きっと「私たちの映画」がここにある。「ニッポンの現在と未来」が見える!<第41回PFF>開催中
現在、<第41回ぴあフィルムフェスティバル>(以下PFF)が開催中だ。
自主映画を紹介し続ける同映画祭は、これまで数多くの新人監督を発掘してきた。現在公開中及び近日公開の映画を見渡すだけでも、『ダンスウィズミー』の矢口史靖監督、『台風家族』の市井昌秀監督、『最高の人生の見つけ方』の犬童一心監督と、次々と名前が挙がる。それほど数多くの映画人を輩出している。
このまだ無名の新たな原石との出会いを約束するコンペティション部門<PFFアワード2019>に、今年は18作品が入選を果たした。
8ミリフィルムから時を経て、現在は誰もがスマホで映画が撮れてしまう時代。当然、自主映画も大きく変貌している。ひとつ例をあげれば、映画学校で映画を学んだ学生たちの作品が増え、テクノロジーの発展で映像自体のクオリティは格段に上がっている。
ただ、そういった背景があっても、変わらないところもある。そのひとつといっていいのがオリジナル作品であること。
当たり前といってしまえばそれまでだが、もはやオリジナル企画の映画を探すほうが難しい現在の日本映画界において考えると、自主映画のコンペとはいえ、そういう意味でかなり異色な作品が並ぶといっていいかもしれない。
ある程度の人目に触れ、支持された物語で作られた既存の映画にはない新たな価値や視点
そこでは、すでにある程度の人目に触れ、支持された物語で作られた既存の映画にはない新たな価値や視点を持つ作品や、世に出回る映画よりもよほど絵空事とは思えない、まさに今を感じさせ、現実を突きつけるドラマに出合うことも珍しくない。今年のPFFアワード入選作品も、そんなオリジナルな輝きを放つ。
そこで、個人的に気になった作品をいくつかピックアップ。荒木啓子PFFディレクターのコメントとともに紹介したい。
実在事件と真摯に向き合った『雨のやむとき』
まずはじめに触れたいのが、現在写真館で働きながら映画作りを志しているというまだ20代前半の山口優衣監督の『雨のやむとき』。この作品は、数年前、ワイドショーでもさんざんとりあげられた少年と少女が殺害された実在事件をモチーフにしている。
ただ、本作はショッキングな事件そのものを描いているわけではない。当時、この事件のニュース報道が始まると、犯人のこともさることながら、夜に子どもを出歩かせた親やその家庭環境にも批判が集中。どこからか、憶測だけが独り歩きしてしまい、それで事件そのものが形成され、終息してしまう。最後に、なんとも言えない後味の悪さが残った。
山口監督は、そんなニュースで報じられる内容に違和感を覚えたのかもしれない。事件が起きるまでの時間の経過や子どもたちの足取り、犯人の実像といったメディアがこれでもかと根掘り葉掘り伝えていたことからこぼれおちた、どこか置き去りにされた部分に光を当てようとする。それは被害者で、もうこの世にいない子どもの声にほかならない。
夜中に出かけた少年と少女が日常や家庭の中で何を感じ、何を求めていたのか?二人は何を共有し、共に時間を過ごすことになったのか?
真相はわからない。でも、山口監督はこの少年と少女の小さな胸の内を必死に探る。自身に手繰り寄せ、どこにも居場所のない2人の気持ちを知ろうとする。そして、今は亡き2人の魂に触れようとする。
この誠実で真摯な山口監督の姿勢は、こういうショッキングな事件だからこそ、ひとりひとりがひとりよがりにならず、思いを馳せることが大切なことに気づかせてくれる。周りに流されることなく、自分の目でしっかりと社会や問題をとらえ、自分の見解を示す。その凛とした山口監督の創作の姿勢が実に頼もしい。
荒木ディレクターは本作についてこう語る。「孤独、はあらゆる表現の基底にあるものです。そこを見つめ続ける胆力を感じる静かに迫る作品ですね」
すぐ隣で何か起きているかもしれない不穏な社会に結びつく『泥濘む』
続いて、振付師・俳優として活躍する傍ら、映像作品の制作もする加藤紗希監督の『泥濘む』は、なんとも形容しがたいが、何かこちらの心をざわつかす1作だ。
ある日、海外生活を送っていた姉が家に戻ると、妹が見ず知らずの男女を住まわせている。しかも、この2人、我が物顔で居座り、居候の遠慮など微塵もない。下品な上、がさつで部屋はほとんどゴミ屋敷状態。しかし、妹は2人のいいなりで、出て行けとはいいだせない。
異様な状態と化した住居空間は徐々に狂気を帯び、しまいに最悪の事態を招く。
冷静に見ると、設定自体が突飛でまず現実ではありえないと感じるかもしれない。が、そう言い切れないと思わせるのが本作の見逃せない点。ここに登場する人物たちが繰り広げる醜悪なやりとりと、希薄とも濃密ともいえるおかしな関係は、どこか既視感を覚えるのは自分だけか。
これは深読みしすぎかもしれない。が、ある他者への好意が独り歩きして悪意に変わる瞬間、人の意見に便乗して特定の人間を標的に攻撃が始まる人間の邪悪さなどが露呈する物語は、なにかいま毎日のようにネット上で起きる俗悪なコミュニケーションを可視化したように思えてくる。そして、幼児虐待事件などが報じられるたびに痛感する、隣の家で何が起きているのかわからない不穏な社会であり、すぐそばでなにが起きても不思議ではない現代の世情とも結びつく。
また、この異質シチュエーションを成立させたのは、役者たちの演技があってこそ。各俳優たちの説得力を持つ演技もすばらしい。
荒木ディレクターは本作をこう語る。「いまおそらく私たちが薄々感じているけれども、できれば遠ざけて見ないですませておきたい、人間の部分を描いている気がします」
本気の暴走シーンに魅入る『OLD DAYS』
次に俳優つながりでというわけではないが、『OLD DAYS』の末松暢茂監督は俳優のキャリアを持つ。
本作は、かつて暴走族だった仲間3人の久々の再会と別れを描いたもの。ジャンルで言えば不良映画もので、扱う題材や登場するキャラクターに目新しさはない。
ただ、「暴走族」を徹底的に調べ上げ、とことんこだわったことが伝わってくる力作。そのこだわりがひしひしと伝わってくるのが暴走シーンにほかならない。
そのシーンは、もはやドキュメンタリー以上のリアリティとでも言おうか。気づけば、手に汗をかいているような、これほどまで臨場感あふれる暴走シーンは、そうはお目にかかれない。それぐらい本気度を感じさせる名シーンになっている。
荒木ディレクターは「末松監督は、日本の伝統や文化をテーマに作品を作り続けているそう。前作はマタギについての映画だったそうです。いずれも現地に入って、実際に生活していろいろなキーパーソンとコネクションを作って、リサーチして作品を作っている。その確かな取材が作品の力になっていると思います」と明かす。
自転車版『クリスティーン』か?『自転車は秋の底』
次に、逵真平監督の『自転車は秋の底』は、鬼才、ジョン・カーペンター監督にオマージュを捧ぐ1作か。傑作『クリスティーン』の自転車版ともいうべき作品で、魂の宿った自転車にひとりの若者がひたすら追い回される恐怖を描く。
もうみてもらうほかないのだが、自転車の怪演に魅入ること必至。自転車がほんとうに自らの意志をもって行動しているようにみえるほど、ほぼ人間化している。
これは自転車を操演したスタッフの努力の賜物。そのマンパワーを感じてほしい。
荒木ディレクターは「えええええええ。と心で叫ぶような、自主映画ならでは?みたいなアイデアとセンス。嬉しくなりますよ」と語る。
限りなく個人的ながら私たちの物語にも思える『温泉旅行記(霧島・黒川・嬉野)』
最後に、佐藤奏太監督の『温泉旅行記(霧島・黒川・嬉野)』は、自身の新婚旅行を日記のように記録したもの。車窓からの風景、旅館の食事、足を運んだ観光名所など、1つ1つの映像は、通常ならばホームビデオの域を出ない。それこそ紀行番組で押さえられたような映像で、ドキュメンタリーならではの予想外の瞬間を収めた映像もない。
ところが、佐藤監督の独特の言葉選びと情景描写によるモノローグと、独特の編集のテンポが合わさったとき、新妻と、その結婚式を待ち侘びながら、出席が叶わなかった亡き祖母へのとてつもない「愛情」を帯びた映像へと昇華する。それを感じた瞬間に、つげ義春の私小説ではないが、こちらもいいようのないノスタルジーとたそがれに包まれる。
ヒューマン・ドキュメンタリーとも、セルフ・ドキュメンタリーともちょっと違う。ドキュメンタリーの新たな領域に踏み込んだような感触の残る作品になっている。
荒木ディレクターは「映像と音と言葉と編集で映画が生まれてくるんだ!という喜びが湧く作品です。佐藤監督の奥さまがすばらしいので注目してください(笑)」とコメントを寄せる。
そのほか『くじらの湯』『何度でも忘れよう』というアニメーション作品、強烈なスーパーヒロインが出現する『スーパーミキンコリニスタ』、人を刺してしまった男と恋人にゾンビにさせられた女性の逃避行を描いた『ビューティフル、グッバイ』など多様な作品が顔を揃える。
明日12日(木)からアワード各作品の2度目の上映がスタートする。未知の可能性を秘めた映画と出合ってほしい。
<第41回ぴあフィルムフェスティバル>
【会期】9/21(土)まで ※月曜休館
【会場】国立フィルムアーカイブ
【公式サイト】https://pff.jp/
すべての写真提供:ぴあフィルムフェスティバル