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半世紀の空白を解消して 和歌山海南

森本栄浩毎日放送アナウンサー
戦前からセンバツで活躍した海南は27年ぶりに復活した

かつてセンバツを彩った数々の名門で、現在も甲子園を狙える力を持ったチームは限られている。大正13年の第1回センバツ出場8校のうち、旭丘(当時愛知一中)は、最後の甲子園が昭和4年の春夏だから、空白期間は80年を超える。進学校としても有名な同校だが、復活への道のりは険しい。今大会に出場する海南(和歌山)も半世紀にわたる苦難の歴史があった。

戦前から活躍し名勝負も

海南の初出場は海南中時代の昭和8年春。夏も含め、戦前に8回出場して、2度の4強入りを果たしている。当時の和歌山は、海南中とともに和歌山中(桐蔭)、海草中(向陽)、和歌山商(県和歌山商)の4強がしのぎを削っていた。海南が初出場した昭和8年のセンバツにはこれら4校が揃って出場し、「野球王国和歌山」の名をほしいままにしていた。海南は戦後も県を代表する強豪として君臨し、甲子園では優勝を左右する好試合を演じている。昭和38年センバツでは、池永正明(西鉄)の下関商(山口)と延長16回の死闘を演じた。この大会の優勝校・下関商が最も苦戦した相手が海南である。昭和39年にも春夏連続出場するが、いずれも初戦を突破したあとその大会の準優勝校に敗れた。対戦相手を考えると、優勝校にひけをとらないチーム力であったことがうかがい知れる。海南の歴史上、この2年間が最強であったと思われる。主戦投手がのちに河合楽器を経てヤクルトからドラフト1位指名される山下慶徳(けいとく)。遊撃手に、日南学園(宮崎)を甲子園常連に育て上げた小川茂仁元監督。近畿大会でも2年連続優勝し、特に昭和39年センバツでは優勝候補に挙げられていた。ところがこの大会を制したのが同じ海南でも徳島の海南。主戦の尾崎正司(のち将司)が、プロゴルファーのジャンボ尾崎だったことは有名な話である。徳島海南は甲子園がこの一度きりで、現在は複数校と統合されて、校名が消えてしまっている。

昭和60年秋、県大会優勝

この2年で優勝のチャンスを逃した海南は長いトンネルに入ってしまう。それでも昭和56年には和歌山工に肉薄して夏の県大会準優勝。昭和60年秋には県大会を制して近畿大会に出場し、22年ぶりの甲子園が手の届くところにあった。主戦の大堀幸人(NTT関西)は本格派の好投手で、投打にバランスがとれた好チーム。県の決勝でも御坊商工(現紀央館)を寄せつけず、7-0で圧倒していた。大津の皇子山球場で行われた近畿大会には14校が出場した。当時は大阪と兵庫が3校であとは2校だから、おのずと1回戦不戦勝のいわゆるスーパーシードが2校発生する。海南はこのスーパーシードになり、初戦が準々決勝で、相手は奈良2位の天理になった。このときの天理は強チームで、主戦は本橋雅央(早大)。主砲に中村良二(近鉄、2月から天理高コーチ)、山下和輝(阪神)とそうそうたるメンバーがいて、明らかに荷が重かった。この天理は夏に同校初の全国制覇を成し遂げる。試合は天理打線が火を噴き、中村の本塁打などで7-1と快勝した。海南にとってはコールドに近い完敗と言われても仕方ない。一方の御坊商工は初戦の1回戦で綾部(京都2位)を破り、海南と同じ準々決勝で智弁学園(奈良1位)に0-2で敗れた。

千載一遇の出場機逃す

翌昭和61年のセンバツ選考会では、和歌山の2校が近畿最後の1枠を争った。近畿大会で優勝校の天理に完敗したとはいえ、県の直接対決で勝っている海南が有利という見方もあり、地元では出場を確信して甲子園に向けての準備も始まっていたと聞く。しかし結果は残酷だった。県大会の実績を一顧だにせず、近畿1勝の御坊商工が選ばれた。当時の選考過程を紐解く。『部員16人の御坊商工がデータで海南に見劣りするが、最終的な力をはかる地区大会での気力充実した試合ぶりが認められた』(昭和61年2月2日、毎日新聞から)。同じ準々決勝敗退でも、近畿で勝利のなかった海南が、県大会で圧勝したチームより下に位置付けられたのである。まさにスーパーシードが仇になった形だ。この判断は非常に難しい。仮に海南が初戦でどこかのチームに勝っていたら、天理に完敗していても海南が選ばれていただろう。最終的に同県で1枠を争う場合は、直接対戦の結果が重視されるのが最近の傾向でもある。ただ当時の選考は地区大会最重視だったから、あまりに重みのある近畿1勝と言えよう。近畿大会におけるスーパーシードの悲劇はそのあとも起こり、不評であった。ちなみに関東では現在も開催県1位校がスーパーシードになり、関係者、当事者を悩ませている。出口の見えかけたトンネルはさらに長く続く。

大成が甲子園で活躍

すでに述べたように、選考会の21世紀枠プレゼンテーションで和歌山県高野連の松下理事長が、海南と合併した大成のことを強調した。合併後、大成の名は消えたが、緑だけだった海南のストッキングにエンジのラインが入っている。これは大成のイメージカラーとして受け継いだものだ。私は大成にも思い入れがある。大成は昭和56年秋の近畿大会(大阪・日生)に初出場して健闘した。私が初めて観た近畿大会である。大成は初戦で、直前の夏に甲子園デビューを果たしたばかりの近江(滋賀1位)に完封されかけたが、9回逆転サヨナラでうっちゃった。当時の冨田修身監督(故人)は、「近江が優勝候補でね。そこに勝ったのが評価されたんですよ」と懐かしそうに話していたのを思い出す。甲子園でも勝利を挙げた。そして2度目の出場は昭和62年のセンバツ。このときは部員10人での出場で、守備についたときにはベンチに選手一人だけという珍しい光景が見られた。実はこのときの大成も海南同様に、前年秋の近畿はスーパーシードになり、初戦(準々決勝)で敗退した。つまり未勝利での選出になったのである。ただ、このときの選考事情は海南と違う。2位校の日高が初戦で敗退し、大成も明石(兵庫2位)に1点差の惜敗であったこと。そして何より定員(当時15人)を大きく下回る部員10人が話題をさらっていた。海南の敵を大成が取った形だ。このとき、将来海南と大成が一緒になると予想した人がいるはずもない。甲子園でも東海大甲府(山梨)に食い下がった。背番号10の選手が最後に代打出場(三振)したときには、スタンドが拍手に包まれたことは鮮明に覚えている。私はこの試合で、ヒーローインタビューを担当した。最後に、「相手は10人ということで、こういうチームから何か学んだことはありますか」と東海大甲府の選手に質問した。インタビュー対象者も、返答も忘れてしまったが、当時いつも怒られてばかりだった小社スポーツ局の幹部から「あれはいい質問だった」と初めて褒められた。私にとって2度目のセンバツ。忘れられないほのかな思い出である。

昨秋、大成の思いを胸に名門が復活

大成は、その後の少子化に伴い、海南に合併された。しばらく「海南大成」の名で出場していたが、大成の名は消えた。OBの心情は察するに余りある。2度の甲子園出場は海南に受け継がれた。と同時に、海南が復活の兆しを見せ始める。

3年前の近畿大会では初戦敗退を喫した。11年10月29日大阪・舞洲
3年前の近畿大会では初戦敗退を喫した。11年10月29日大阪・舞洲

3年前の秋の近畿大会(大阪・舞洲)に和歌山2位で登場したのである。まとまりのある好チームだったが、初戦で奈良1位の奈良大付に完敗した。今チームの2代前であるから現役生とも接点がある。そして昨秋。新人戦準決勝、2次戦決勝と智弁和歌山に敗れたが、和歌山2位で2年ぶりに近畿大会に出場した。前回よりも大柄な選手が多く、主戦の岡本真幸(3年)は評判が高かった。ただ、相手は難攻不落の履正社(大阪1位)で、攻略は難しい。初回に失策で得点したが、その後は防戦一方となった。5回には外野の落球から1死3塁のピンチを迎える。ここで相手3番が初球をセーフティースクイズ。岡本の好判断で本塁憤死させると、続く4番を迎え履正社は盗塁を決めた。岡本は真っ向勝負を挑んだが4番の打球は詰まりながらも二塁後方に落ちた。同点になってからは、海南が攻める。毎回の好機となったが、履正社の堅陣を崩せない。洗練された内外野の守備力はさすがだ。8回、当たり損ねの二塁打をきっかけに決勝点(スクイズ)を奪われた。岡本が投げ負けた印象はない。試合は1-2で惜敗した。安打数では上回ったが、適時打は出なかった。完全復活とは言えなかったが、ファンも含め、一定の満足感があったのではないか。私も観戦していて、久しぶりに感動した。

強豪・履正社に対し、海南はチーム一丸で善戦。ストッキングには大成のエンジ色が。
強豪・履正社に対し、海南はチーム一丸で善戦。ストッキングには大成のエンジ色が。

私の中では、21世紀枠での選出がちらついていた。長い歴史を持つセンバツに、戦前から貢献してきた名門を招待することは、至極当然のことと言える。選考会当日、海南OBと大成OBが、揃って出場の喜びを分かち合った。今チームには、大成校舎から片道9キロを自転車で練習に通う選手が4人いる。彼らは大成の誇りを忘れていない。大成OBの思いは形として残された。ストッキングのエンジ色に凝縮され、甲子園に立つ。海南としては50年ぶりとなるが、大成にとっての27年ぶり3度目の甲子園は紛れもない事実である。

毎日放送アナウンサー

昭和36年10月4日、滋賀県生まれ。関西学院大卒。昭和60年毎日放送入社。昭和61年のセンバツ高校野球「池田-福岡大大濠」戦のラジオで甲子園実況デビュー。初めての決勝実況は平成6年のセンバツ、智弁和歌山の初優勝。野球のほかに、アメフト、バレーボール、ラグビー、駅伝、柔道などを実況。プロレスでは、三沢光晴、橋本真也(いずれも故人)の実況をしたことが自慢。全国ネットの長寿番組「皇室アルバム」のナレーションを2015年3月まで17年半にわたって担当した。

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