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寓話で現代の母娘関係を問う。人知れず存在する女性だけの村から始まる異色作「クシナ」とは?

水上賢治映画ライター
映画「クシナ」 速水萌巴監督 筆者撮影

 現在公開中の映画『クシナ』は、思わず監督の頭の中を覗きたくなるような作品だ。

 本作は、人知れず存在する女だけが暮らす男子禁制の村が舞台。こう書くと、現在の映画や小説においては、カルト宗教やDV被害の女性たちをモチーフにしたような物語をつい想起してしまうのではないだろうか?

 しかし、本作はまったく違う。一見すると浮世離れしたエピソードにも思えれば、寓話的ファンタジーにもとらえられる、はたまた限りなく現代を描いたようにも感じられる、一風変わったストーリーが語られる

女性だけが暮らす村という発想が生まれた理由

 このオリジナルストーリーを生み出したのは、撮影時、まだ学生だった新鋭、速水萌巴監督。これがデビュー作になる彼女は、本作の着想を母と自身の関係が根底にあると明かす。

「いまはとても良好な関係なんですけど、大学入学前後ぐらいの期間、すごく母と衝突した時期があったんです。のちにある出来事があって、母の愛情というものを理解してから、それまで抱いていた母に対する認識が変わり始めたんですけど」

 えてして現代の親子像は、「友達親子」や「毒親」といったキーワードで語られることが多い。ただ、速水監督自身は思春期によくある親子の対立だったと冷静に今振り返る。具体的にどのような経験が監督を変化させるに至ったのか。

「心の深くでは自分自身の望む人生、というと大袈裟に聞こえますが、当時は進路ですね。この進路を自ら選択したいと願う一方で、親の期待や意向に応えたい、応えなければいけないという、これもまた自らが選択している子供像との間での葛藤があったと思います。

 当時は自分自身の置かれている状況を客観視することができなかったので、ひたすらに窮屈になってしまい、行き場のないフラストレーションをつのらせてしまっていたんだと思います。

 歳を重ねると、良くも悪くも育ててもらった親に似てくる部分があると思うのですが、その時にはっと気づく訳ですよね。自身の振る舞いを省みて、あの時の母の気持ちはこういうことだったのか、という風に。当時は想像ができなかった母親の気持ちを経験することができるようになる。なので、母親のあり方を否定することが、すなわち自分自身の否定にも繋がることに気がつきだした。その気づきから、母の想いを理解し尊重できるようになったことで、母親という存在とそこから独立した自らの存在の両方を認められるようになったのだと思います。

 それで、最初の長編を作ろうと思ったとき、自分が強い感情を抱いたことを題材にするべきじゃなかという助言をある方からいただいて。そのとき、真っ先に浮かんだのが母との関係だったんです。その時点で、母との関係は完全に消化されていました。それで書き上げたのが今回の脚本になります」

劇場公開を2年前から打診されていたが踏み切れなかった

 自身の物語に近いゆえに作品は2年ほど前から公開の話があったが、なかなか踏み切れなかったという。

「親子の関係を描いたということで、メディアに取り上げていただく部分が、実際の親子関係がどうだったかの点に集中しがちなこともあり、正直少し戸惑っていました。パーソナルな感情から出発した映画ではありますが、伝えたいのは、多くの人が経験する『親と子』、時には『それ以外』の関係、その間にある愛の姿です

 もし可能なら、何か違う切り口でこの映画を語れるのなら語りたいなと思ったりもするんですけど(笑)、私の着想が母との関係にあるから、そこ以外から出てくる言葉が薄っぺらく感じてしまうんですよね。今は、その点においての、心の整理もできましたし、距離を持って本作品を語ることができるようになったので、多くの方に見ていただきたいと思い、公開を決めました。

 実は、母は何度もこの映画を見てくれて、その度に違う発見がある、とか、理解が深まったと言ってくれます。映画が実世界とも連動して続いていくような不思議な体験をしているんですよ」

映画を作ってから知った驚きの祖母の出生地

 物語は、なにか他人を拒絶するような山の奥深くにある女性だけの秘密の共同体が舞台になる。

「これ結構聞かれることなんですけど、女性だけのコミュニティを描こうと思ったわけではないんです。もとはワンシチュエーションで、たとえば『ガザの美容室』みたいな、女性だけの会話で話が成立するようなものを考えていたんです。

 ただ、母と娘の物語というのがあって、書いていくうちに男性の要素が自然となくなっていって、気づいたら女性だけのコミュニティになっていたんですよね。

 奈良に女人禁制の、男性だけしか入れないところがあるんですけど、わたしの祖母はそこの出身なんです。わたしはずっと知らなくて、映画を作ってから知ったんですけど、なにかルーツにひっぱられたところがあるのかなと思いました。偶然だと思いますけど

映画「クシナ」より
映画「クシナ」より

 この村をまとめているのは、村長である鬼熊<オニクマ>。彼女は定期的に下山して、収穫した大麻を売り、村の女たちの必需品を買ってくる。彼女には28歳となった娘の鹿宮<カグウ>がおり、鹿宮<カグウ>には14歳の娘、奇稲<クシナ>がいる。鬼熊<オニクマ>は、自分の娘と孫娘を含め、どこかから逃れてきた女性たちを強いリーダーシップで守っている。ただ、男性を軽視や敵視した物語ではない。

「作品の内容からよくフェミニストなんですかと聞かれるんですけど、自分をそうは思っていないです。あまり男性と女性を分けて意識したことはないです。

 むしろ意識したというか考えたのは性別をはじめとした線引きといいますか。なにか近年、差別と区別がごっちゃになってしまっている。必要以上に線引きして軋轢が生じたり、区分けしないことで問題が生じてしまっている。もちろん差別はいけない。ただ、区別はあってしかるべきではないかと。

 性別にかかわらず、みんなそれぞれ違う。その違いを尊重するべきではないか。区別であり個別を尊重して、個人を大切にすべきではないか。そのほうが社会が豊かになるんじゃないかと思うんです。そういったことを反映したつもりです」

死を感じて知った自分が「生かされている」感覚を

 この女性のコミュニティは村長に鬼熊<オニクマ>がいて、ご意見番的な存在の長老女性たちが数人いて村の女たちを束ねている。ただ、そこにきついしばりや村の犯してはならない掟のようなものは存在しない。そうなった理由をこう明かす。

「わたしにとって小さなコミュニティというのはちょっと憧れの対象でもあるんですよ。この作品に人類学が反映されているのも、通っていた大学の学部長が映像人類学の方で、たとえばジプシーのドキュメンタリーとかをよく見させられた。たとえばネイティブアメリカンであったりとか、そういう小さなコミュニティに生きる人たちにすごい憧れがあるんです。そういうコミュニティに存在する独自の信仰心や文化に対する憧れがある。

 そういうことを考えつつ、新たに生まれるコミュニティを考えたんです。この集落に関しては、一度生きることを諦めた人たちが、死ぬ覚悟で森の中に入ったらたまたま行き着いた場所になる。ある意味、一度死んでいる

 実は、わたし、11歳ぐらいのときに難病にかかって、10年ぐらい闘病生活が続いたんです。病に伏せることもあれば、元気なときもあったんですけど。その途中の段階で、一度倒れて病院に行って、血液検査の結果を見た先生に『今立って呼吸してるのがもう奇跡。ほんとうに死んでいてもおかしくない』といったようなことを言われたことがあるんです。

 それを聞いたとき、何か自分が生かされている感覚があって、考え方が変わったんですね。

 その話を鬼熊<オニクマ>役の小野みゆきさんに話したら、小野さんも似たような経験をされていて。1度死ぬような経験があって、そこからすごく前向きに生きることができるようになったと。

 なにかそういう決死の覚悟をした人間が集落を作ったら意識が違うんじゃないかなと思ったんです。そういう場所ならば、ある程度、自由が保障されるのではないかと。各々が悟った状態が当たり前なんじゃないかなと思ったんです」

映画「クシナ」より
映画「クシナ」より

 そのひっそりと暮らす女性だけのコミュニティにある日、人類学者の蒼子と後輩の男性、原田がたどり着く。久々の外部から人間の出現に村の女たちは騒めき立つ。

 その中、聡明で自らの意志で行動する蒼子と出会ったとき、鹿宮<カグウ>は、天真爛漫な娘の奇稲<クシナ>がこの閉ざされた村で一生を過ごすことを自ら強いているのではないかと疑問を抱き始める。

「『母は娘の人生を支配する』という本を読んだんですけど、母の束縛に悩んでいるのは、わたしだけじゃないんだなとすごく思いました。むしろ普遍的な問題なのではないかと。日本の社会に昔からある母と娘の問題でもあるのかなと思いました。母親本人は意識していないのだけれど、傍からみると、子どもが所有物になってしまっている。そのことを意識したことは確かですね。

 あと、さきほど触れたようにある程度の自由が許されたコミュニティ。でも、そこでも親子関係になると、他人には負わせないのに、継承を求めてしまう。これはなんなのかなと」

母と娘の関係が重要なテーマ

 これは物語のラストに関わることなので明かせないが、鹿宮<カグウ>の奇稲<クシナ>に対する選択というのが本作の重要なテーマになっていることは間違いない。

「わたしにとってのひとつの母と娘の理想の関係かもしれない。みなさんにみていただいて、それぞれ考えていただければと思います」

 では、この集落はユートピアにもディストピアにも映る。監督にとってどんな場所なのだろう?

「難しいですね。ただ、わたしにとっての理想郷ではないですね(笑)」

 それにしてもこういう独創的な物語の発想はどこから出てくるのだろうか?

「どこからですかね(苦笑)。自分ではよくわからないです。たぶん、子どものころ、母に絵本を読んでもらったり、父に映画を見せてもらったりした経験からきているとは思うんですけど、どうなんでしょう。

 でも、不思議なんですけど、8歳離れた姉がいるんですけど、彼女もわたしとよく似た世界観をもっている。あることについてそれぞれにイメージをすることを語ると、同じような物語の世界を想像している。もしかしたら、わたしたち姉妹にはどこか潜在的にもっている物語の世界があるのかもしれない。そこにアクセスしたいなと常に思っています。

 たとえば、知らない町とかをドライブしていると、頭の中をくすぐられるというか。なにかいろいろなイマジネーションがわいてきて、それをまとめて映像にしたい気持ちになったりします。あと、よく夢を見るんですけど、基本的に現実的じゃないんですよ。だいたい空想の世界なんです。そういうところに創作が引っ張られているところはあるような気がします。

 たぶん、自分の中にベースはあると思うんです。でも、それが自分のオリジナルな感性から生まれているのか、それともなにかに影響を受けて出てきているものなのかは、まだわからないです」

映画「クシナ」より
映画「クシナ」より

 好きな映画作家は優れたファンタジーの作り手の名が並んだ。

「ティム・バートン監督の現実世界の延長線上にあるようなファンタジー映画は好きですね。あと、アレハンドロ・ホドロフスキーは、作品も大好きですけど、映画作りをあきらめない、あの精神力を見習いたい。ギレルモ・デル・トロ監督やM・ナイト・シャマラン監督にも影響を受けていますね」

なにかを転化させて人の心の深いところへ届けるファンタジー映画を作っていきたい

 今後もファンタジー映画を作っていきたいと明かす。

「ファンタジーの力を信じたい自分がいます。人間は、物語れるからこそ強いといいますか。想像して物語る能力をもっともっと生かしていきたい。

 実写の現実をリアルに描いたドラマとかを見ていて、その瞬間に感情が動いたり、共感したりする人も多くいらっしゃると思うんですけど、わたしはそこにはまれないというか。寓話でみたほうが、自分の中にすっと入ってきたり、学べたりするんです。

 なにか現実をそのままフィクションとして徹底再現してみせられるよりも、ちょっと別の世界で考えることで再構築してみせられたほうが心にいつまでも残る

 ファンタジーにはなにかを転化させて、人の心の深いところへ届ける力がある。そういう作品を作りたい

 どこかで聞いた話なのですが、中東で男性何人かが、個別の部屋で何十年と投獄されて、ひとりだけ生き残った。どうやって生き長らえたかというと、空想の話し相手をつくって、その空想相手と話し続けたそう。想像する力ってすごく大切なんじゃないかと思うんです。時に自分を助けるものになるかもしれない。

そういうイマジネーションの中に、なにか核心や教訓があるような物語の世界を描けていけたらなと思っています」

映画「クシナ」より
映画「クシナ」より

「クシナ」

アップリンク渋谷にて公開中。8/14(金)より岡山メルパにて、8/28(金)より愛知・刈谷日劇にて、8/29(土)より愛知・シネマスコーレにて公開。

場面写真はすべて(c) ATELIER KUSHINA

映画ライター

レコード会社、雑誌編集などを経てフリーのライターに。 現在、テレビ雑誌やウェブ媒体で、監督や俳優などのインタビューおよび作品レビュー記事を執筆中。2010~13年、<PFF(ぴあフィルムフェスティバル)>のセレクション・メンバー、2015、2017年には<山形国際ドキュメンタリー映画祭>コンペティション部門の予備選考委員、2018年、2019年と<SSFF&ASIA>のノンフィクション部門の審査委員を務めた。

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