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あの日、亡くなられた方たちのことも思い浮かべて届ける阿部さんの語りに触れて #あれから私は

水上賢治映画ライター
「空に聞く」 小森はるか監督 筆者撮影

 まもなく東日本大震災から10年。時間という枠組みで考えると、ひとつの区切りの年を迎える。

 3月に入ったあたりから、この10年を振り返るような被災地についてのニュースが届きはじめ、改めて時の経過を実感したのではないだろうか?また、震災後の社会について考え、被災地に思いを寄せ、被災地の人々の声に耳を傾ける時間が増えているのではないだろうか?

 昨秋から公開が始まり、現在も全国各地で上映が続く小森はるか監督のドキュメンタリー映画「空を聞く」もまた、3月11日のあの日までとその後と今日という現在に、そしてそこに存在した人々の声に深く思いをめぐらすことになる1作だ。

 東日本大震災が起きた直後からボランティアに入り、そのまま東北へ移り住み、創作活動を現在も続ける小森監督が本作で見つめたのは、「陸前高田災害FM」で3年半にわたってパーソナリティを務めた阿部裕美さん。震災後の陸前高田で阿部さんは、ラジオ・パーソナリティとして(いや、ひとりの人間としてといったほうがふさわしい気がする)、地域の人々に寄り添い、地域の人々の声に耳を傾け、その声を地域の人々へと届けた。

 阿部さんの姿は、声は、言葉は、被災地の人々にも、被災地から遠く離れた人々にも、きっと大切なことを届け、人として大切にしたい心に気づかせてくれるに違いない。

「陸前高田災害FM」と阿部裕美さんとの出会い

 初めて、阿部さんと出会ったときのことを小森監督はこう振り返る。

「友人の瀬尾夏美と東京から岩手県陸前高田市の隣町、住田町に引っ越したのが2012年春のことでした。当然ですけど、土地勘もなければ知り合いもいない。

 その中で、町の人がいま必要であろうことをきめこまかく発信して伝えてくれる『陸前高田災害FM』は私にとっても貴重な情報源で、最初はTwitterを追っていたんですが自然とラジオも聴くようになっていました。

 当時、災害FMは被災地の各地で立ち上がっていたんですけど、その中でも『陸前高田災害FM』は渋い存在というか(笑)。いわゆるプロのラジオという感じでもないし、必要事項だけを淡々と伝える行政の情報発信とも違う。

 町の人が町の人に直接届けている。そういう身近でおじいさんやおばあさんたちが聴いていそうな、ぬくもりのある放送で。勝手ながら親しみを覚えていました

 そんなある時、大船渡の災害FMに勤めていた知人に紹介してもらって『陸前高田災害FM 』のスタジオを訪ねたんです。

 そのとき、初めて阿部さんとお会いしました。第一印象は、初めてあった気がしないというか。『移住してきた芸大生がいる』という話が阿部さんの耳に入っていたみたいで、私と瀬尾のことを笑顔で迎えてくれました。『番組に出てほしいと思っていたんだけど、その前にあなたたちが来てくれた』と喜んでくださったんです」

「空に聞く」より
「空に聞く」より

正確に読むことよりも、町の人のことを思い浮かべて、きちんと届けよう

 このとき、こんなことも感じたという。

「『陸前高田災害FM』の放送にある、ぬくもりの理由がわかったというか。阿部さんだけではなく、ほかのスタッフのみなさんも、町に愛着がある人ばかりで。たとえば、あるニュースの原稿があったとしたら、その内容を正確に読むことよりも、町の人のことを思い浮かべて、きちんと届けようとしている。そういうことが『陸前高田災害FM』のあたたかみのある放送につながっているのではないか、と思いました。わたしが『陸前高田災害FM』を聴いているときに感じる、親しみやすさを実感しました」

 その出会いから約半年後、阿部さんに撮影取材のお願いを申し込んだという。

「ここで暮らしながら誰かを撮りたいとなったとき、自然と阿部さんの顔が思い浮かんで、お願いしました。

 ただ、当初から阿部さん個人に焦点を当ててなかったというか。パーソナリティとしての阿部さんを撮りたい思いがあり、『陸前高田災害FM』での撮影を基本にはしていたけど、阿部さんを含め『陸前高田災害FM』自体を記録にとどめたい気持ちもあったんですね。

 阿部さんも『陸前高田災害FM』に登場する市民の方たちのことを記録に残しておいてほしい気持ちを持っていらして、撮影自体は前向きに受け入れてくださった。

 ですから、『陸前高田災害FM』での阿部さんを中心とした形で、撮影は始まりました」

「空に聞く」より
「空に聞く」より

阿部さんの声が聴けなくなってしまうとは思っていなかった

 撮影はスムースに始まった。ところが実情としては、『陸前高田災害FM』にいる間には、阿部さんを撮り切るまで至らなかったという。

「なかなか、わたしが『陸前高田災害FM』の幅広い取り組みを集中して撮影することができなかったんです。

 月に1、2回、わたしのアルバイトが休みの日と、阿部さんが地元の方に取材する日で、タイミングがあったときに撮影に行くといった具合で。なかなか撮影する機会がもてなかったんですね。

 ただ、阿部さんとは近所や別の用事で会うことも多く、取材のときだけ会う間柄ではなかった。そういうときにも、時間を作ればよかったのに撮ろうとはしなかったんですね。そのことを、いますごく後悔しています。

 でも当時は、そのように頭がまわらなかくて。阿部さんの『陸前高田災害FM』での活動をきちんと追っていけば、おのずと阿部さん自身が見えてくるのではないか、また取材したり、スタジオで話している阿部さんを追っていれば、きっと『陸前高田災害FM』の記録にもなると思って、『陸前高田災害FM』の場にカメラを向けることをしぼっていたんです。

 あと、阿部さんの番組はラジオから毎日流れていて、それがわたしにとって当たり前の日常のようになっていて、まさか『陸前高田災害FM』がこんなに早く終わりを迎えると思っていなかったんです。阿部さんの声が聴けなくなってしまうとは思っていなかった

 だから、『いつでも撮れる』とちょっと油断していたところがありました

 まだまだ撮ろうと考えていた矢先に、阿部さんはラジオ・パーソナリティを卒業。『陸前高田災害FM』も終わりを迎える。ここで一度、作品作りは暗礁に乗り上げそうになった。

「これまで撮ってきた素材を前に、どうしようかなと思いました」

「空に聞く」より
「空に聞く」より

阿部さんと真正面から向き合うことに

 そこで、阿部さん自身へのロングインタビューを試み、真正面から向き合うことにした。

「わたしの勝手な思い込みなんですが、それまではインタビューをして人を撮ることをしたくないなと思っていたんです。

 作り手としての自分には、その人が暮らしている時間に、必ずカメラが入れるところがどこかにあると思っていて、そこを見つけて、入り込んで、撮り重ねることで、その人自身を描きたい気持ちがある。

 だから、カメラをまわしている中で人が自然と語り出すのはすごく好きなんですけど、ちょっとかしこまって、インタビューで言葉を引き出して、その人に語らせるような形はどうなのかなと躊躇する気持ちがありました。

 でも、2018年3月に『陸前高田災害FM』が閉局し、その頃には阿部さんもラジオ・パーソナリティの職を離れて和食屋さんを再開し、新しい日常が始まっていて。街の風景も大きく変わってしまったときに、もう阿部さんの語りの中にしか、『陸前高田災害FM』の存在が見いだせなくなってしまったというか。『陸前高田災害FM』でもありますが、阿部さんはラジオを通して、ここで生きる人たち、もっというとここで東日本大震災が起きる前まで生きていた人たちの思いまでを、離ればなれに暮らしているまちの人たちに届けていた、そういう時間があったことを忘れたくないという思いを持ちました。。それを今記録するには、阿部さんの語りを聞くことしか手段が残されていなかった。

 結果として、消極的だったインタビューをしてよかったと思っています。

 取材をもっと積み重ねていたとしても、ふだんの阿部さんを撮っていたとしても、阿部さんの思いを伝えられなかったかもしれないなと。

 ラジオ・パーソナリティのとき、阿部さんは基本的に聞き手としている人でしたから、自分の思いをカメラの前ではほとんど語ることはなかったんですね。

 聞き手になるのは緊張しましたけど、きちんと対話できて、阿部さんの思いを正面からきけたことは自分にとってもよかったことです」

「空に聞く」より
「空に聞く」より

 地域の人々の心にそっと寄り添い、そのさまざまな声をラジオを通して届けた阿部さん。もう、これは作品を見て確認してもらうしかないのだが、阿部さんの語りには不思議な力がある。ひとつの情報を情報で終わらせない、なにか受け取った人の心にじんわりと沁みいるような親密さと優しさがある。

「阿部さん自身は、もともと積極的に表に出るタイプの方ではないと思います。実際にパーソナリティを希望して災害FMの仕事に就いたわけではないそうです。

 『陸前高田災害FM』には過去に番組制作の経験があるディレクターさんがいらっしゃって、その方が阿部さんをパーソナリティに抜擢したとお聞きしています。

 撮影していて思ったのは、阿部さんは、マイクの前で語る人たちの思いを、まちの人たちと共有できる人というか。たとえば取材で地元のお年寄りの方に話をきくわけですが、上手に話を聞き出そうとか、うまくまとめようとか考えていない。その人がその人らしく普段通りに話せることを心がけていらして。

 また、たぶん通常だったらノイズとしてカットされてしまうようなマイクにぶつかってしまった音とか、沈黙してしまったところとか、生活音だったり、そういった音を届けることもを大切にされていました。それは、なにか、語るその人が、現在生きていることをそのまま伝えようとしているようにわたしの目には映りました。そうしたラジオから聞こえてくるノイズこそが、リスナーである地域の人々の心をあたためるものになっていた気がします

「空に聞く」より
「空に聞く」より

 阿部さんから聞いたのですが、隣町の山間部の仮設住宅で、電波の届きにくいエリアでもラジオを毎日欠かさず聞いているというおばあさんがいらしたそうで。それを知って、阿部さんはお家を訪ねたそうです。

 実際にラジオを聴いてみたら、確かに電波状況が悪くて、たまに音楽が聴こえたり、誰かがしゃべっている音がかすかに入るぐらい。ほとんどとぎれとぎれでしか聞こえない。

 でも、おばあさんはおっしゃったそうです。『高田の人の声が聴こえると安心する』と。

 阿部さんは、このおばあさんのような人の思いを一つ一つ知っていって町の人々が、『ひとりじゃない』と、思えるように気持ちを込めてマイクに向かっていました。阿部さんのラジオでの語りというのは、ほんとうに一人一人に届くように、語りかけているようで。そこにはあの日、亡くなられた方たちへ届くようにという思いも、同じようにあるからなんだと思います

 阿部さんと出会ったことで、私自身、ひとりの映像作家として、陸前高田の人々の声を『伝える』ということはどういうことなのか、一人の声を聞いたときに、それをどう届けたら良いのかを考えるようになりました。阿部さんは「聞く」人でした。その聞き手としての姿勢から、『伝える』というのはただ発信するだけでなく、目の前にいる人と今ここにいない人との間に立つことであるということを教えてもらいました」

 なお、小森はるか監督は、アートユニット<小森はるか+瀬尾夏美>としての作品「二重のまち/交代地のうたを編む」が現在公開中。さらに特集上映「映像作家・小森はるか作品集 2011―2020」と展覧会も開催中だ。

 この機会に、地元の人々のこぼれおちた声を集め、町の小さな変化をつぶさにみつめ、東日本大震災の記憶を後世へと伝える彼女の作品の数々に出合ってほしい。

「空に聞く」より
「空に聞く」より

『空に聞く』

全国順次公開中。

最新の公開スケジュールは https://soranikiku.com/#theater

場面写真はすべて(C)KOMORI HARUKA

『二重のまち/交代地のうたを編む』

ポレポレ東中野、東京都写真美術館ホールほか全国順次公開中。

最新の公開スケジュールは https://kotaichi.com/#theater

特集上映「映像作家・小森はるか作品集 2011―2020」

3/19までポレポレ東中野にて開催中、3/20より名古屋シネマテーク、4/2より京都 出町座、4/3より大阪 シネ・ヌーヴォなどほか全国順次開催。

最新の公開スケジュールは https://www.soranikiku.com/kh/#theater

展覧会「聴く―共鳴する世界」

「小森はるか+瀬尾夏美」作品を出展。

3月21日(日)まで群馬県・アーツ前橋にて開催中。https://listening.artsmaebashi.jp/

展覧会「3.11とアーティスト:10年目の想像」

「小森はるか+瀬尾夏美」作品を出展。

5月9日(日)まで茨城県・水戸芸術館現代美術ギャラリーにて開催中。https://www.arttowermito.or.jp/gallery/lineup/article_5111.html

映画ライター

レコード会社、雑誌編集などを経てフリーのライターに。 現在、テレビ雑誌やウェブ媒体で、監督や俳優などのインタビューおよび作品レビュー記事を執筆中。2010~13年、<PFF(ぴあフィルムフェスティバル)>のセレクション・メンバー、2015、2017年には<山形国際ドキュメンタリー映画祭>コンペティション部門の予備選考委員、2018年、2019年と<SSFF&ASIA>のノンフィクション部門の審査委員を務めた。

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