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世界が直面する核の危機-印パ和平を阻む宗教ナショナリズムとは

六辻彰二国際政治学者
インド軍パイロットの解放を祝福するインド市民(2019.3.1)(写真:ロイター/アフロ)
  • カシミール地方をめぐり、インドとパキスタンの間の衝突は激化している。
  • パキスタン側は「和平への意思表示」を示しているが、インドはこれに積極的に応じようとせず、パキスタンもそれ以上の譲歩は難しい。
  • 両者の対立のエスカレートは核の使用という最悪のシナリオがあり得るが、両国政府は宗教に基づくナショナリズムに絡めとられている。

 いずれも核保有国であるインドとパキスタンの間で、国境をめぐる緊張がエスカレートし、国際的な懸念も高まっている。全面衝突がお互いにとって最悪のシナリオとわかりながらも、両国が和平に踏み切れない原因の一端は、いずれの政府もナショナリズムを鼓舞して支持を集めてきたことにある。

インド軍パイロットの解放

 3月1日、パキスタン軍に拘束されていたインド軍パイロットが解放された。モディ首相が帰還を祝うメッセージを発したのをはじめ、インド全体がこれを歓迎し、パイロットは一躍英雄になった。

 パキスタン政府は今回の解放を「和平への意思表示」と説明している。先月から激化してきたインド―パキスタン国境での衝突が、これ以上エスカレートするのを防ぐための措置だというのだ。

 インドとパキスタンはもともと、カシミール地方の領有をめぐって1947年からしばしば衝突を繰り返してきた。1972年には国連の仲介でインド・パキスタン管理ライン(LOC)が設定され、この停戦ラインで分断される領域をそれぞれが実効支配する状況が続いている。

 今回、この火種が大きくなったきっかけは、2月14日にインドが実効支配するカシミールのプルワマで、インド治安部隊の車両を狙ったテロ事件が発生し、42人以上が死亡したことにあった。犯行声明を出したイスラーム過激派ジェイシュ・ムハンマドは、パキスタン政府によって支援されているとインド政府は主張。パキスタン政府はこれを否定しているが、報復が報復を呼び、2月27日には1971年以来、初めて両軍機がLOCを超えて活動した。

 冒頭で触れたインド軍パイロットは、この際に撃墜され、捕虜になっていた。

危機回避の動き

 インド中の関心の的になっていたパイロットの解放によって、パキスタン政府が対立のエスカレートを回避しようとすることは、インドに比べて国力で劣ることからすれば不思議ではない。

 また、対立がエスカレートしたきっかけがジェイシュ・ムハンマドのテロ攻撃だったことも、パキスタン政府にすれば後ろめたい部分があるだろう。パキスタン政府は否定しているが、「ジェイシュ・ムハンマドがパキスタン政府と結びついている」という指摘は、欧米諸国でもほぼ共有された見方だ。この点でも、パキスタン政府はできるだけ早く幕引きを図りたいとみてよい。

 それだけでなく、アメリカ、ロシア、中国、サウジアラビアなど多くの国が対立のエスカレートを避けるよう求めて働きかけていることも、和平に向けた機運となっている。国際的な懸念は、インドとパキスタンが核保有国であることを大きな背景とする。

 インドとパキスタンは、カシミール問題をめぐる対立を背景に核開発を競って進め、1998年にそれぞれ核兵器の保有を宣言。その後の20年間で、いずれも弾道ミサイルや核ミサイルを搭載できる潜水艦の配備などを進めてきた。

 つまり、対立がエスカレートすれば核の使用にまで行きつきかねず、その場合にはどちらが先制攻撃しようとも必ず核の報復を受けることになる。2月27日にパキスタンのクレシ外務大臣が「戦争を望んでいない」というメッセージを発したことは不思議でない。

和平に消極的なインド政府

 ただし、パキスタン政府の和平メッセージに、インド側は積極的に応じる気配をみせていない

 冒頭に述べたように、モディ首相はパイロット解放を祝福したものの、インド軍がジェイシュ・ムハンマドを攻撃していることを念頭に、「彼ら(パキスタン政府)に問いたい。我々の部隊を支援しようというのか、それとも疑っているのか」と述べ、パキスタン政府の「和平の意思表示」に疑問を呈した。

 同様に、パイロットの解放を受けても、インド政府からは矛を収めない発言が出ている。シン対外関係大臣(外務大臣にあたる)が「釈放は国際法的に当たり前のことで、それでパキスタンが我々に好意を示したことにはならない」、「1971年以来、我々は9万人のパキスタン兵捕虜を釈放してきた」と主張したことは、これを象徴する。

 インド政府も「核戦争に勝者はない」ことを理解しているはずだ。それでも強気の姿勢を崩さないのは、パキスタンに対して軍事的・経済的に優位に立っているという自己認識だけでなく、「ジェイシュ・ムハンマドを支援して火種をふりまいておきながら、この期に及んで和平を求めるのはムシが良すぎる」という不満があるとみてよいだろう。

 アメリカやイギリスがジェイシュ・ムハンマドを「テロ組織」に指定し、ロシアやサウジアラビアもインドの「テロとの戦い」を支持していることは、インドにとって自分たちの大義名分を押し通しやすい条件になっているとみられる。

ヒンドゥー・ナショナリズムの影

 しかし、モディ首相以下、インド政府が強気を崩さない背景には、国内政治上の理由も考えられる。

 インドでは4月から5月にかけて議会下院選挙が実施される。モディ首相と与党・インド人民党(BJP)は、2014年選挙の勝利で初めて勝利した。ただでさえ初の再選を狙う重要な選挙を前に、モディ政権が宿敵パキスタンに厳しい態度をとることは不思議でない

 とはいえ、モディ政権の場合、「危機を収束させて国家の安全を図る」ことを手柄にするより、「とにかくパキスタンを追い詰める」ことに向かいやすいことは、そのイデオロギー的な立場にもよる。モディ首相は世俗主義を原則としたインド歴代政権と異なり、「ヒンドゥー教徒=インド人」という図式を鮮明に押し出し、宗教ナショナリズムを鼓舞してきた。

 その結果、インドでは少数派であるムスリムへの嫌がらせや暴行が相次いでいるばかりか、警察や公的機関がこれを無視する傾向が強くなっている。

 つまり、ヒンドゥー・ナショナリズムを掲げ、とりわけイスラームの排斥を唱導してきたモディ首相にとって、ジェイシュ・ムハンマドやパキスタン政府との対決は、これ以上ない宣伝効果をもつのである。

ポピュリストの苦悩

 一方、「和平への意思表示」を示したパキスタン政府も、これ以上インドに配慮する姿勢をみせることはしにくい。そこには、イスラーム過激派と結びついたパキスタン政府の事情がある。

 今回の対立のきっかけになった2月14日のプルワマでのテロ事件を受け、パキスタンのカーン首相は2月19日、「ジェイシュ・ムハンマドに関するインドの調査に協力する用意がある」と声明を発表。2月22日には、ジェイシュ・ムハンマドの拠点の一つをパキスタン当局が捜索した。

 しかし、これまで歴代のパキスタン政府は、自国の外交・安全保障上の理由から、アフガニスタンのタリバンをはじめ、イスラーム過激派を育成し、近隣諸国でのその活動を支援してきたといわれる。ジェイシュ・ムハンマドはその一つで、カーン首相がその取り締まりを実際に強化することは難しい。

 これに拍車をかけているのが、カーン首相個人の特性だ。

 カーン首相は有名な元クリケット選手で、その高い知名度と端正なルックス、そして「政界のアウトサイダー」としてクリーンなイメージで、「90日間で大規模な汚職を撲滅する」といった実現がほとんど不可能な約束を掲げて2018年に最高責任者の座に上り詰めた、いわゆるポピュリストだ。

 その大きな方針はイスラームの価値観と現代的な国家を融合させることにあり、イスラーム過激派というより、「イスラーム世界の一部であること」にアイデンティティを見出すナショナリストとみた方がよい。しかし、「イエスは歴史において言及されていない」と述べるなど、イスラーム過激派が喜びそうな発言もしばしばで、タリバンなどへの対応が「ソフト」であるともみなされてきた。

 そのカーン首相も、さすがにインドとの全面衝突を避けるため、「和平への意思表示」を示したわけだが、インド軍パイロットの解放には閣僚からも「解放した後でインドが攻撃してくることもある」と異論が出るなど、その基盤は不安定だ。パキスタンの反インド感情の高まりに鑑みれば、ポピュリストのカーン首相にとって、これ以上の譲歩は難しいとみられる。

 こうしてみたとき、インドとパキスタンの両首脳は、対立がエスカレートする事態を回避したいと考えていたとしても、自分たちが掲げてきたスローガンと情動的な国内政治に拘束され、そこに向かうのが難しいといえる。言い換えると、合理的な判断が宗教ナショナリズムに絡めとられているのだ。その意味で、インドとパキスタンはナショナリズムとポピュリズムが蔓延る世界が直面する危険を象徴するのである。

国際政治学者

博士(国際関係)。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学などで教鞭をとる。アフリカをメインフィールドに、国際情勢を幅広く調査・研究中。最新刊に『終わりなき戦争紛争の100年史』(さくら舎)。その他、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『世界の独裁者』(幻冬社)、『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『日本の「水」が危ない』(ベストセラーズ)など。

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