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「現在へとつながる沖縄の現実がここに」。斉藤とも子が語りに込めた切なる願い

水上賢治映画ライター
「ドキュメンタリー沖縄戦」のナレーションを担当した斉藤とも子さん 筆者撮影

 確かに太平洋戦争末期の沖縄戦は教科書で触れられている。日本で唯一地上戦が繰り広げられたことやひめゆり学徒隊のことぐらいで終わってはいないだろうか?どこまでその実態をわたしたちは知っているだろうか?比較はできないが、広島や長崎への原爆投下とおなじように、広く周知されているだろうか?実は、ほとんど知らないままここまできてしまっているのではないだろうか?

 太田隆文監督の「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」は、そうした知らされているようで知らされていない沖縄戦の疑問にひとつひとつ丁寧に答えてくれるような作品だ。沖縄戦がどのようにしてはじまり、どのような戦いになり、どんな悲惨な結果を生んだのかを、生存する体験者の証言と、専門家たちへのインタビュー、アメリカ軍が撮影した記録フィルムを交えながら時系列でたどっていく。日本軍の思惑は専門家が分析して見解を示す一方で、凄惨極まりない戦場の実態は徹底的に市民からの目線で語られる。沖縄戦をきちんと知ることができる作品になっている。

知らない沖縄史を知ろうとした太田監督に感銘を受ける

 その中で、俳優の斉藤とも子はいわば水先案内人となるナレーションを担当。この話がきたときのことをこう振り返る。

「太田監督とは、『朝日のあたる家』『向日葵の丘1983 年・夏』でご一緒させていただいたのですが、再びお話をいただいたときは、素直にうれしかったです。

 それで、まず、太田監督の姿勢に感動したといいますか。太田監督ご自身が沖縄戦のことをあまり知らなくて、もっと知らなくてはいけないと思ったところが起点になって、作品がはじまっている。このことがすばらしいと思いました。

 戦争のことや社会問題といったことは、直接関係がないとどうしても対外的に部外者とみられることもあって、たとえ真剣に問題意識を抱いていてもその渦中に入っていくのはそう容易ではない。普通は、そこに飛び込む勇気もなかなかもてない。でも、太田監督は、門外漢でありながら、沖縄戦についてのドキュメンタリーを作ろうと決心した。それがすごいなと思いました

 そういう太田監督がひとつ強い思いに突き動かされて挑む作品のナレーションを、私に託してくださった。これは光栄なことだなと思いました」

「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」より
「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」より

1982年公開の映画『ひめゆりの塔』での沖縄体験

 これまでのキャリアを振り返ると、1982年公開の映画『ひめゆりの塔』に出演している。このときの経験をこう回顧する。

「『ひめゆりの塔』は、巨匠の今井正監督のもと、沖縄現地ロケで6カ月ぐらい全員が合宿して臨んだんです。

 古手川祐子さんとか、スーちゃん(田中好子)とか、仕事が忙しい方たちは、ちょっとだけ抜けて東京と沖縄を往復していたんですけど、基本は全員、沖縄滞在で。私も、そのころ、ちょうど一番忙しいときで、何度か東京に戻ったんですけど、ほぼ沖縄に滞在して臨んだんですね。

 振り返ると大変な撮影でした。1945年、アメリカ軍がきて、沖縄の地元の人々は移動はほぼ夜中だったということから、当時の状況を徹底的に再現するということで、ほんとうに夜中に足元さえほとんど見えない中で移動のシーンを撮ったり、衣装もコーヒーや紅茶で汚して、ドロドロの洋服にしたり、年頃の女の子たちばかりでしたけど、ほとんど顔も分からないようなメークで真っ黒にさせられました。

 ほんとうの戦場とは比べものにならないかもしれないけど、それでも当時の人はこんな中にいたのかなと思うと、ちょっと想像しただけでも怖かったですね。

 でも、やはりまだ俳優としてキャリアも浅くて、撮影についていくのが精一杯。役を演じ切ることに一生懸命で、沖縄戦の事実であったり、実際に起きたことを深く理解するまで、資料を読み込んだり、関連書籍に目を通すまでには至らなかった

 それこそ、今回の『ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶』で語られていることを知るまではいけませんでした。どれだけの犠牲が払われたのか、どれだけの悲しみがあったのかまで、当時はよくわかっていなかったと思います

ずっと理由を解けないまま抱え続けていた沖縄の影

 沖縄がアメリカから日本へ返還されたのが1972年のこと。撮影時は、まだアメリカ統治下の名残りがあった。

「確か撮影は1980年ぐらいだったと思うんですけど、すごく覚えているのは、なんともいえない街に漂う空気。米軍の基地向けのお店がいっぱいあったりして、『日本だけど、日本じゃない』みたいな空気があった

 若かったですけど、若いなりになんかすごく違和感があったんです。『この感覚はなんなんだろう』って

 その理由を解けないまま、それはずっと自分の中にしこりのようなものとして残っていたという。その理由には、1995年に起きた沖縄米兵少女暴行事件に接したとき、「はっ」と気づくことになる。

「1995年は1月に阪神淡路大震災があって、当時、神戸に住んでいた私はそこで被災して改めて自分の生き方や生活を見つめ直す機会になりました。

 それから作家の灰谷健次郎さんとご縁があって、親しくさせていただいていたんです。その灰谷さんが沖縄が大好きで、渡嘉敷島にお家ももっていらっしゃった。それで、灰谷さんから沖縄のいろいろなお話をお聞きするようになったんです。そこから、沖縄って私の知らないことがいっぱいあって、あまりの自分の無知に反省し、もっと知ろうという意識が芽生えた。

 そんなときに、沖縄米兵少女暴行事件のニュースが入ってきた。もう『こんなことがあっていいのか』と思ったんですけど、そこでかつて自分が抱いた違和感に気づいたといいますか。『日本のようで、日本ではない』、あのときの感覚は、これだったのかと。

 ずっとしこりのように残っていたのは、たぶん私はそれを知るチャンスがあったのに、それを逃してしまっていたから。違和感を覚えたのに、それがなぜなのか、沖縄の歴史や歩みを知ろうと気持ちが当時は向かなかった。それがずっと後悔というしこりになって残っていたんだなと」

 そこから本格的に沖縄について知ろうと思ったという。

「同じころ、私は離婚し、もう一度学び直そうと大学に行くために勉強もしはじめました。

 それで無事大学に入学できて、福祉関連を学ぶことにしたんですけど、一方で、沖縄のこともちゃんと調べようと思っていました。

 ただ、その前に、被爆者の方々に出会って、そちらに深く関わることになっていった。被爆者の方に直接お会いすると、関わりが深くなればなるほど、自分と切っても切り離せないものになる。そうすると限られた時間の中で、どうしてもそこに時間を割くことになってしまう。それで、沖縄のことはずっと気になりながらも、なかなかじっくり向き合うまでいっていなかったんです」

沖縄を知るため辺野古や高江にも足を運ぶ

 そうは言うが、実際に沖縄のいろいろな現場に足を運んでいる。

「普天間基地移設問題で、辺野古への移設案の結論に至った2010年ぐらいから、少しずつですけど現地にお伺いするようになりました。去年は辺野古と高江に行きました。

 そこで座り込みをしている方など、いろいろな方とお話をしましたけど、沖縄の中でも、賛成・反対、いろいろな意見がある。たとえばですけど、賛成でも『もう、しょうがないから』といったいわばあきらめで賛成という人もいる。

 原発の問題もそうですが、こういう場面に接して一番思うのは、いままで手を携えていた人がそのことによって分断されてしまうこと。賛成と反対で分断の渦中へ巻き込まれていってしまう。ほんとうにどうしてこういう方向へ流れていってしまうのか。ほんとうにこういう問題が持ち上がったとき、いい着地点を模索する手法はないのか考えないといけないですよね」

 そうした中で、まだ『ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶』の話が出る前に、1度、太田監督と沖縄について話す機会があったという。

「実は、わたしのマネージャーがすごく沖縄のさまざまな問題に関心を寄せている人間で。まだ、今回の『ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶』の企画が動きだす前に会って3人でお話をしたんです。太田さんが沖縄のことを知りたいということで。ナレーションをやることが決まる前に。

 そこで沖縄のことについて、私たちが知っている限りのことをお伝えしたんです。

 それから2年か3年ぐらい経って、連絡がきたんですよ。『沖縄に行ってきましたよ』と。それで『だいぶ出来上がりましたよ』といわれた進行中の作品がまさに『ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶』でした。そこではじめて、『ナレーションをお願いしたいです』とお話をいただいたんです」

実際に沖縄戦を体験された方々の言葉は重い

 作品は、実際に沖縄戦を体験した人々や沖縄を研究する専門家らの証言で、次々と沖縄戦の事実をあぶりだしていく。

 軍部が本土決戦準備の時間稼ぎのため、沖縄を捨て石にしたこと、十分な兵力と武器を送らず、「1人が5人殺せば勝てる!」という無謀な精神論で戦わせたこと。

足りない兵を補充するため、沖縄県民の14歳から70歳まで、本土では徴兵されていない女性、子供、老人までも徴用して、戦闘協力を強制したこと。

 軍の強制によって集団自決が行われたこと、死に切れない子供を親が自ら手を下し殺すことがあったことなど、次々と沖縄戦で実際に起きたことが伝えられる。

「実際に沖縄戦を体験された方々の言葉は重いですよね。

 アメリカ軍の潜水艦の攻撃で沈没した対馬丸で生き残られた方の従姉妹を救えなかったお話や、身を隠していた壕で子どもが泣いて、アメリカ軍にバレるから出ていけといわれたり、あるいは殺せといわれたりしたとの証言には、言葉を失いました。

 いま、1歳になる孫がいるんですけど、夜中に大きな声で泣くことがあって。マンションに住んでいると、近所に迷惑をかけてはいけないと思って、ほんとうに焦るんですけど、『なんとかしないと』と大人が思うと、余計に子どもは泣くところがあるんですよね。

 次元の違う話ではあるんですけど、そういう自分がいま体験していることと重ねると、よけいに沖縄の壕で子どもが泣き止まなかったときのお母さんの気持ちが伝わってきて、ほんとうにいたたまれない。どれだけ辛かったことかと思うと、たまらなかったです」

「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」
「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」

沖縄の問題は日本の問題

 斉藤自身、知らなかったことがいくつもあったという。

「14歳で、沖縄の子どもたちは兵隊にとられたというのは、もしかしたらなにかで触れていたかもしれないのですが、記憶になくて、ショックでした。しかも、ほぼ強制参加ですから。さらに、ほとんどが『いいことをする』と思わされていたというのがなんとも言えない気分にさせられます。

 これはひめゆり学徒隊の方から直接聞いたことなんですけど、その女性は当初、『戦争は尊い戦いのように教えられていたから、自分たちの仕事も尊いことと思っていた』と。でも実際の戦争はむごくて残虐でただの殺し合いでしかない。戦場に身を置いて、そのことを『初めて分かった』と。

 この戦争は聖戦のように教えられていたから、兵隊さんを助けるのは尊い仕事と思っていたけど、全然違った。実際は、病気の兵隊さんにはそこに青酸カリと置き去りにしなくてはいけなかったりと、ほんとにやりきれないことの連続だったとおっしゃっていたんです。

 いかに国によって戦争が歪められて伝えられていたかわかりますよね。

 あと、もともと日本人が沖縄に対して、すごく差別意識を持っているのをアメリカは知っていて、そこにつけこんで、基地が作られていく流れが形成されていった話も知らなかったです。しかも、それはいまもずっと続いているのかもしれない。というのも、基地問題とかやはりどこかで沖縄の問題で片付けてしまうところがあると思うんです。日本の問題にならないで、どこかで沖縄の人々の問題にすり替えられる

 だから、私はこの作品は『こんなことが沖縄であったよ』という映画ではないと思っているんです。『このときから沖縄の問題はずっと続いていて、いまなおそれは解消されていない』という映画だと思っているんです。

 ほんとうに沖縄のことを知ってほしいですし、沖縄の問題を日本の問題と思ってほしい。『ほんとうに私たちはこのままでいいのか』とこの作品は問いかけていると思うんです」

ナレーションは「邪魔にならないように」

 こういう沖縄への想いがあったからこそ、ナレーションは苦労したと明かす。

「自分が心を寄せている事柄であればあるほど、どうしても感情移入し過ぎてしまう。思い入れたっぷりに語ったからといって、それが観た人の心に響くかはまた別。むしろ、ナレーターがあまりに感情移入してしまうと、観ている方をおいてけぼりにしてしまうことがある。

 それでどうすればいいか悩みました。太田監督からは『斉藤さんの感じたようにやってください』とだけしか言われなかったので余計にプレッシャーで(笑)。

 あと、さきほども言いましたけど、ほんとうに沖縄戦を体験した方々の証言がすばらしい。ほんとうに、よく太田監督はこれだけ貴重な証言を撮ることができたなと感心するばかりなんですけど、さらに、アメリカ軍の貴重なフィルムもある。もうこれで十分だと思うんですよ。

 だから、私のナレーションが『邪魔にならないように』と正直なところ思いました」

 ナレーションは斉藤と宝田明が担当。宝田がある種、沖縄の怒りの代弁者とするならば、斉藤は沖縄戦の事実を時系列で観客に体感してもらうよう導く、ストーリーテラー的な役割を果たしている。

「内容が濃くて、重たい事実が語られるので、それがずっと続くとやはり疲れると思い、すこし見ている方の心が軽くなるような声のトーンを心がけました。

 『軽く読んでいるように聞こえ過ぎないかな』と最後まで悩んだんですけど、いまも果たして正解だったのか、わかりません。

 なので、ほんとうにわたしのナレーションは大目にみていただいて、とにかく沖縄戦を体験された方々の心の底からの声といえる証言がすばらしいので、そちらに耳を傾けていただければと思います」

 確かに、この作品に登場する沖縄戦を体験した人々の証言は、しっかりと受け止めなくてはならないエピソードばかり。その言葉は、こちらの心に突き刺さる。

「たとえば、一度会ったことがある人が事故にあって大けがをしたりすると、他人事ではないと思うじゃないですか。

 そういうことってすごく大切だと思うんです。私も被爆者の人と直接お会いしたとき、原爆に対する意識も、戦争に対する意識もガラッとかわりました。他人事ではなくなる

 この作品に登場した方々の証言は、そのような直接会ってお話ししたかのようなリアリティを感じる。ご本人を目の前にして話をきいた感覚に限りなく近い。そんな臨場感とリアリティがある。

 実際に直接インタビューされた太田監督が受けた衝撃はもっと大きかったと思います。でも、カメラというフィルターを通してもなお、その証言はわたしたちに訴えかけてくるところがある。コロナの影響でなかなか劇場に来てくださいと言えないんですけど、劇場は感染予防対策をしていますし、この証言は映画館で受け止めてもらえたらと思います」

「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」より
「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」より

 今回の作品を含め、近年は、たとえば映画ならば大林宣彦監督の『野のなななのか』など、戦争や社会問題に根差した作品に数多く出演している。意識してのことだろうか?

「まったく意識して選んではいないんですけど、なぜかそうなっていますね(笑)。

 舞台の『父と暮せば』(1999年)の出演後ぐらいから、ありがたいことにそういうお話をよくいただくようになっただけで。エンターテインメント作品も大好きで、そういう作品も出たいと思っています(笑)。

 ただ、今回の作品もそうですけど、戦争のことであったり、知られざる史実であったりをきちんと描こうとしている作品は、向き合ってみたくなるのは確か。自分が知らないことであればあるほど、きちんと向き合って、役を通して、自分も学び、みなさんに伝えたいと思うのは確かです」

語り継ぎたいことを自分なりに柔らかく伝えたい

 その姿勢は、映画や舞台やドラマの出演に限ったことではないという。

「たとえば、『父と暮せば』は、ユーモアを織り交ぜることで、原爆の悲惨さや人々の悲しみを際立たせて伝えている。

 そういう物事の伝え方が日常といいますか、普段からできたらいいなと思うんです。『笑い』って、わたしはすごく重要だと思って。人の心をほぐしますし、すごく難しい社会問題もユーモアをいれるだけで、すっと心に入ってきたり、笑いがあることで心に残ったりする。

 特に、人が目を背けがちな重いテーマは、笑いの要素をうまく入れるとより広くに届くことがある。だから、そういう才能が自分にあったらなと思うんですよね。

 『父と暮せば』を書かれた井上(ひさし)先生とかすごいと思います。あれだけ悲惨なことに笑いを交えるなんて、なかなかできることではない。なかなかうまくできないんですけど、私も自分なりに原爆のことや歴史のことで語り継ぎたい、伝えたいことがあるときは、それを相手が変に構えることなく、柔らかく伝えられたらなと思っています」

 40歳を前に社会福祉を学ぶため、大学に入学するなど、若いころから斉藤は、社会や世界に関心を寄せてきた。そして、来年には60歳を迎える。今後についてこんなことを考えているという。

「自分が子どものころ、60歳だった方と比べると、何と自分の頼りないことかと思います。ただ、現実問題として、肉体的に若いころとは違うなと思うことは多々ありますし(笑)、物事に対する『意欲』も変わってきました。

 以前は、どうしても『自分が』と、まず自分が第一にあった気がします。『自分のために』があって、それが意欲でモチベーションになっていた。でも、いまはもう自分よりも、『これからの世代に』という意識が強い。

 これからの時代を作っていく人、未来を切り拓いていく人、そういう若い世代が少しでも生きやすくなることを自分のできる範囲でやっていきたいなと思ってます。

 だから、周囲に若くて頑張ってる子がけっこういっぱいいるので、応援したくなってしまう。自分のためだけではなくて、周りの人たちのことを思い、世界や地球のことを考え、社会がよりよくなることを考えているような、志の高い若者が何人かいて、そういう子たちの手助けをなにかできればなと思っています。

 逆に、自分が何かに出演したいとか、あの役をやりたいとか、そういうのはなくなりましたね。役者としてはいけないのかもしれないですけど(苦笑)。

 それより、若い人といい出会いがあればなと。新しく出会った若い人たちの背中を、ちょっと押せたらなと思っています。

 もちろん役者を辞めるわけではなくて、これまでいろいろな人に助けていただいてきましたから、この仕事は仕事として、できる限りのことはやりたい。

 そしてひとりの人間として、環境問題であったり、政治の問題であったりということにはきちんと目を向けていって、自分なりにできることをしていきたいなと思っています」

「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」より
「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」より

「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」

7月25日(土)より新宿K's cinemaにて公開。以後、全国順次公開

監督: 太田隆文

ナレーション:宝田 明  斉藤とも子

公式サイト:http://okinawasen.com/

場面写真はすべて提供:「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」

映画ライター

レコード会社、雑誌編集などを経てフリーのライターに。 現在、テレビ雑誌やウェブ媒体で、監督や俳優などのインタビューおよび作品レビュー記事を執筆中。2010~13年、<PFF(ぴあフィルムフェスティバル)>のセレクション・メンバー、2015、2017年には<山形国際ドキュメンタリー映画祭>コンペティション部門の予備選考委員、2018年、2019年と<SSFF&ASIA>のノンフィクション部門の審査委員を務めた。

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