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かつて・いま・これから10代のあなたへ。映画『左様なら』石橋夕帆監督×芋生悠×祷キララ鼎談

水上賢治映画ライター
映画『左様なら』 石橋夕帆監督(左)芋生悠(中央)祷キララ(右) 筆者撮影

 現在の日本において、「スクール・カースト」を取り上げた映像作品は数多い。現在ロングラン公開中の『左様なら』もまた、そのジャンルに分類されるのだろう。

 ただ、この映画は、よくあるタイプのスクール・カーストについての映画とは似て非なる。学級における生徒間のパワーバランスをとらえているのは確か。でも、よくあるような上位に君臨するいじめっ子グループと、いじめ対象となった底辺の子といった図式で、もっともらしくわかりやすく描くようなことはしていない。

 スクール・カーストの最上位から最下位まで、どこのグループにも属さない子から影の薄い子、目立つ子、そのほかにいるような中間層まで、ひとつの学級を構成するすべての層の生徒を登場させ、「学級」という空間とそこに流れている空気、それらを敏感に体感しながら生徒たちが過ごす時間、そこで生まれる微妙な人間関係を見事に映し出す。

 この作品が描く「クラス」は、きっと全国の学校のどこかの「クラス」につながっている。学園におけるひとつの「クラス」を、これほど完璧に再現した映画はあまりお目にかかったことはないかもしれない。

 「日本の『学級』における『普遍』を描く」。このある種、無謀な試みを成し遂げた、若き3人の女性、石橋夕帆監督、主演の芋生悠と祷キララの鼎談。

原作者、ごめんとの出会い

 映画『左様なら』は、ごめんが手掛けた原作を中心に偶然とも必然ともいえるような不思議な縁がつながる幸福な形で作品が誕生している。そのバトンをまずつないだのは、主演の芋生悠だった。

「もともと、私はごめんさんの漫画のファンでした。その一方で、ありがたいことに、ごめんさんも私の出演した作品を見てくださっていて、私に興味をもっていてくれたみたいなんです。

 それで、『1度お会いできれば』と考えていたんですけど、あるお付き合いのあるカメラマンさんがごめんさんと知り合いで。『じゃあ』ということで、カメラマンさんのセッティングでお会いすることができたんですね。

 それより前にさかのぼるんですけど、石橋さんには主演作を撮っていただいて。お付き合いがずっと続いているんですけど、石橋さんは実はすっごく漫画が大好きで。『漫画おたく』といっていいぐらい詳しい(苦笑)。ごめんさんの作品も知っていた。それで、ごめんさんと石橋さんを引き合わせたら、おもしろい化学変化が起こるんじゃないかなと。お互いクリエイターとして刺激を受けて、石橋さんの映画にも、ごめんさんの漫画にも、なんか影響が出ておもしろいことがおこるんじゃないかと思って、石橋さんとごめんさんをつないだんです。

 あと、私自身、ごめんさんの漫画は映画っぽいというか。ディテールの細かい線があるわけではないんですけど、とっても登場する人物の表情が豊かで、コマ割りもどこか映画的。そのことも2人を引き合わせたかった理由ですね」(芋生)

 こうして出会った石橋監督とごめんはすぐに意気投合。すぐに「なにかやりましょう」となったという。そこで石橋監督が望んだのは18ページの短編「左様なら」の映画化だった。それは原作者のごめんも望んでいたことだったという。

「ごめんさん自身、こういう映画が観たいという思いで描いた作品だったそうです」(芋生)

「ごめんさんが当時、映画を作る土壌みたいなものがなかったから、漫画にして、世に送り出したところがあったそうです」(石橋)

 「左様なら」に惹かれたポイントを石橋監督はこう明かす。

「『左様ならは』ごめんさんの初期の作品。正直、もっと読み応えがあって、人気を集めている作品もある。ただ、私の中で『左様なら』が一番、直感で、映画的と思ったんですよね。

 あと、もうひとつ、実は、私の中で1番よくわからない作品だったんです。というのも、キーパーソンの綾が、物語上で重要な、なにを考えていたのかが描かれていない。そのわからないところをわかるまで、とことん向き合ってみたいと思ったんです

学級自体を丸ごと描く

 ただ、18ページの短編。当然と言えば当然だが、当初は短編での映画化を考えていた。

「はじめはわりと原作に沿って書き上げました。ただ、あることがきっかけで、『長編にしたいな』と(笑)。それでごめんさんにご相談したんです。『長編にしたいのでオリジナルの要素も入れていいですか』と。それを、ごめんさんは『どうぞ自由に解釈して映画にしてください』と快く受け入れてくれました。

 それで長編の脚本にとなったとき、漠然となんですけど、学校のあるクラスの群像劇がいいのではないかと思いつきました。そして、物語のどこを膨らませるかと考えたとき、綾が亡くなった直後、由紀がクラスで孤立していく時間にフォーカスを当てようと。原作では尺的にそこがわりとさらっと描かれているんですけど、クラスメイトが亡くなった後の教室の空気ってけっこう別世界ぐらい変わると思うんですよね。

 そこでは、生徒たちの人間性や学級での立ち位置もおのずとみえてくる。それで原作には、いないんですけど、クラスメイトを20人ぐらい増やしちゃいました(笑)。『学級自体を丸ごと描こう』と思って」(石橋)

 その脚本をはじめに目にした驚きを由紀を演じることになった芋生はこう明かす。

「もう、びっくりしました。漫画での登場人物は確か3人。それなのに、次から次へと生徒が出てくる。石橋さんの頭の中ってどうなっているんだろうと思いました(笑)。しかも、いずれの生徒のバックボーンも完璧に作られていたんです。単に存在するのではない。どの人物もきちんとその教室に存在するひとりの人間として書かれている。すごいなと思いました」

一方、綾役を演じる祷は、こんな印象を抱いていた。

「第一稿が届いたときは、やはり平面でしかとらえられなかったというか。やはり会話だけを追って、想像するしかなかった。ただ、自分の頭の中で『こうなるのかな』とか、想像を膨らませば膨らませるほど、どうなるのか想像がつかない。そういう意味で、自身の想像を掻き立てられる脚本でした」

自分の中にある負の感情にきちんと向き合う

 その物語は、とある海辺の町にある高校が舞台。どこにでもあるようなごくごく普通の高校でありふれた日常が流れている。芋生演じる由紀と、祷演じる綾はその学校に通うクラスメイト。由紀はクラスで特に目立つわけでもなく、かといって存在がないわけではない。普通の位置をキープしているような女の子だ。

「共通する部分がけっこうある役でした。たとえば、すごく大切な人が亡くなってもなぜか涙を流せないとか、自分にもある。そういうとき、感情が無になっちゃうというか。空っぽになって呆然自失になってしまうんです。

 そこは自分のすごく嫌いなところなんです。なんで、こういうときほかのみんなと一緒に泣いたり、他人に甘えたり自分はできないのになぁって。その人のこと愛しているのに。泣けないのは自分が冷たい人間なんじゃないかなって、自己嫌悪に陥っちゃう。だから、由紀を演じることで、自分の心の奥にある『私』を探せればなと思いました」(芋生)

「綾とほとんど関わったことのないクラスメイトたちがおいおい泣いている一方で、綾と唯一強い結びつきをもっていた由紀が泣けない。キャスティングを考えたとき、私はそこに芋生さんを見たんです。正直なことを言うと、私もそういうところがあります。素直に感情を表にだせない。自分に人間味がないんじゃないかという、引け目や罪悪感がある。

 失礼なのかもしれないですけど、芋生さんと付き合う中で、そういう共通点を感じとっていたのかもしれない。だから、ぜひとも由紀は芋生さんにやってほしいと思ったんです」(石橋)

「それはうれしかったです。脚本を読んだとき、なんとなくそれは感じました。石橋さんから出された愛のある課題だなと(笑)。役としてじゃなく、自分の中に眠るそういう負の感情ときちんと向き合わないと思ってはいたんですけど、どこか避けていたところがありました。なので、そういうチャンスを与えてくださったんだなって。

 いままで女子高生役は多かったですけど、天真爛漫だったり、逆に闇が深すぎたりと両極にふれたような役が多かった。ただ、今回の由紀は、スクール・カーストでいえば中間。ごくごく普通の子で、そういう心の奥底を表現するというのはひとつチャレンジでした」(芋生)

映画『左様なら』より
映画『左様なら』より

生と死は紙一重。実は誰もがそこに立っている

 一方、常に凛としたたたずまいでいる綾はどこに組することもなければ、誰に媚びることもない。ひとりを厭わないように映る彼女は、クラスのいじめっこグループもどこか一目置いている。孤高の存在である彼女だが、その存在を突然消すことになる。

「初めてお会いした瞬間に、特別なものを感じた芋生さんと共演できて。その芋生さんが全幅の信頼を寄せている石橋監督とご一緒できる。さらに台本を読んだら、いろいろと想像が膨らんで、撮影に入る前はワクワクしていたんです。でも、読み込んでいくと、綾がどうしてこの世から去ってしまったのかわからない。そのことに気づいたら、めっちゃ不安で、どういう風に存在すれば説得力のあるものになるのかよくわからなくて、もう『どうしよう』と(苦笑)。

 ただ、石橋さんと話し合っていく中で、演じる上で大切にしなければいけないのは、綾がどうして死んだのかじゃない。その理由をひも解くのはあまり意味がないんじゃないかなと。

 というのも、綾は死を意識して死んだわけではない。

 私、高校のとき、バレーボール部だったんです。今日、夢を見たんですよ。部員全員でサーブの練習をするんですけど、私だけが何度やっても入らない。そして、私だけが練習から外される。

 いまだにこんな夢をみるぐらい、たぶん部活でいいことも悪いことも味わった、ということだと思うんです。日々、うまくいくこともあれば、いかないこともある。落ち込むこともあれば、気が晴れているときもある。

 たとえば、死にたいとかそうことはじゃなくて、電車を列の最前列とかで待っているとき、ここで一歩踏み出したら死ぬんだよなとか考えるとき、誰しもあると思うんですね。その一歩で世界がまったく変わってしまう。

 ある意味、綾の死はその一歩の違いでしかないというか。生と死は、紙一重で。実は誰もがその同じところに立っている。たまたま、綾はそこから気づくと踏み出してしまっていた。もしかしたら踏みとどまる可能性はあった。

 そういうことを考えたとき、どこか傍からみると人間味のない、クールな綾にも、実はきちんと心がある、人間っぽいところが見えてきた。ここを大切に、彼女の人間ぽいところを私がきちんと理解すればいいんだなと思いました」(祷)

「綾はこのクラスにおいて、孤高でいるがゆえ、異彩を放つ。死んでなお、クラスにその残像を残す。どこか浮世離れしていながらも、不思議な存在感があって。それが祷さんに感じられたんです。だからあえて祷さんとまだ直接お会いしていないうちに勝手なイメージからインスピレーションを受けて、綾を作ったところがある。なんかそれこそが綾なんじゃないかと思ったんです」(石橋)

 一見すると、性格もクラスでの立ち位置も違う由紀と綾だが、なぜか互いを認め合う仲。休み時間におしゃべりしたり、お弁当を一緒に食べるわけではない。でも、互いに深いシンパシーを抱いている。

「由紀と綾は強い力でつながっている。でも、わかりやすい親友関係とはかけ離れている。たとえば、親密さをもって親友とするならば、2人は親友関係にはない。綾は由紀のことをさほど知らないし、由紀も綾のことをそんな深くは知らない。たぶん、好きな男の子の話しとか、趣味のこととか話していない。

 でも、会った瞬間に、この人とはちょっと一生付き合いが続くかもって、直感するときってあると思うんです。理屈じゃない。なんかいっしょにいて苦にならない存在っている。たぶんこの二人はそういう感じなんじゃないかなと思うんです。

 で、実は私と芋生さんの関係もそんな感じなんです。

 私が高校三年生のとき、芋生さんが出ている映画を観に行ったんですけど、そこで初めてお会いしたんですよ。ほんとうにあいさつ程度の会話で、記念にツーショットの写真をとったぐらいだったんですけど、なにかわからないんですけど、また再会するときがあると思って。特別なものを感じたんです。

 そのことを思い出したとき、綾が由紀に抱く感情が完全に重なった。もう友情や愛を越えた、心で通じるなにか。これを素直に出せばいいんだと思いました」(祷)

 しかし、綾は突然死去。その死は由紀の心にも、クラスメイトにも大きな波紋を呼ぶ。しかも由紀は直前に一緒に過ごす時間を持っていた。作品はまず、その状況に置かれた綾の心模様の丹念に描き出す。

「直前まで一緒にいたにも関わらず、由紀は綾のことをよく知らない。だからもどかしいし、哀しい。特別な存在だったからこそ、無駄に騒ぎたくもない。変な噂も信じたくない。由紀にとっての『綾』のままを保ちたかった。

 だから、葬儀に出席しても涙は出ない。それはすべてに1回蓋をしたから。そうしないと現実にきちんと向き合うことができない。

 直前に2人で海で過ごした時間。そこで沈みゆく夕陽の中で、綾の笑顔は夕陽の中で輝いている。あんなすがすがしい輝く笑顔を見ていたら、死んじゃうなんて信じられない。

 あのキララちゃんの、あの綾の顔に、もしかしたら綾と由紀の特別な関係は凝縮されているかもしれない。私自身、演じていて、あの表情で由紀にとっての綾の存在を悟ったところがありました」(芋生)

映画『左様なら』より
映画『左様なら』より

 この由紀と綾がしばしの時間を共有するシーンは、2人のひとつの岐路。永遠のかけがえのない瞬間と永遠の別れが交差している。特別な瞬間が実は、後になってようやく気づく日常の延長線上にあることを静かに教えてくれる。

この教室にだだよう独特の空気は誰もが一度は体験したことになっているような気がする

 こうした由紀の心境を描く一方で、綾の死をきっかけにはじまる彼女へのいじめ、あらぬ噂によってざわつく学級、動揺する生徒といった刻刻と変化をする学校の日常と、それでも揺るがないスクール・カーストのパワーバランスも描かれる。

「先ほど少し触れましたが、私の中では、脚本のときは平面でした。ところが撮影に入ると、教室に様々な声や会話が飛び交い、クラスメイトたちが教室のそれぞれに位置すると、なにか立体的になって、まさにひとつの教室が出来ていたんです。

 ある共演者に言われたんですけど、俺の役だと綾と由紀にはおいそれと近づけない。だから、撮影中はあえて近づくことはなかったと。

 それぐらいみんなそれぞれの人物に自身を投影して、役の学校におけるいわば役割を徹底していた。

 それも、石橋さんが由紀と綾だけでなく、それぞれの生徒のバックボーンを考えて、各役者にそれを与え、みんなも共有していたから、ほんとうにひとつの教室になっていた。かつての自身の学校生活の記憶が甦りました」(祷)

「撮影現場なのですけど、教室に入った瞬間、もう学校というか(笑)。役とかもう越えてそれぞれの持ち場があって、所属するところがあって、位置するところに収まる。ほんとうにあのなんともいえない学校の雰囲気になっていました。たぶん、あの教室にだだよう独特の空気は誰もが一度は体験したことになっているような気がします」(芋生)

学校が世界のすべてじゃない

 まさに学校の教室を体感させる映画。ただ、学校がすべての世界という学園内にとどめた映画ではない。学校がすべてではないというメッセージの込められた映画でもある。

「自分自身も振り返ってみると、中学や高校のときは、どうしても学校が自分のすべての世界になってしまう。学校の中がすべてで、そこに居場所がなくなったら、生きていけない。大人になればとるにたらないことでも、10代のころは今がすべてだったりする。学校に縛られちゃう。ただ、ちょっと外に出てみると、意外といろいろな世界があるんですよね。ひとりひとりに未来がある。学校だけじゃないいろいろな景色をみてほしい。学校でいろいろと悩んでいる中高生に届いてくれたらうれしいです」(芋生)

私も高校時代、代わり映えのしない毎日が続いて、こんな感覚のまま大人になっていくのかなと、漠然とした不安をずっと抱えていました。

 でも、学校の外の世界を話してくれる先生がひとりだけいた。その先生の存在が自分の心を外へ向けてくれた気がする。その先生のようなひとつ生きる希望のくれるような存在に、この映画がなればなと思います」(祷)

「由紀のよくいくカフェで臨時で働く、ちょっと頼りない大人のミュージシャン、忍野皓太を登場させたのは、由紀に学校外にも無限の世界があることを知らせるためでもあります。由紀にフラットに寄り添ってくれる彼は、学校の外にもいろいろな世界があることを教えてくれる。中高生にとって、こういう大人の存在はすごく大きいと思います。少なくとも自身が高校生の時は忍野のようなある意味『大人らしくない大人』に憧れていました。この映画がいま現在学校で居心地の悪さを感じている子たち、またかつてそうだった人たちにとって小さな救いになってくれたらうれしいです」(石橋)

映画『左様なら』より
映画『左様なら』より

UPLINK吉祥寺ほか全国順次公開中

(c)2018映画「左様なら」製作委員会

映画ライター

レコード会社、雑誌編集などを経てフリーのライターに。 現在、テレビ雑誌やウェブ媒体で、監督や俳優などのインタビューおよび作品レビュー記事を執筆中。2010~13年、<PFF(ぴあフィルムフェスティバル)>のセレクション・メンバー、2015、2017年には<山形国際ドキュメンタリー映画祭>コンペティション部門の予備選考委員、2018年、2019年と<SSFF&ASIA>のノンフィクション部門の審査委員を務めた。

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