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今だから語っておきたい松田優作のこと。バカもした想い出、そして健さんの弔問について

水上賢治映画ライター
崔洋一監督 筆者撮影

 30年間、封印されてきた伝説の松田優作追悼ライブを収めた2枚組のDVD「CLUB DEJA-VU ONE NIGHT SHOW 松田優作・メモリアル・ライブ + 優作について私が知っている二、三の事柄」が発売。手掛けた崔洋一監督が、ライブのこと、松田優作のこと、いまだから明かしておきたいことを3回に渡って明かす!

 最後は松田優作と音楽、そして今は亡き彼との想い出について。

松田優作にとっての音楽とは?

 おそらくいまの若い世代にとって、松田優作にシンガー/アーティストとしてのイメージはほとんどないのではなかろうか。ただ、今回のライブを観て思うのは、松田優作にとって音楽は欠かせないものであったこと。このライブで演奏される楽曲を聴けばわかるように、俳優ありきの音楽活動でなかったことがうかがえる。

「おっしゃるとおり。音楽は優作の自己表現のひとつであった。小さなセクションだったけれども、音楽に本気で取り組んでいた。

 まあ、考えてみれば、僕らの世代は典型的なフォーク世代で。ギターを持つシンガーソングライターとして、自分で詩を書いて曲を付けるっていうのは、ある種の青春謳歌のひとつの形だった。ある意味、自己表現としては正統派というかな。いまなら、ブロガーだったり、YouTuberということになるんだろうけど、当時は、自己表現で考えれば圧倒的にフォークシンガーだった気がします。

 それぐらい、音楽は身近なものだった。すぐそばにあるもので、手の届かないものではなかった。

 一方で、僕らは時代と向き合うというかな。その時代の中で生きる、自己の存在みたいなことを考えた世代だった。長いモノには巻かれない、権力には抗う、といったなにか強いものになびかない精神性がまだ残る世代でもあった。だから、そうした自身の精神性や哲学を、音楽で表現することは自然な流れだったんですよね。

 ただ、優作と僕との違いは、少年期・青年期を東京で過ごしてるか下関で過ごしてるか。そこに、えらい違いがあるんですよ。僕は東京育ちで、おぼっちゃまではかなかったですけど、なんとなく少年期、青年期を過ごしていたわけです。でも、優作はある目的意識をもって役者になろうとおもって上京してきた。その熱量は一目瞭然で。優作は貪欲なんだよね。松田優作はあらゆるものを吸収しながら、それを消費するというか。世の中に出すわけです。そのひとつが音楽だった。

 最初はバリバリのフォークで、いま聴くとちょっとこっぱずかしいところもあるんだけど、それが原田芳雄との出会いあたりから、変わっていって、ブルースやジャーマンテクノとかもとりいれたりして、貪欲にいろいろなものをとりこみながら音楽を作っている音楽性の追求は、おそらく自己の追求にもなっているから、どんどんマスにむけたものでなくなっていく

 だから、ヒット曲があるわけではなし、大きなコンサートといっても、マックスで新宿厚生年金会館だった。2,300~2,400入るくらいですかね。これは工藤俊作を演じた、つまり『探偵物語』の後なんですよ。だから、世の中的には『太陽にほえろ!』のときの『何じゃ、こりゃ』で亡くなったときよりも、おそらく10倍近い力を持っていたはず。

 その優作が新宿厚生年金会館でやった時なんだけど、客もすぐ乗って、スタンディングして、横揺れになるという感じではなかった。このときはまだ音楽的にはちょっとブルージーな、もしくはジャジーな、いわゆる8ビート系のロックをやっていた。それでも、生真面目に、ほんとにしっかりと優作を見つめて、音楽を楽しむっていうより、学ぶというか、松田優作の世界を吸収するような空気が強かったたまに『探偵物語』と同じような格好をしたヤツが『優作さん』とか声を出すぐらい。逆にそういうヤツはコンサート会場では浮いていた

 表に出るとそれはすごい人気で、もみくちゃにされるのにさ。コンサートはそれとは別の世界があった。音楽を突き詰めて、よりインディペンデントな方向へ進んでいくのもうなずけるものだったことを記憶しています。

 たぶん、アクターでもシンガーでもなく、アーティストなんですよね。いまマルチでいろいろなことをやるのは不思議でも何でもないじゃないですか。たとえば、音楽も作るけど役者もやる人物なんて珍しくない。

 ただ、優作の時代はまだそういう感じではなかった。たとえば、彼の独特の高い声をうまく使って、プロフェッショナルの作詞家と作曲家が曲を提供すれば、いわゆるヒットして成功する可能性はあったと思います。ただ、優作はそれを拒否する。望まないわけです。目的はヒットすることじゃない。歌は自己表現というものが根底にあるから」

僕らの世代は生き急いでいた。それが表現の支柱になっていた

 一方で、もう一枚の『優作について私が知っている二、三の事柄』では、松田優作と交友のあった人物へのインタビューから彼の私的な部分と俳優としての像が垣間見えてくる。

僕らの世代は、(桃井)かおりがこのインタビューでも言っているけど、『生き急いでいた』んだよね。なんかわからないけど、後先のことは考えない。命知らずなところがあった。精神的なところで、それが表現の支柱になっていた。極端なことをいえば、命をかけて演じるとかね。

 そういう表現者の代表的なひとりが松田優作だったと思う。ただ、優作の俳優としての軌跡をたどっていくと、ストレートのように一見すると思えるんだけど、作品の傾向とか積み重ねをみると、実に幅が広いんですよね。それこそ『探偵物語』から『ブラック・レイン』までと。

 役者も表現者としていえば、時代に屹立(きつりつ)するというか。その時代の中にいるのは間違いないわけで。時代の中で、松田優作がどういう役者であったかっていうことは結構重要な問題なんですよね。単に同じ時代を生きたっていう存在ではない。そうしたセンチメンタリズムだけの彼を捉えると、ちょっとしてやられちゃう。こちらが考えるよりも、十分にしたたかだし、繊細。自らトレンドをつくりたい欲求がある一方で、大衆に迎合しないというかな。大きなものに背中を向けるところがある。非常に相反するものが混在していた俳優なんですよ。それが、いみじくも桃井かおり的に言えば、『私たちは虚構』だとなる。『虚構の存在だ』っていう言い方になるんだよね。あれは非常に僕も理解しやすい」

写真:渡邉俊夫
写真:渡邉俊夫

ローカルにも根差せば、トレンドの最先端にもいく男

 水谷豊のインタビューでは、松田優作が他人に対して、実はそれぞれに別の顔をみせていたことがわかる。

「音楽にしても、役者の仕事にしても、いろいろな人間を自分のある種のテリトリーに引き込んでいるんだけど、その引きこんだ相手をつなげてもいいもんなんだけど、それはあまりしていないんだよね。才能があるヤツは勝手に出会うだろうと思ってたのかもしれないんだけど。本人たちに委ねている。

 だから、優作は僕のことを(水谷)豊ちゃんに話してた節があるんだけれど、僕は優作から豊ちゃんの話なんか一切聞いたことがない。優作と豊ちゃんが独特の仲良しであったのは知ってましたけどね。ただ、こっちもそれ以上は踏み込まない。

 ある種のカメレオンマンではあったんだろうと思うんですよ。それはあの時代の中で、やはりピンを張るというのかな。先頭に立つ役者の性みたいなとこってあったと思うんですよね。だから、何でもかんでも一家主義で、自分が頂点で、親分で、もしくは大旦那で、もしくはオーナーで、人々がそこに集ってくるというスタイルじゃなかったと思うんです。一見そのように見えるかもしれないけど、実は違っていた。

 たとえば、優作と僕がたまたま偶然、家がそばにあったっていうことが2回ほどあるんだけど、都心で遊んだり飲むときほとんど2人きりで会うんだけど、いま思えば不思議なんだけど、近くなんだから、一緒に出発して一緒に帰ってくりゃいいじゃない。でも、銀座なり西麻布なんかで会って、飲んで帰るとき、『じゃあな』ってな感じで、別々に帰るのよ。そうかと思うと、近くに飯食いにいこうと、ジャージ姿でさ、ご近所のおじさん同士みたいなときもある。

 あと笑っちゃうけど、優作が子ども3人預けていた保育園がうちの真ん前だったんですよ。この運動会が近所内では名物で、近くの中学のグラウンド借りてやるんだけど、田舎の運動会で、ほとんどご近所の寄り合い。宴会開いているようなもんなの。優作も関係者呼ぶだけ呼んで、これは子どもの運動会じゃねえぐらい、どんちゃん騒ぎするのよ。これになんだか僕も毎年呼ばれて、行きたくないんだけど、いかざるをえない。

 で、優作が偉いのは、玉転がしとか徒競走とかさ、出て、必死に走る。(松田)龍平や(松田)翔太のために。周りは大喜びするの。そういうところもあるやつなんだよね。ある意味、ひじょうにローカルに根差すところも大切にしながら、トレンドの最先端にもいく。そこが彼の魅力だったんじゃないかなといま思う」

写真:渡邉俊夫
写真:渡邉俊夫

 こんなこともあった。

信じられないかもしれないけど、2人でハワイいってさ、名門コースでゴルフやったのよ。信じられないでしょ。しかも、短パンにビーサンっていう典型的な、アホの日本人といういで立ちで(苦笑)。カートでふざけてカースタントをやったりして、それで拳銃を持ったマーシャルに散々怒られた。『おまえら、何しに来た。ここはゴーカートの遊び場じゃない』って。そういう恥かしいこともしてるんですよ。ストイックな役つくりの役者という優作のイメージからかけ離れるかもしれないけどね」

(高倉)健さんも優作の死を惜しんでいた

 40歳という若さで、この世を去った松田優作。それから月日が流れ、もはや伝説の俳優として語られることが多くなってきた。いまだから語るが、その死は高倉健も惜しんでいたと崔監督は明かす。

「なかなか日本ではいいづらいことなんですけど、僕がたまたまヨーロッパにいったとき、確かスペインだったかな、上映していて『ブラック・レイン』のポスターをみかけたんですよ。すると、日本ではマイケル・ダグラス、アンディ・ガルシア、高倉健だよね。でも、違うのよ。松田優作なの。

 これは健さんがいいわるいとかじゃなくて、あの映画の中では刑事役の高倉健よりも悪党の松田優作のほうが立ってたっていうこと。それぐらい優作の仕事は際立っていた。たぶん、健さんはそれを分かっていたと思う。

 というのも、優作が亡くなったとき、僕はお通夜・葬式の仕切り部隊のひとりで、その場にいたんですけど、お通夜は、確か夜の10時か11時には、翌日葬儀があったから、スタッフをばらして、僕たちも帰ることにしたんですよ。僕たちがいるとスタッフも帰れないから。で、遺族だけが残った。泊まり込みができるんで、親族の一部は。

 そうしたら健さん、小林稔侍を連れて、夜中の1時か、2時ぐらいかな、現れたそう。みんながいなくなるまでずっと近くに車をとめて待機していたみたい。

 当然、その時間帯だともうメディアはいない。我々もいないわけだから。そこにすっと現れたというんだよね。(松田)美由紀からきいたんだけど。それきいたとき、やはり健さんは律儀な人だなと。それで優作を認めていたんだなと思いましたね」

 この2枚組のDVDに松田優作本人はほぼ登場しない。でも、おそらく松田優作の存在を確かに感じることができるだろう。30年の時を経て、ようやく届けられた幻の一夜に出合ってほしい。

(C)株式会社 セントラル・アーツ
(C)株式会社 セントラル・アーツ

「CLUB DEJA-VU ONE NIGHT SHOW

松田優作・メモリアル・ライブ +  

優作について私が知っている二、三の事柄」

DVD(2枚組)発売中 

価格:6,900円+税

販売:東映株式会社 

発売:東映ビデオ株式会社

映画ライター

レコード会社、雑誌編集などを経てフリーのライターに。 現在、テレビ雑誌やウェブ媒体で、監督や俳優などのインタビューおよび作品レビュー記事を執筆中。2010~13年、<PFF(ぴあフィルムフェスティバル)>のセレクション・メンバー、2015、2017年には<山形国際ドキュメンタリー映画祭>コンペティション部門の予備選考委員、2018年、2019年と<SSFF&ASIA>のノンフィクション部門の審査委員を務めた。

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