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友だちやめたら、親友に??人付き合いが苦手なあなたへヒントをくれる映画「友達やめた。」

水上賢治映画ライター
「友達やめた。」の今村彩子監督 筆者撮影

 生まれつき耳のきこえない今村彩子監督は、これまで「障がい」を題材にしたドキュメンタリー映画を発表し続けている。と書くと、当事者の窮状や現実を当事者でもある監督が伝える。そういった作品イメージになってしまうのではないだろうか。確かに、今村監督の作品にそういう面がないわけではない。

 でも、今村監督の意識は障がいにあって、障がいにあらずというか。当事者であるからこそ、「耳のきこえない自分がどのように人と関わっていけばいいのか?」と疑問を持ち、わからないから探究しているところがある。要は、今村監督自身が障がいを抱えていながら、そのことをわかった気になっていない。むしろわからないことだらけ。だから、正面から向き合ってみる。今村監督の作品はどれも、そんな痕跡が残っている気がする。もしかしたら、こうしたスタンスで「障がい」であり「マイノリティ」と向き合っている映画作家は、今村監督のほかにいないかもしれない。

 新作ドキュメンタリー映画「友達やめた。」で今村監督は、耳のきこえない映画監督の自分と、アスペルガー症候群の女性のコミュニケーションの行方を見つめている。

耳のきこえない映画監督の自分と、アスペルガー症候群の女性の出会い

 はじめに、作品で向き合うことになったアスペルガー症候群のまあちゃんとの出会いを今村監督はこう振り返る。

「前作の『Start Line』の上映会にまあちゃんが来てくれたんです。『Start Line』は、耳のきこえないわたしが、耳のきこえる男性の伴走者とともに沖縄から北海道まで自転車で旅する過程の記録。聞こえる人とのコミュニケーションが苦手なわたしがその意識を変えるために挑んだ作品です。

 まあちゃんは『Start Line』の中のわたしを自分に重ねてみていたそうです。まあちゃんもコミュニケーションが苦手で、人となかなかうまく関係を築けない。そういうところがお互い似ていて、すぐに意気投合しました」

 数日後、まあちゃんからうつでアスペルガー症候群であることを告白される。

「わたしの受けとめ方としては、家族にうつの人がいたのでそれほど驚きはなかったです。それよりも、わたしにそういう自身の重要なことをカミングアウトしてくれた気持ちがすごくうれしかった。まあちゃんにはアスペルガーとうつがあって、わたしは耳がきこえない。あと、まあちゃんは聴覚過敏もあって、自分の意思を伝えるのに手話が便利で。お互いマイノリティで、近い存在に感じることができました。

 まあちゃんはアスペルガーですけど、それも私にとってはむしろ興味深いというか。まあちゃんはわたしの知らない世界を持っていて、わたしが想像もしない物事の見方をしているのではないか、と思って。まあちゃんにはどんな世界があって、どんな考え方をするのか、理解したい。そのことを共有できたら、すばらしい人間関係が築けるんじゃないかと思いました」

すばらしい人間関係への期待から一転、大ゲンカに

 ところが事は思惑通りに進まない。関係はギクシャクし始める。実は、それが今回の映画を作り始めるきっかけだった。

「はじめはすごく順調だったんです。そのころは映画を撮りたい気持ちはありませんでした。個性的なまあちゃんにカメラを向けたら面白いものができそうだなあと漠然と思うくらいで。

 ただ、いろいろな場面で、まあちゃんとぶつかるようになって。時に大ゲンカになることもありました。

 最大の危機は、映画の中にもありますけど、名古屋での映画祭のとき。お客さんが早くから(入場で)並んだため、急遽、当初の予定より早く打ち合わせがはじまりました。手話通訳をお願いしていたまあちゃんは、予定の時間通りにきて、すでに打ち合わせがはじまっていることに腹を立てた。しかも周囲にもわかるように。

 わたしは、これからイベントを成功させようというときに、そういうみんなの士気が下がるような態度をとったまあちゃんにすごく嫌な気持ちになりました。打ち合わせを早めたことは申し訳ないけど、仕方ないことで……。

 だから、上映後に、わたしはまあちゃんに対して怒りをぶつけました(苦笑)。それでもわたしの中には、まあちゃんとの関係を終わらせたくない気持ちがありました。でも、どうやったらうまくやっていけるかわからない。どうやったら仲良くやっていけるかを知りたい。それで、問題解決の糸口や、どういったことでぶつかるのかを考えたくてカメラを廻そうと思ったんです」

映画「友達やめた。」より
映画「友達やめた。」より

 こうして、まあちゃんとカメラを介して向き合うことを決めた。

「この大ゲンカの前にすでに交換日記をしていて、お互いに自身の過去や経験を話していたので、まあちゃんがこれまでうまく友人関係や人間関係を築けない経験をしていることもわかっていました。

 ただ、わたしがそういうまあちゃんを全面的に受け入れるのは違うと思ったし、まあちゃんにも正すべきところはあって、わたしという人間をわかってもらわないといけない。もちろんわたしにも正すべきところはある。お互いに歩み寄ってどこに妥協点があるのかを考えたかったんです。それで、まあちゃんとの間にある自分の葛藤と映画を撮ることで向き合いたいと、伝えました。正直なところ、断られると思っていました。というのも、映画になった場合、まあちゃんを知らない人にも、彼女がアスペルガーということを知られてしまう。当時、まあちゃんは職場の人や家族にもアスペルガーということを伝えていませんでした。

 しかも、申し出たのは大ゲンカの真っ最中。でも、まあちゃんは冷静に映画のテーマをたずねてきたんです。それで『私の葛藤』と伝えたら、『それはおもしろいかも』と言ってきたので、わたしは逆に驚きました。

 あとで聞いたら、まあちゃんは、もしわたしが『アスペルガーを理解したい』と言ったら、ちょっと待ってと言おうと思っていた。でも、わたしが『自分の心の葛藤と向き合いたい』と言ったので承諾したそうです。まあちゃんも、わたしがなにに怒ったり、自分との関係のどこに不満を感じているのか知りたかったのだと思います。だから、カメラを廻し始めたときから、映画の完成を楽しみにしていました」

対等な関係を築きたいのに、彼女に何も言いたいことが言えていなかった

 なかなか自分のことを知人がどう思っているのかは、知りたいようで知りたくないことにも思えるが、まあちゃんは違った。

「まあちゃんは、いい面も悪い面も含めて全部知りたいそうです。出会ったばかりのころに、自分はアスペルガーでいろいろとわからないところがあるから、嫌な気持ちになることがあったらその場で伝えてほしいと言っていました。でも、そう言われても、こちらとしてはなかなか切り出せないですよね。

 でも出会ったころは、なぜそうするのとか、どんなことを考えていたのとか、その都度、聞いていたように思います。それが、ある程度、まあちゃんと親しくなってからはあまり聞かなくなっていた。“慣れ”がそうさせてしまったのです。

 でも、突き詰めていくと、違うというか。わたしはまあちゃんときちんとした関係を築きたいと思っていながら、彼女になにも言いたいことが言えていないことに気づいたんです。これでは対等な関係なんて築けない。そして、実は、アスペルガーだから仕方ないと、わたしが勝手にまあちゃんとのコミュニケーションを終わりにしていたんですよね」

映画「友達やめた。」より
映画「友達やめた。」より

 そのことに気づいたとき、いろいろなことが見えてきたと言う。それは映画の中でもよく映し出されている。

「一緒に旅行にいった宿泊先の旅館にお菓子が用意されていたのですが、まあちゃんが私の分も勝手に持って帰ろうとしてケンカになるシーンがあります。きっかけは本当に些細なことなのですが、どうしても許せなくて(苦笑)。でも後日、まあちゃんに理由をきいてみたんです。

 まあちゃんはお菓子が残っていたら旅館の人に申し訳ないと思って、持ち帰ることにした、と。

 自分の分ではないとわかっていたそうなので、本来なら、そこでわたしに『いらないの?』と聞けば済む話なんですけど、まあちゃんの中では、『どうしよう』となって、お菓子のことで頭がいっぱいになっているときは、わたしの存在が完全に消えてしまう。

 このことを聞いたときに、すごく納得したというか。なるほど、そういう見方をまあちゃんはしているんだと思ったんですね。

 だから、わたしたちのひとつの新常識として『これはわたしのものだからね』と先にまあちゃんに伝え、カバンにしまうことにしました。そうしておけば、なにも問題はないんです。100%相手のことがわかるわけではないけれど、ちゃんと聞くべきところはきいて気持ちを伝えあうのは大事なんだと気づきました」

直接の対話とコミュニケーションで関係を深めることの大切さ

 基本的に人とコミュニケーションをはかることはめんどくさいことだ。すぐに打ち解けることは稀なことで、相手を知るには時間も労力もかかる。時間や労力をかけたからといって、相手が自分を理解してくれるかはわからないし、時にはうまくいかずに関係が拗れ、築かれる前に崩壊してしまうこともある。

 とりわけ、面と向かって顔を合わせるのは現代では避けがち。いま社会としてはSNSをはじめ字面だけでの付き合いが当たり前で、メールなどで済ませてしまうことがほとんどかもしれない。その中で、今村監督はあくまで直接の対話とコミュニケーションでまあちゃんとの関係を築こうとする。

「いままでにケンカ別れした友だちもいます。でも、まあちゃんとはどんなにぶつかってもダメにならないんじゃないかという希望があった。わたし自身も人付き合いが苦手で、こんな風に思える人はほとんどいなかった。だからこそ、きちんと向き合いたかった。そうすればなにか自分自身も変われるんじゃないかと思ったんです」

マイノリティが問題ではない、ようやく見つけたお互いのほどよい距離

 この二人のやりとりをみていくと、いつからか耳のきこえない今村監督とアスペルガー症候群のまあちゃんというハンディキャップを抱えた者同士のコミュニケーションの難しさを物語るものではなくなっていく。

 障がい者であっても、健常者であってもかわらない。人と人のあるべきコミュニケーションのようなものが見えてくる。「親しき中にも礼儀あり」ではないが、どんなに親友同士でもほどよい距離があって、それは人それぞれに違うことを再確認させてくれる。

「それはわたし自身、すごく感じました。わたしとまあちゃんはお互いにマイノリティ同士、仲良くやっていけると思っていた。だけど、まあちゃんにとってわたしは『一般の脳』を持つ人=マジョリティということになるんです。初めてマジョリティの立場に立たされて戸惑いましたし、マジョリティのわたしがいろいろ我慢をしないといけないと思っていましたが、1対1の関係では、マイノリティとかマジョリティということにこだわっても意味がないと気づきました

 葛藤もあったし、ケンカもしましたが、二人にとってのほどよい距離を見つけるための日々だったような気がします」

いい人でいようという枠を変えると、もっと楽になるのではないか

 いい関係の在り様を探し、試行錯誤する中で、タイトルにもなる「友達やめた」ところにたどり着いたことが大きかったと振り返る。

「お互いの妥協点を見つけるまで、『友達やめた』と割り切って、一度リセットし、これまでとらわれてきた『友達』という枠組みから自由になれたのが結果として大きかったと思います。

 それまでは、どこかで『いい友達でいなくちゃ』とずっと思っていた。とりわけ自分のまあちゃんに対して出てきた負の感情を口に出すことはもちろん、そういう思いがあることを認めたくなかった。『まあちゃんは友達だからこんなこと思っては駄目』といつも心に蓋をしていた。

 でも、友達やめた、もういい人でいるのやめたと自分の正直な気持ちを日記に書いてみたら、その呪縛からいい意味で解き放たれました。そのとき、はじめてどうしたらまあちゃんとうまくやっていけるのかなと考えられ、少し心に余裕をもって向き合うことができた。なにより自分自身の気持ちが楽になったというか。肩の力が抜けたところがありました。

 これって、ほかにも当てはまると思うんです。たとえばいい母親でいなくちゃとか、いい父親や、いい子でいなくちゃいけないとか。理想にとらわれ過ぎて、自分で自分を苦しめてしまう。その枠を外せると、もっと人って楽に生きることができるのではないか。人間関係に悩むことも少なくなるのかなと思ったりしましたね」

 こういう意識の変化で、いまひとりの作り手としての意識も変化しつつあると明かす。

「これまで、たとえば耳がきこえないことで、わたしはきこえない世界ときこえる世界の2つの世界を知っているから、ふつうの人よりも広い視野で物事を考えられてると、変な優越感やプライドのようなものを抱いていました。

 だから、これまでの映画では自分と同じような耳がきこえない人とか、LGBTとか、まあちゃんのようなアスペルガー症候群であったりとか、そういうマイノリティの人たちの方に自然とカメラが向いていったのだと思います。

 でも、それはわたしが彼らを『マイノリティ』というフィルターでみていたと言うことなんですよね。ほんとうに『いまごろ』といわれそうで恥かしいんですけど、そのことにようやく気づきました。

 それで、いまようやくマイノリティであるなしに関係なく、ひとりの人間として自分が本心から興味を持てた人を撮りたい気持ちになれています。実は、いまひとり撮影したい人がいるんです。マジョリティの男性、自分とは真逆の立ち位置にいる人なんです。仕事もお金もあって、結婚もして子どももいる、いわゆる『勝ち組』の男性が何を考えて生きてるのか、カメラを向けたら何が見えてくるのか興味があるんです」

映画「友達やめた。」より
映画「友達やめた。」より

 こう素直に反省を述べる今村監督だが、その真摯な姿勢はこれまでの作品からもうかがい知ることができる。今回の作品をはじめ、常に自分語りで作品を作っている。今村監督の作品はいつも、自分にカメラを向けながらも自己をさらけ出す。おそらくおおよその人間はためらうであろう自分自身を自分で語る。とくにこうしたマイノリティの題材ともなると、自分を隠してもおかしくない。でも、今村監督は自らを前面に出して、マイノリティである自分が感じるマイノリティの疑問に立ち向かう。ある意味、彼女の作品はいつも自分についての映画になっている。

「わたしにとって映画は自分がよりよく生きるための方法を考える手段なんです。だから必然的に自分の作品=自分のことになるのかもしれません。映画の感想はいつもすごく怖いです。『あなたの映画は嫌い』と言われたら、自分が嫌いと言われたような気分になるので

 それでも、やはり自分の考えや視点をきちんと責任をもって自分の言葉として伝えたいなと思っています」

 もうひとつ今村監督の作品ですばらしいと思うのは、いい意味で悲壮感がないこと。今回のまあちゃんとの関係についても、修羅場的なケンカの場面はあるが、それでもなにかユーモアに包まれていてある種の明るさがある。たとえば描き方によっては自分自身がかわいいあまりに悲しみを強調して悲劇のヒロインに仕立てられる場面も、今村監督はそうせずにすべて笑いに転じるようなところがある。

 また、マイノリティを題材にした作品となると、ともすると当事者の窮状や問題に対してシリアスなメッセージをもって伝えがちだ。いまの社会を考えたときに、当事者である人間であればあるほど、世間にまじめに伝えることを求められるところがある。ちょっと笑いが入ると『不真面目』と受け取れられても不思議ではない空気が今の時代にはある。

 でも、今村監督は臆することなく、ユーモアを入れる。だからか、作品をみていると、なにか小難しい問題もどこか身近に感じられるところがある。そして、今村監督の作品はマイノリティの映画ではあるけども、一皮むけば、映画は映画だという地点に作品が立っている。

「そう言ってもらえるのはすごくうれしい。今回の作品で1番心配したのは、耳がきこえないわたしと、アスペルガーのまあちゃん、『マイノリティ×マイノリティ』の特別な話だと思われてしまって、一般の方にみてもらえないんじゃないかなということです

 でも、先ほど言っていただいたように入り口はマイノリティの物語ですが、わたしと同じように悩んでいる人はいるはずで、出口は普遍的なテーマになっていると思いますので、興味をもってもらえたら嬉しいです」

映画「友達やめた。」より
映画「友達やめた。」より

「友達やめた。」

全国順次公開中

10/31(土)までネット配信実施中

場面写真はすべて(C)2020 Studio AYA

映画ライター

レコード会社、雑誌編集などを経てフリーのライターに。 現在、テレビ雑誌やウェブ媒体で、監督や俳優などのインタビューおよび作品レビュー記事を執筆中。2010~13年、<PFF(ぴあフィルムフェスティバル)>のセレクション・メンバー、2015、2017年には<山形国際ドキュメンタリー映画祭>コンペティション部門の予備選考委員、2018年、2019年と<SSFF&ASIA>のノンフィクション部門の審査委員を務めた。

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