「母と娘の距離を感じてもらえたら」。人間賛歌を心に忍ばせる気鋭の脚本家が「記憶の技法」に込めたこと
2016年に急逝した吉野朔実の同名漫画の映画化となる「記憶の技法」は、ジャンル分けすると心理サスペンスに当てはまるのだろう。ただ、そのジャンルにとどまらない、犯罪被害者の遺族、犯罪加害者の家族、生みの親、育ての親、養子縁組など、誰もが直面するわけではないが、誰もが直面するかもしれない、個人としても社会としてももっと関心を寄せたいテーマをいくつも配した奥深い作品として成立している。
養子だったことを知った主人公の華蓮が、出自をたどり、衝撃の事実を知る本作に関しては、先日、池田千尋監督のインタビューを届けた。そして、今回は脚本を手掛けた高橋(※正式はハシゴの「高」、以後同じ)泉との話から作品世界に迫る。
高橋と池田監督はすでに何度も顔を合わせている、いわば旧知のタッグ。先のインタビューで池田監督は脚本を高橋に託した理由を、
「高橋さんとは、私が『東南角部屋二階の女』で監督デビューする少し前に出会って以来のお付き合いで。私が初めてご一緒したプロの脚本家であり、無条件に信頼している脚本家でもあります。
なぜ、無条件に信頼しているかというと、社会や世界、人間を見つめる眼差しの在り方が、とても心地良いからです。物事や人物の見方が共有できると私は思っていて。非常にフラットなんですね、色眼鏡で見ない。暖かくも鋭い視点が作品を支えてくれるんです」と明かしている。
池田監督は通常の商業映画ならやんわりと省くところを切り捨てない
大友啓史監督、白石和彌監督、河瀬(正式は右上が「刀」の「瀬」)直美監督ら名だたる監督と組んでいる高橋自身は池田監督との仕事をどう考えているのだろうか?
「脚本作りに関して言うと、池田さんだからこうしようとか、ああしないといけないとかはないです(笑)。そもそも、この監督はこういうタイプだからこういう感じで書いた方がという考えになることはない。
ただ、池田さんとはこれまでさまざまなタイプの作品でご一緒している。その中には、商業的なものもあれば、作家性が強く出ているものもある。そこからの僕の個人的な推察に過ぎないんですけど、池田さんはわりとエッジが立っているというか。池田さんのフィルモグラフィーからはあまりイメージできないかもしれないですけど、通常の商業映画だったらやんわりと省くような、女性の生々しい生理的な部分をリアルに描き切ることができる。また、それを描くことをためらわない。そういう本質を持っているのではないかなと。
実は、池田さんとはまだ成立していない、プロットどまりの企画が3つぐらいあるんですけど、それはほんとうに女性のドロドロした部分というか。女性であり人間の本性に迫るようなものなんです。
僕が書いた、そういう人間の醜いところやちょっと目をそむけたくなるようなリアルなところを池田さんは切り捨てない。
たとえば、作品によっては、そういった部分を自分が思ったように包み隠さずに書くと怖がられたりするんですよ。僕としては普通に書いているつもりんなんですけど、『この人間は狂っているんですか』とか、『これは生々しすぎて観客がひいてしまうのではないか』とか言われて、スパッとカットされてしまう(苦笑)。
でも、池田さんはそういうところを切り捨てない。そういう意味で、人間や社会に対する眼差しみたいなところで似ているところがあるかもしれません」
主人公・華蓮は事実とは違う、作られた景色をみて育ったところがある
吉野朔実の原作からは脚本家としてこんなことを考えたという。
「高校生の華蓮が韓国へ修学旅行に行くことになり、戸籍をみたところ、自分が養子であったことを知り、出自について調べる旅に出て、自らのアイデンティティの問題を解決するという大筋のストーリーがある。
この大枠はいじってはいけない原作だと思いました。中心には、華蓮という主人公の成長がある。
自分が養子であることを知らされずに生きてきた彼女は、なんというか与えられた景色の中で生きてきたというか。戸田菜穂さん演じる母の由加子に悪気はない、娘を思ってのことなんですけど、なにか事実とは違う、作られた景色をみて華蓮は育ったところがある。それによって、記憶が改ざんされているところもある。
華蓮が与えられた記憶の外側に踏み出して、自分の記憶を取り戻す。このポイントは大切にしたいなと。
ただ、少し前に書かれた原作(2002年)ですから、そのままでは今の時代にそぐわないところもある。そのあたりを微調整しつつ、あえて1つだけ大きく改訂したのは、由加子の存在。原作ではあまり触れられていないんですけど、由加子の母としての気持ちや立場を入れたいなと。
真実を知った娘の華蓮と、これまで真実を伝えないできた母の由加子が向き合ったとき、どういう感情が生まれ、どう着地するのかを描く上でも、母の気持ちを描くのはひじょうに重要だと思いました。
母と娘の距離が観てくれた人に感じとってもらえたらと思ったんです。このことは今の時代を考える上でも大切なのではとの思いもありました」
脚本を書く上で悩んだ点を正直にこう明かす。
「記憶は難しかったというか。タイトルになっているように、この作品において、記憶は重要なポイント。記憶をどう配置して、そのシーンではどれぐらいみせて、どう明かしていくのか。もっとシンプルに考えてもよかったかもしれない。ちょっと考えすぎて複雑になったのではないかと、思うところがあります」
いわゆるキラキラ・ムービーとして見てもらってもいいんじゃないか
先述した通り、本作は、加害者家族や被害者遺族、養子縁組など、社会的な議論の必要なテーマが内包されている。今の社会に深く根差した映画といっていい。
ただ、脚本を手掛けた高橋は、そういう面があることを認めつつ、書き上げた脚本にこんな感想を抱いている。
「どぎつい惨殺シーンもあって、忌まわしい過去に向き合うドラマでもあるんですけど、僕の中では、すごく明るく書けた感触があるんですよね。社会や世の中に一石を投じるような気持ちにもあまりならなかった。
華蓮と半ば強制的に旅することになる同級生の怜(さとり)のちょっとした冒険談を書いたような感触がある。若い二人が自分の抱えている、できれば触れたくない問題にきちんと向き合って、解決していく。そこに注力したところがあります。
二人の気持ちは、友情以上恋愛未満といったところでしょうけど、僕はある種、いわゆるキラキラ・ムービーといいますか。青春ドラマとして見てもらってもいいんじゃないかと思っています。
若い二人が家を飛び出して、放浪しながら自分を見つけていくところを見てほしい気持ちがあります」
本作の池田監督をはじめ、先で触れたように大友啓史監督、白石和彌監督、廣木隆一監督など現在の日本映画を代表する監督たちの脚本を手掛ける。同じ監督からオファーが続いているところに彼の脚本家としての確かな力量が現れている気がする。現在の日本映画界を代表する脚本家になりつつあるといっていいだろう。
この現状をどう受け止めているのだろうか?
「ありがたいことですね。
ほんとうに監督によって、考え方はバラバラ(苦笑)。初稿でまったくはまらないときもあれば、初稿が準備稿ぐらいになるときもある。
ほんとうに映画監督っていろいろなタイプの方がいるんだなと実感しています」
ただ、高橋自身も廣末哲万と結成した映像ユニット<群青いろ>では監督の顔を持つが?
「僕とはくらべものにならないというか。もう気ごころ知れた仲間と小さな所帯でやってきた僕からすると、大所帯を動かす監督ってすごいなと。メンタルが鋼じゃないとあれだけの所帯はまとめられないだろと思います。あっちこっちからクレームが入っても動じない精神力は自分にはない(笑)。
ほんとに自主映画をやっているぐらいが幸せなんじゃないかと思います」
映像ユニット<群青いろ>の活動は継続中!
ご存知の方もいると思うが、<群青いろ>は、ぴあフィルムフェスティバル(※以下 PFF)のPFFアワード2004で「ある朝スウプは」がグランプリ、「さようなら さようなら」が準グランプリを獲得。2007年には『14歳』が第36回ロッテルダム国際映画祭で最優秀アジア映画賞するなど、その作品の数々は国内外で高く評価され、日本映画界にも大きな影響を与えた。ただ、高橋の監督作品「ダリ―・マルサン」(2014年)が発表されて以降、新作は届けられていない。
「まだ活動は継続中です。まだ頑張って撮っています。
なかなか仕上げまで至らなかったり、コロナ禍に巻き込まれたりもしてアウトプットできていないんですけど、撮っています」
そこにはこんな思いがあるという。
「最近、30代の半ばぐらいのプロデューサーの方とかによく言われるんですよ。PFFで作品観ましたとか、ファンでしたとか。
逆に20代ぐらいだと<群青いろ>の存在はほぼほぼ知られていない。
それがちょっと悔しいというか。僕自身、もちろん脚本家をこれからも続けていきたいと思っている。でも、このまま脚本家で人生を終えたくないという気持ちもある。
脚本は小説と違ってひとつの作品ではない。僕は、あくまで、誰かが映画を撮るための設計図だと思っている。もちろん映画において欠かせないものではあるんですけど、自分の中では脚本だけでは、すべて出し切れていないというか。映画にすべて注ぎ込んでいる感覚は得られないところがある。
世の中に作品を出すためとかではなく、自分を完全燃焼させるために、僕の中では映画作りが必要。だから、これからも映画作りは続けていきたい。<群青いろ>もまだまだ続けるつもりです」
これまで<群青いろ>が発表してきた作品は、社会にうまく適応できず、生きづらさを抱え、こぼれおちてしまったような市井の人々に眼差しを注ぐ。排他主義や同調圧力、不寛容な社会に言及しているところもある。
振り返ると、今の時代を予見しているようなところがあることに驚かされる。
「社会的制裁をどれだけ受ければ、人は赦されるのか?
たとえば、『記憶の技法』における金魚屋の男の存在。彼は犯罪加害者の息子ですけど、その一度貼られたレッテルがなくなることはない。一生背負い続ける。今の時代となっては、デジタルタトゥーで、一生、顔がさらされ続けてもおかしくない。そして、バッシングを受け続ける。
こういう社会でほんとうにいいのかなと。
被害者の家族が許さないのはまだしも、周囲が制裁を続けるのは正しいのか。金魚屋の男を見ていると、自分の父親が罪を犯したことに苦しんでいるというより、社会的制裁があるこの世の中で、どうすれば少しでも赦されることになるのかがわからなくて、深く苦しんでいるように映る」
その上で、映像ユニット<群青いろ>からはじまり、脚本家として一本立ちした今までで、変わらない矜持をこう語る。
「いろいろなタイプの作品にかかわっていますけど、自分の中では、どんなものもどこかで『人間賛歌』に落とし込んでいる。その自身の姿勢はずっと変わっていないと思っています」
「記憶の技法」
栃木県 小山シネマロブレ 2/4(木)まで上映
愛知 センチュリーシネマ 2/4(木)まで上映
岩手県 盛岡ルミエール 2/11(木・祝)~
長野県 千石劇場 2/19(金)~
ほか全国順次公開
場面写真はすべて(C)吉野朔実・小学館 2020「記憶の技法」製作委員会