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世界戦10KO! 内山高志が世界屈指のハードパンチャーになれたその理由

宮崎正博ボクシングライター/スポーツコラムニスト/編集者
現役時代は圧倒的なハードパンチを誇った(筆者撮影)

 ノックアウト・ダイナマイト! 大げさなキャッチフレーズではない。元WBA世界スーパーフェザー級チャンピオン、内山高志(44歳)のパンチは事実、ケタ外れだったのだ。スリムでしなやかな体から打ち込む右ストレート、美しい円を描いて急所をえぐる左フック、いずれも一撃KOを生み出せた。現役を退いて7年、今はフィットネス・ボクシングジムを経営する内山は、自身の拳に宿る破壊力は生まれながらのものではないと言う。日常の練習でエキスを積み上げた結果だ、と。(文中敬称略)

一撃パンチで決めた痛快フィニッシュの数々

「世界戦のKO勝ちは、ほぼ1度のダウンで終わらせているんです。立ち上がってきた相手に連打を浴びせてレフェリーストップという勝ち方は最初の1回だけですね」

 内山に言われてみて、すっかり思い出した。2010年1月、不敗の強打者ファン・カルロス・サルガド(メキシコ)に試合終了まで残り12秒のところでTKO勝ち。30歳にして初めて世界チャンピオンになったときだけが、ワンパンチでKO劇を仕上げられなかった。内山の世界戦でKO・TKOがクレジットされた10の勝利のうち、相手の途中棄権によるものが2つ、連打によるTKOがこのサルガド戦の1つ、そして残る7度は一撃で戦いを終わらせている。ダウンを奪った時点でダメージを心配したレフェリーがカウントを数えなかったり、数えるのを途中でやめたりして記録上はTKO勝ちになったものも含め、この7つの“ノックアウト”の光景はいずれもすさまじい。

 2度目の防衛戦(10年9月)、右パンチを効かせてからの左フックでとどめを刺したロイ・ムクリス(インドネシア)は頬骨の骨折で病院に直行した。V4戦(11年12月)では、WBA暫定王者ホルヘ・ソリス(メキシコ)を左フックのボディブローで追い立て、最後は顔面へ打ち込んだ同じパンチで完全失神させた。ソリスは帰国後、「ボクシングは危険なスポーツだ」と言い残して引退した。

「ズブリとめり込んだ感じ」と内山が表現した左のボディショットを食らったハイデル・パーラ(ベネズエラ)は腹を抱えたままキャンバスの上を転げ回った(7度目防衛戦、13年5月)。10度目防衛戦ではその時点でラジャダムナンの3階級制覇を達成していたムエタイのスーパースター、ジョムトーン・チューワッタナ(ストライカージム=タイ)をわずか2ラウンド、痛烈なワンツーで大の字にさせた。ジョムトーンはその後、2度と国際式ボクシングのリングに立ってはいない。

 内山は最初からKOを狙って、拳を振り回すというタイプではなかった。ジャブで距離を測り、さらにワンツーで追い込みながら、『ここ!』と確信したときに絶対的な破壊力を有する右ストレート、アッパーカット、左フックを打ち込む。すべてのノックアウトをそうやって生みだしてきた。

「KOできたときは気持ちいいですよ。見てくれている観客の人たちも同じじゃないですか。(完全な勝利の形によって)自分の評価も上げられます」

大学に入るころまでは取り柄が乏しかった

 ノックアウト・ダイナマイトは、だが、生まれながらのハードパンチャーではなかった。埼玉県の花咲徳栄高校から拓殖大学とアマチュアボクシングの王道を歩みながら、最初は取り柄の乏しいボクサーだったという。

「大学に行ってからは、全日本チャンピオンの先輩がいっぱいいて、同学年でも高校の全国大会優勝、上位入賞者ばかり。自分は実績もないし、下っ端の下っ端でした」

 ジムでの居場所は限られた。スペースを自在に使えるのは“スター軍団”の面々。内山は空いているサンドバッグを渡り歩いた。そのころの目標は有力大学がチームとなって総当たり戦を行う大学リーグ戦に出場だ。その後の成功に比べると、いかにもささやかな願望ながら、リーグ戦出場を叶えるためには目の前のバッグをひたすら殴り続けるしかなかった。

「毎日毎日、無我夢中で殴りましたね。右ストレートだけをガン!ガン! と」

 そうやっているうちに、バッグにめり込む拳の感触が違ってきた。背中や肩の筋肉が盛り上がってくるのも感じた。体の厚みも増してくる。スパーリングで何もさせてもらえなかった先輩たちに、半年後には勝てるようになってきた。

「サンドバッグを打っているうちに、強いパンチを生む筋肉が養成されたんですね。それに、どういうタイミング、距離で打てば、より強くたたけるのか。それも体得できたのだと思います」

 距離を取ってストレートパンチを軸に戦いを組み立てるアウトボクサー、内山に一撃必倒のハードパンチが加わり、戦力は飛躍的に向上した。大学でアマチュアのトップに立ち、卒業後も全日本選手権、国体で活躍した。

左ボディブローでパーラを悶絶
左ボディブローでパーラを悶絶写真:ロイター/アフロ

名トレーナーとの出会いでさらに成長

 与えられた環境の中で辛抱強く努力を積み重ねることで、眠っていた才能を揺り起こしていった。だが、2004年、アテネ五輪代表を目指して戦ったアジア予選で敗れたころ、「ここ1年くらい成長していないな」と感じて、ボクシングから身を引いた。会社員になって半年あまり、「会社に行って、飲みに行く」日常に飽きたらなくなった。

「プロの小さなグローブで殴り合う根性なんて、自分にはないと思っていましたからね。でも、試合とか見ていっていると、やっぱり、うずいてきて」

 東京・五反田にあるワタナベジムに入門し、そこでの出会いが、内山にさらなる覚醒を呼び出すことになる。最初のトレーナーとなった洪東植がその人だった。韓国のトップアマチュアから指導者に転じて来日した洪東植は、現役時代、猛烈なファイターだった。前進を重ね、至近距離からの連打で押しまくる。内山のボクシングとは対極のスタイルだ。だが、水と油であるはずの理論が、思いがけない化学反応を起こす。

「試合を見ながら話していても、(洪東植の)見方がおもしろいんです。こういうふうに観察して、それぞれのやり方を読んでいくのか、と。自分にはない考え方ばかりで」

 スタイルの違い、立場の違いをきちんと理解できれば、より深い発想からの対処が可能になる。正しいと信じるものがあるのは自分だけではない。ライバルたちにもある。ファイターという違うアプローチで「打ち勝つ」ことを目指してきた洪東植から学び、内山は自身の戦いの幅を広げていった。独りよがりではなく、ときには正反対の意見でも耳を傾ける。そうすれば、よりたやすく新思考のピースは見つかる。洪東植はやがてジムを離れるが、ふたりで育てた技術作りの基本を、内山は忘れることはなかった。

 拳の故障で得意の右パンチが使えないまま、1年近いブランクを2度も作ったのだが、苦境のさなかに左パンチを徹底して鍛え上げ、その左を上手に活かすことで新しい境地を見つけ出した。内山はそうして世界の頂上に君臨し続ける。

“見えないパンチ”にこそ最大の威力がある

「パンチ力の秘密? 分からないですよ。逆にパンチのない人に聞きたい。本気で打ってんの? と。どうやって強く打てるのか、自分でしか発見できません。ここで打てば強いパンチになる。そのためにどう動くのか。動きと打撃が一致する“点”を自分の感覚でつかむ。それしかないですね」

 進歩を目指すには、まずは自分自身で何ができるのか、と考えること。それから、さまざまな発想と向き合ってみる。正解の“一点”を読み取れても、アイデアを重ねて感性に厚みをつけていかなければ欲しいものは手に入らない。内山は自身の中で何度も能力の限界値に直面してきた。だが、傍らにあるヒントを見逃さず、そこから得た着想を梯子にして乗り越えた。強打の極意も、そういう“やりとり”の中から探し出した。

「倒せるパンチというのは相手に見えないパンチです。見えていなければ、自分も中学生にだって倒されてしまう。“見えない”というのは“読めない”と同じ。つまり、フェイント、対戦者を惑わせることが大事です」

 もちろん、そればかりでボクシングは成り立っているわけではない。ただ、ジャブやワンツーで距離を作り、流れも引き寄せてからなら、だましのテクニックを呼び水に素晴らしいハードショットを生み出せる。

 内山がプロのリングで記録したKO勝ちは全部で20(24勝)。アマチュアではプロのTKO勝ちにあたるRSC勝ちを含めて59人もの対戦者を倒している。まさにKOの達人である。その内山に聞いてみた。人生最高の試合はどの試合ですか。

「うーん、何でしょう。自分的には9度目の防衛戦かな(イスラエル・ペレス=アルゼンチン/9ラウンド棄権TKO勝ち)。ダウンは奪えなかったけど、何もさせずに心を折ったんで」

 完全無欠な戦いこそがベスト。KOはその上に飾られる記録に過ぎない。ボクシングの深みを知り、初めて真実のKOアーチストは生まれる。その当事者である内山のこの答えはどこまでも重い。

ボクシングライター/スポーツコラムニスト/編集者

山口県出身。少年期からの熱烈なボクシングファン。日本エディタースクールに学んだ後、1984年にベースボール・マガジン社入社、待望のボクシング・マガジン編集部に配属される。1996年にフリーに転じ、ボクシングはもとより、バドミントン、ボウリング、アイスホッケー、柔道などで人物中心の連載を持ったほか、野球、サッカー、格闘技、夏冬のオリンピック競技とさまざまスポーツ・ジャンルで取材、執筆。2005年、嘱託としてボクシング・マガジンに復帰。編集長を経て17年、再びフリーに。

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