なぜ右傾化する高齢者が目につくか―「特別扱いは悪」の思想

秋葉原での外国人排斥デモ(2015.5.17)

  • 右傾化する高齢者が目立つようになっている。
  • ところが、現在の60~70代は若者だった50年前、極めて進歩的とみなされていた。
  • この大転換は、この世代に強い反権威的な傾向だけでなく、誰かが特別扱いを受けることへの拒絶反応によって生まれたとみられる。

 少し前のことだが、「右傾化する高齢者」が一部で話題になった。とりわけ60代後半から70代前半のいわゆる団塊世代の場合、若い頃にむしろ進歩的だった人でも右傾化しやすい素地があるとみられる。そこには、この世代で特に強い「反権威主義」がある。

高齢者は右傾化しているか

 一時、「右傾化する若者」がクローズアップされた。これは日本に限らず、外国人や少数者に対するネット上でのヘイトや抗議デモなどで若者が目立ったのがその一因だろう。

 ところが、その一方で、高齢者の右傾化もしばしば指摘されるようになっている。一昨年、朝鮮学校への補助金交付に賛成した(一部はデマだった)という理由で、複数の弁護士に大量の懲戒請求が送られた事件では、逆に威力業務妨害などで提訴されて謝罪や請求撤回に追い込まれた人に60~70代が目立ったという。

 もちろん、あからさまに排外主義的な言動をする者はどの世代にもおり、高齢者が全員右傾化しているわけでもない。とはいえ、全体として高齢者の方が保守的なことは、データからもうかがえる。

 例えば、平成30年度の内閣府の世論調査で「韓国に親しみを感じる」と回答したのは、18~29歳で57パーセントを超えていたが、年代が上がるにつれ減少し、60~69歳で約31パーセント、70歳以上で約28パーセントにとどまった。

 同様のことは、海外でも見て取れる。例えば、アメリカでは年齢層が高くなるほどトランプ政権支持者が多い。また、2016年にイギリスで行われたEU離脱の賛否を問う国民投票では、高齢者ほど離脱賛成が目立った。

権威に批判的な世代

 「高齢者はもともと保守的」と割り切るなら、これらの結果は不思議ではない。しかし、現在の60代後半から70代前半にかけての世代は、かつて極めて進歩的とみなされていた

 第二次世界大戦後の第一次ベビーブーマーに当たるこの世代は、戦後の自由で民主的な社会の一期生ともいえる。彼らが封建的な気風の強い戦前世代と鋭く対立したのが、1960年代後半から1970年代初頭にかけての大学紛争で、1969年の東大安田講堂事件はその象徴となった。

 大学紛争は、当時の大学の機械的な運営や学費値上げなどへの反発に端を発したが、これがやがて官僚支配や大企業による経済支配といった社会の構造そのものへの批判に発展した。その延長線上に、アメリカ史上最もダーティーな戦争の一つベトナム戦争や、日米安保条約のもとでこれを暗に支える日本政府への批判も噴出し、大学だけでなく高校にも余波が広がったのである。

 「虐げられた若者の反乱」が起こったのは日本だけではなかった。1968年から1969年にかけて、アメリカの公民権運動やベトナム反戦運動、パリ中心部を占拠した学生運動「5月革命」、そしてソ連の影響下に置かれていた当時のチェコスロバキアで発生した民主化運動「プラハの春」などが、世界各国で同時多発的に発生した。

 これらはいずれも、今よりさらに年長男性優位(アメリカではここに白人キリスト教徒という条件がつく)が鮮明だった時代に、「自分たちの声を聞け」という欲求に駆られていた点でほぼ共通する。これは、その後の女性の社会進出や人種差別規制などに結びついた。

スローガンと常識の狭間

 だとすれば、なぜ現在、歳を重ねたこの世代に右傾化する人が目立つのか。

 少なくとも日本の場合、この世代に変わり身の早い人が目立ったことは、以前からその上下の世代から指摘されてきた。大学紛争で授業を妨害し、デモを行い、果ては警官隊と衝突した人々の多くは、卒業が近づくと見事に社会に順応し、就職活動を行って、その後は企業戦士としてバブル経済に突っ込む日本経済を支えた。

 状況をみて自分の生活を優先させることは、常識的といえば常識的だ。しかし、それ以前「明日にも革命が起こる」と言わんばかりだった人々の豹変ぶりは、イデオロギーがある種のファッションに過ぎなかったことを示唆する。この観点からすれば、世の中のセンターラインがずいぶん右に寄った現代、右傾化することはファッションとして申し分ないかもしれない。

 ただし、それではただの無節操に過ぎなくなる。(別に右傾化する高齢者を擁護しなければならない義理はないが)たとえ思想的に大きく転換したとしても、そこに何らか基軸はないのだろうか。

二つのヒント

 このヒントが二つある。

 第一に、マルクス主義歴史学者で労働運動家ダニエル・ゲランの、パリ5月革命に関する観察だ。

「それは直接行動を、決然たる違法行為を、職場の占拠を武器とみなした。…それはすべてを、すべての既存の思想を、すべての既成の機構を告発した…あらゆる権威は辱められ、また、さらには嘲弄された」。

出典:ダニエル・ゲラン『現代アナキズムの論理』, p8-9.

 ゲランの『現代アナキズムの論理』はパリ5月革命の前後にフランスで広く読まれたが、彼の観察からは当時の若者が、大きな力で支配されることを拒絶した様子がうかがえる。ここに、権威や年長者に黙って従うのをよしとした戦前世代とは異なる革新性があった。

 もう一つは、現代のネトウヨを取材してきたジャーナリスト安田浩一氏の、右傾化する高齢者に関する「かつては『見下ろす差別』が主流だったが、現在は『見上げる差別』が主流になっている」という考察だ。

 つまり、右傾化する高齢者(だけではないが)に目立つのは、「在日コリアンなどが特別な扱いを受けるのは不公平だ」という認識とみてよい。

ぶれない一線とは

 この二つの考察は、別々のことを言っているようでいて、ある点で近い。それは「特権階級に自分たちが虐げられている」という意識の強さだ。

 この視点からすると、1968年当時に批判の対象となった政治家、巨大企業、メディアなどはもちろん特権階級だが、「特別な扱いを認められている」がゆえに少数者もまたそこに収まる。この考え方には「特別扱いは悪」という思想が鮮明だ。

 右傾化する高齢者を含むこの世代は、少なくとも法的には自由な発言が認められる時代に生まれ育った一方で、多くの人がそこそこ豊かになれた「一億総中流」と呼ばれる時代を生きてきた。このような横並びが当たり前の時代感覚にさらされてきたことが、わずかな不平等にも不満を感じやすい土壌になっている(こうした思想の持ち主は、「もともとビハインドのある人のスタートラインを前にしなければフェアでない」という発想が限りなく薄く、どうかすると「ビハインドのある方が悪い」という思考になりやすいが、恐らく公共交通機関や病院の支払いで高齢者が優遇されることには何も思わないのかもしれない)。

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 これに加えて、社会全体で差別に厳しくなったことが、かつてエリート支配を拒絶した人々に「反権威」のスイッチを入れやすくしたとみられる。「少数者には特別な配慮をするべき」、「差別的な言動をしてはいけない」という考え方があらゆる人を拘束するようになったことは、反差別が一種の権威になったことを意味するからだ。これはフェミニストを「全体主義者」と呼ぶ欧米の極右の思考パターンと共通する。

 こうして、かつての進歩的な若者が、あえて差別的な言動をする右傾化した高齢者に転身できたとするなら、そこには「あらゆる権威は辱められ、また、さらには嘲弄された」1968年との、ある種の一貫性を見出せるのである。

長い学生生活

 権威に一方的に従うのを拒絶すること自体は、近代的な「精神的自立」と評してよい。ただし、それは一歩間違えれば、自分自身の判断や考えを絶対視する独善につながる。

 こうして右傾化した高齢者の多くは、(他の世代より)時間的、金銭的な制約が少ないため、気に入らないネット記事を非難罵倒するコメントを長々と書き込んだり、勝手に義侠心に燃えて特定の弁護士の懲戒を求める書類を作成したり、場合によっては平日の昼間からヘイトデモに参加したりすることのハードルが低い。

 それはちょうど、余裕のある大学生だからこそ大学紛争に邁進できたのと同じだ。右傾化する高齢者は、50年の時を経て、長い学生生活を謳歌しているのかもしれない。