ、経済は成長しない。また将来に不安を感じていれば、消費を抑制するものである。政府は「供給サイド」を強調するあまり、「需要サイド」の問題を軽視してきたのが、長期低迷の最大の要因ではないだろうか。

なぜ経済政策は間違ったのか

 新自由主義は「供給サイドの経済学」と結びついている。その経済学は、供給サイドを強化することで経済成長を高めることができると主張する。供給サイドを強化するには、投資資金が必要であり、その最も効果的な政策は富裕層の減税であるとも説く。富裕層の貯蓄率が高く、富裕層は貯蓄と投資に向けるからだ。既に指摘したように、日本も含め多くの先進国では最高税率の大幅な引き下げを行ってきた。供給を増やせば、消費がついてくるというのは、古典派経済学の主張でもある(常に貯蓄と投資は一致する。すなわち供給過剰は発しない)。だが現実には消費は自動的には増えない。需要と供給は自動的に調整されない。貧富の格差は消費を抑制する。ケインズ経済学でいえば、需要が足りないから不況になるのである。ケインズ経済学は別名「需要サイドの経済学」で、需要の創出の重要性を主張する。

 もうひとつ、付け加えておくことがある。新自由主義あるいは供給サイドの経済学は労働市場の自由化を主張する。彼らは市場における自由競争が最適な資源配分をもたらすと信じている。彼らは、労働市場は大組合による寡占状況が成立し、賃金が硬直化していると考えた。その第一歩が労働組合潰しであり、固定的な労働協約の廃止であった。言葉を換えれば、「労働市場の流動化」である。労働者個人と労働契約を結ぶことである。労働組合は力を喪失し、企業に対する交渉権を失い、自分たちを守ることに腐心するようになる。非正規労働者は、彼らの雇用を守るバッファーとなった。組合の衰退は、労働賃金の低迷へとつながった。すべて相関した中で、現在の経済状況が起こっているのである。

 日本の為政者がどこまで意識して新自由主義や供給サイドの経済学に期待したのかわからない。筆者は、小泉改革が始まったとき、「20年遅れのレーガン革命」だと評したことがある。アメリカの労働市場は極めて流動的であり、レーガン革命を受け入れる経済的、社会的基盤が存在した。日本の悲劇は、そうした現状認識のないままに、上澄みだけを汲み取って日本に導入したことだ。そのツケは、これからますます大きくなっていくだろう。

 もうひとつ日本特有の問題を指摘しておくべきだろう。それは、貧困は自己責任だとする意識が強いことだ。弱者に対する共感性の欠如が日本社会の特徴だというと、反論されるだろうか。

平等な社会こそ成長の原動力である

 経済に関する記事で『論語』を持ち出すのは違和感があるかもしれない。『論語』に「寡(すくな)きを患(うれ)えずして均(ひとし)からざるを患う」という言葉がある。その言葉をベースに、日本で「貧しきを憂えず、等しからざるを憂う」という言葉が作られた。現代的に解釈すると、「経済成長が足りないと騒ぐのではなく、不平等が存在することを心配すべきである」となる。『論語』の言葉はさらに続く。「富が平均すれば、貧しいこともなくなる。人心が安定すれば、国が傾くことはない」。人々が将来に不安を抱くことがなくなれば、間違いなく消費は増える。最近の経済学は“期待(expectation)”の要素を重視するようになっている。個人消費も所得水準だけでなく、将来に対する期待や気持ちで左右されるのである。孔子は「経世済民」(=経済)の本質を見抜いていた最初の人物かもかもしれない。現代的な言葉でいえば、「中産階級」の存在こそが経済発展の原動力なのである。

 働く人は二つの顔を持つ。一つは「労働者」としての顔であり、もう一つは「消費者」としての顔である。労働賃金を削減することは、消費を低迷させることになる。経済学のいう「合成の誤謬」である。企業にとって良いことが、経済全体にとって良い結果をもたらすものではない。金利や法人税引き下げで、企業は大きな利潤をあげ、巨額の利益を内部留保している。その一方で賃上げに反対している。こうした状況が続けば、「企業は栄え、経済は滅びる」ということさえ起こりかねない。

 新自由主義は競争こそが成長の原動力だと説く。富める者は限りなく富めば良いと勧める。金持ちこそ経済成長の原動力だと強弁する。そして貧富の格差は限界まで拡大した。だがアメリカが最も豊かで、黄金時代を享受したのは、限界所得税率が90%を超えていた1940年代と50年代である。アメリカが最も平等であった時代でもある。

 日本も世界で最も平等な社会だと言われた時代があった。それは日本が最も成長した時代でもある。豊かな社会は、健全な中産階級があって初めて可能なのである。働く人を軽視する社会が豊かになれるはずはない。

 日本が再び経済大国であると胸を張って言えるようになるには、経済政策と社会政策を根本的に見直し、日本をどんな社会にするのか明確なビジョンを語る必要がある。政権維持だけが目標で、常に詭弁を弄する政府に、それを期待するのは無理かもしれない。

 昨年の12月に亡くなられた三菱商事の槇原稔元社長は「日本の不況はコーポレート・ガバナンス不況だ」と書いておられたのを記憶している。まったく同感である。企業経営者の劣化とビジョンの欠如が日本経済の長期的低迷の背景にあるのは間違いない。経済を作るのは政府ではなく、企業家である。残念ながら、筆者は社会哲学やビジョンを語れる経営者は一人も知らない。

ジャーナリスト

1971年国際基督教大学卒業、東京銀行(現三菱東京UFJ銀行)、東洋経済新報社編集委員を経て、フリー・ジャーナリスト。アメリカの政治、経済、文化問題について執筆。80~81年のフルブライト・ジャーナリスト。ハーバード大学ケネディ政治大学院研究員、ハワイの東西センター・ジェファーソン・フェロー、ワシントン大学(セントルイス)客員教授。東洋英和女学院大教授、同副学長を経て現職。国際基督教大、日本女子大、武蔵大、成蹊大非常勤講師。アメリカ政治思想、日米経済論、マクロ経済、金融論を担当。著書に『アメリカ保守革命』(中央公論新社)など。contact:nakaoka@pep.ne.jp

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