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東日本大震災の記憶を後世へ。二人の女性作家が被災地で活動し続ける理由

水上賢治映画ライター
現在は仙台を拠点に創作活動をする、小森はるか(左)と瀬尾夏美(右) 筆者撮影

 東日本大震災から9年が経った。震災直後、ジャーナリストや映像作家が現地に入り、あらゆる媒体が現地報道であふれた。でも、その後、継続して被災地と向き合っているメディアがどれだけ残っているだろう?

 その中で、震災直後から被災地に入り、現在まで現地の「現在」を発信し続けている2人の若き女性作家がいる。小森はるかと瀬尾夏美。東北に特に縁もなかった彼女たちだが、震災直後、現地に入り、その後、陸前高田に居を構え、いまも東北を拠点に活動している。

 小森は映像作家としてドキュメンタリー映画を、瀬尾は画家、作家として絵画、詩、書籍など、各々の作品を発表。さらに2人はアートユニット<小森はるか+瀬尾夏美>として被災地の「いま」を伝え続けている。

 なぜ、彼女たちは現地にとどまり、被災地と向き合い続けるのか? 現在の活動拠点である仙台に赴いて二人に話を訊いたインタビューを2回に渡ってお届けする。

わたしたち世代が最初に向き合った有事、危機感を抱く

 まずはじめは彼女たちが被災地へと向かった理由から。東日本大震災が起きた2011年3月11日、当時、2人はまだ東京藝術大学に通う学生。まさに卒業を迎えようかというときだった。

瀬尾「阪神・淡路大震災がありましたけど、当時はまだ子どもで。わたしたちの世代にとって、東日本大震災がリアルに自分の身をもって目撃してしまった最初の大きな有事でした

 そういう状況を前にしたとき、学生は学生なりに危機意識を抱いたんです。『大変なことが起きてしまった』と。美大ですから『この有事にアーティストとしてできることはあるのか』とか、急にみんな考えこむ。それまでそんな話なんてしたことなかったんですけどね」

 ボランティアに行くべきではないか。そう思い立つが、SNS上では『安易に行くべきではない』といった言葉が飛び交う。それでも、2人は被災地に行くことを決意する。

瀬尾「レンタカーを借りて行くことにしました。3月30日に東京から一番近いと思っていた被災地の北茨城市に入りました。ただ、震災から3週間近くが経っていたこともあって、ひと段落ついていた。そのとき、地元のある方にこう言われたんです。『北のほうがもっと大変らしいから、車があるならそっちに行ってみなさい。まずはみることが大切だよ』と。

 それで津波の被害に遭った沿岸を回り始めたんです。当時、福島は原発の影響で入れない場所が多かったので、宮城、岩手、青森と」

ボランティアへ。誰の手伝いもなく、ひとり作業をする人に気づく

 行く先々でボランティアに参加した二人は、ふとあることに気づく。

瀬尾「いろいろな方がボランティアに助けを要請していましたが、そのネットワークからもれてしまう人もいる。たとえば、大きな被害に遭った場所があると、そこに何十人もボランティアが入って一気に片付ける。その一方で、隣の民家で、おじいさんが誰の手伝いもなく、ひとりで細々と家を片付けていたりするんです。そこで、こうした助けを求めたくても声に出せないでいる被災者の方が実は大勢いるのではないか?と思ったんです。

 それで、ひとりで作業している方がいたら、『なにかお手伝いすることありますか』といったように声をかけてみるようになりました。すると、なんとなく小さな会話が始まる。『何もかも流されたけど、でもこうやってせめて片付けているんだ』とか、『先祖が大事にしてきた土地だから、このまま片付けもしないで立ち去ることなんてできないんだよ』みたいな話をポツリポツリと語ってくださるんですね。それで最終的にはとてもいろいろなことを話してくれた。

 そういうとき、初めて現地で生きる人の生の声に触れたのかなと感じましたね。東京にいると『未曽有の被害』とか『壊滅的な状況』とか強い言葉で括られて片付けられてしまって、個人の声というものは聞こえづらい。

 でも、現地に行くと、地元の人たちが先の見えない中でも、手探りだけどなにかを立ち上げようとしている。わたしは、こういうひとりひとりのことをちゃんとみたいし、書きたいし、記録したいと思ったんです。

 あと、話をするだけでも気が紛れるということもありますよね。それは被災された方も私自身も同じだったかもしれません。ひとりだと吐き出したい感情も抱え込んでしまう。そばに話を聞いてくれる人がいたら、少し心が楽になる」

小森「ただ、お話を聞いただけなのに、あるおじいさんに『おかげで、生きる気力がわいたよ』とか声をかけられたことがありました」

瀬尾「こういうことなら、わたしたちみたいに腕力や特別な能力のない人でもできるかなとも感じていました」

 なぜ、そうした小さい声に気づいたのだろうか?

瀬尾「わたしたち自身、居場所を見つけられなかったからだと思います。ボランティアもチーム作業で、次第にスタッフ間の輪ができていく。それは、当時暮らしていた東京でも同じでした。

 だから、同じようにひとりでいるおじいさんなんかを見かけると、『話せそうかな』と思って近づいていった。そういうことだった気がします」

小森「ひとりで困っているおじいさんとかがいると瀬尾はそうやって声をかけていったんですね。最初、わたしにその勇気はありませんでした。

 でも、やはり一度気づくと見過ごすことはできなくなるというか。避難所に行っても、必ずひとりかふたりはポツンとひとりでいる方々がいたりする。気になるから声をかけると、ものすごくいろいろなことを話してくださる。自然と、なかなか声を出せないでいる方たちとお話しする機会が増えていきました」

震災を「記録する」「語り直す」とのお題を受け取る

 このとき、すでにいまの創作活動を決定づける2つの出会いを果たしている。

瀬尾「5日間の予定が結果10日間のボランティアになったんですけど、大きな出会いが2つありました。

 ひとつは、岩手県の宮古であるおばあさんに頼まれたんです。『自分はいま被災して動けない。あなたたち美大生でカメラ持っているなら、代わりにもっと大きな被害を受けているわたしの実家に行って、現場をみて写真を撮っておいてほしい』と。わたしたちにひとつ役割を渡してくれたんです。

 美大生なんて役に立たない気がして無力さを感じていたんですけど、このとき、記録や記述がいま必要とされていて、これなら自分たちでもできるかもしれない、と。自分たちにもできることがある、これをとりあえずやればいいと思ったんです。

 それで、できるだけ被災地をたくさんみようと青森まで回って撮影をしました。『記録をする』という仕事を勝手に自分たちの役割と決めたんですね。

 もうひとつは、陸前高田でのあるおばあさんとの出会い。そのおばあさんはなにもお返しするものがないからと、いろいろなお話をしてくださったんです。

 そのお話は、おばあさん自身のこともあるんですけど、半分以上が自分以外の人の話でした。すでに亡くなられた方や今は消えてしまった風景のお話とか。

 おばあさんの話は、もう語れなくなってしまった存在を背中に置きながら、その方の話をその人に代わって語ってくださっているようでした

 この語りを前にしたとき、思ったんです。『(震災について)当事者しか語ってはいけないというような風潮があるけど、それは違うんじゃないか』と。

 おばあさんがその人のことを想って、その人が語れなかったかもしれないことを話してくれた。わたしたちはそれを聞かせてもらった。だったら、それを受け取った者としてなんとか引き継ぎ、また別の人へと語り伝えてもいいのではないかと。

 このほかにも、被災をして大変な状況にみなさんいるのに、『君たちわざわざ来てくれたんだから』と、何かを渡さなければならないという感じで、体験を語ってくださる。

 そのたびに、こちらとしてはとても大事なものを受け取った気がして。そのとき、『渡されたものを誰かに渡したい』と思ったんです。

 この2つの出会いで、『記録すること』と『語り直すこと』というのが、わたしたちにお題として渡された気がしました。そこからわたしたちのやっていることはずっと一緒で、この二つのことなんです」

現地の日々の変化を知り、伝えるため、陸前高田へ移住

 このテーマとの出合いが、陸前高田に居を構えることにもつながる。

瀬尾「1年ぐらい東京と被災地を行き来しながら、東京や関西で被災地の報告会を開いていたんですけど、その間に語り直すことの難しさに直面しました。

 まず、現地の人の話を聞くためには、聞く力が必要。そのお話の背景を想像できる想像力が必要だし、その土地やその方の歴史も知らないといけない。また、日々の変化にも敏感でならないといけない。これらを考えると、通いでは追いつかない

 1度目からあまり間を置かず、GWにボランティアに再び行ったんです。そのとき、陸前高田のおばあさんのお宅を再訪したんですが、以前よりずいぶん明るい声に聞こえて。『人間の気持ちってこんなに変わるのか』と驚いたんですが、あたりを見回すと、流された場所にも草が生えたりして、風景に色がつき始めていたんですね。このような、微細だけど大きな変化は現地にいないとわからないと思って、翌年の2012年の春に陸前高田に引っ越すことを決めました。

 でも、最初にボランティアに行ったときの最後の3日間ぐらいで、すでに自分の中では、被災の場で生きる人たちがぽろっとこぼす言葉とか、その場で編まれる弔いの所作といったものを記述する役割をやりたい気持ちはあったと思います。ツイッターに書き始めていましたから」

小森「わたしは当初、引っ越すことはあまり考えていませんでした。

 でも、東京での報告会で、わたしたちが伝えようとする、ある個人の小さなお話がなかなか届かなくなっていった。震災から半年ぐらい経つと、みんなが知りたいのは、たとえば原発事故の現状とか影響とか、そうした大きな事故や問題のことで」

瀬尾「当時、いろいろなアーティストが震災についての作品を発表していましたけど、やはりセンセーショナルなことを扱うケースがほとんど

 でも、わたしたちの報告というのは、『ここで出会ったおじいちゃんが寂しそうだった』とか、個人のお話になる。すると、当時の聞く人にとっては他愛もないエピソードばかりに映るわけです」

小森「当時、作家も報道もやはりより大きな被害の場所、より大変な目に遭った人を取材しているところがありましたから」

瀬尾「だから、みんながっかりするような感じになるんです。もっと大きな問題のことを知らせてくれといった具合に」

小森「震災から半年経つ頃には、わたしたちが見たり聞いたりした個人の方の話はあまり必要とされない時期にきていた気がします。でも、だからといって求められることに寄せるのは、自分たちの主旨に外れる。じゃあ、自分たちなりの『記録する』『語り直す』を作品をつくることでやるしかない。となったとき、やはり現地に住む必要があるなと。そこで決心がつきましたね。

 あと、陸前高田で出会ったおばあさんは、津波が庭先まで来たけれどお家は被災せずに、ぎりぎり助かった人で。当時、津波に流されなかった人の抱える辛さや悲しみには誰も耳を傾けようとしていなかった気がします。ご本人も同じ地域の皆さんの多くが被害を受けていて、なかなかその気持ちを知人には打ち明けられない。

 それで、わたしたちに話してくれたところもあったと思うんですけど、こういうお話こそ聞きたいし、きちんと記録して忘れないでいたいと思ったんですよね。なかなかメディアでは目が向けられないことだと思ったので。そして、こういう話は、やはり現地にいないと出会えないとも思いました」

 こうして二人はまずは岩手県気仙郡住田町に移住。そこから陸前高田市に移り、約3年、暮らしながら制作に取り組む。

 はじめからうまくいったわけではない。それでも粘り強く陸前高田で働きながら、少しずつ街になじみながら、2人はいろいろな人と出会い、被災者の声に耳を傾けていく。

瀬尾「最初は、作品を作るかどうかより、まずは、この場所にある声や風景の細かな変化を見聞きするための知識や技術をつけたいと思っていました。

 でも、地元の方にお話を聞こうにも知り合いもいないし、方言もまだよくわからない。実際、町の人になかなか出会えなかったです。被災した場所を歩いたり、スケッチしたりしているうちに徐々にいろいろな人と出会うようになりました。そのうち地元の人から『美大生なんでしょ、絵を描いてないの? みせて』と言われたり」

小森「映像が撮れるなら、『お祭りやるから撮ってくれ』と呼んでもらったり」

瀬尾「なんか地元のみなさんが、わたしたちが創作するよう仕向けてくださったというか。それで創作に向かっていった感じでしたね」

 2人が移住した当時からを知る陸前高田の佐々木とも子さんは、このころの二人の印象をこう語る。

「本人たちには失礼かもしれないですけど、初めてて会ったときから東京の美大生ということを微塵も感じさせないというか(笑)。二人の人間性なんでしょうけど、初めて会った感じがしない。最初から、この町にいたみたいにとけこんでいたんですね。

 それはなんでかと考えると、彼女たちはわたしとひとりの人間として接してくれたんです。当時、外から来るほとんどの人は、わたしたちを被災者としてしかみてくれなかった。

 でも、彼女たちは違いました。わたしという人間と付き合ってくれました。それが当時のわたしにとってはとても心地よかった。言葉で説明しづらいんですけど、彼女たちはなんかふわっとしていて、ただそばにずっといてくれる。だから、多くの人が彼女たちにはいろいろな話をするようになったんだと思います」

 こうして二人は陸前高田に根差しながら、地元の人々から聞いた震災前のこと、震災時のこと、亡き人のことなどを、詩、絵画、インスタレーション、ドキュメンタリー映画などの作品にして発表していく。

 その中で、2人があげた「記録する」「語り直す」という命題を、ひとつ結実させ、多くの人のもとへと届く形にしたと思えるのが最新の映像作品「二重のまち/交代地のうたを編む」だ。(※次へ続く)

映画ライター

レコード会社、雑誌編集などを経てフリーのライターに。 現在、テレビ雑誌やウェブ媒体で、監督や俳優などのインタビューおよび作品レビュー記事を執筆中。2010~13年、<PFF(ぴあフィルムフェスティバル)>のセレクション・メンバー、2015、2017年には<山形国際ドキュメンタリー映画祭>コンペティション部門の予備選考委員、2018年、2019年と<SSFF&ASIA>のノンフィクション部門の審査委員を務めた。

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