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井上尚弥、拳の負傷は偉大さの証。2ヵ月延期も新伝説に影響なし

宮崎正博ボクシングライター/スポーツコラムニスト/編集者
写真:山口裕朗 Hiroaki Yamaguchi

 井上尚弥(大橋)が5月7日、横浜アリーナで予定していたWBC・WBO世界スーパーバンタム級チャンピオン、スティーブン・フルトン(アメリカ)との一戦が、拳の負傷のために延期になった。大橋秀行会長の発表によれば、軽傷で2ヵ月ほどの先延ばしですむという。残念な発表だったのはたしかでも、井上のもっと豊かな未来を信じたいのなら、もっとも正しい判断だった。4階級制覇の偉業を負傷とも戦った男のヒューマンストーリーとしてみたいのか、それとも、現役世界最強とも呼ばれるボクサーの最高のパフォーマンスとともに栄冠を見届けたいか。答えは後者に決まっている。(文中敬称略)

強敵ナルバエスを破った一戦で最初の負傷

 井上尚弥にとって拳の負傷は今回が初めてではない。2014年12月30日、WBO世界スーパーフライ級王座を獲得し、WBCライトフライ級に続き、2階級目の世界タイトルを手に入れた試合で右手甲部を脱臼した。WBOフライ級王者時代から世界戦通算29勝1敗、プロ・アマ通じて150戦以上戦って1度もダウンしたことのない技巧派チャンピオン、オマール・ナルバエス(アルゼンチン)をわずか2ラウンドで血祭りにあげるための代償だった。試合開始ゴングから25秒、ファーストヒットとなる額に打ち込んだ右ストレートが原因だ。とくに急所とされていない箇所に打ち込んだこの一撃でふらついたナルバエスを、同じ右のパンチで追撃して最初のダウンを奪っている。それが信じられない強打のワンマンショーの始まりだった。

 天下一品の守備力を誇った名チャンピオンから奪ったダウンは合計4つ。井上は最後は左ボディショットで、ナルバエスの戦力、プライドもろともに奪い取ってのKO勝ち。あまりのセンセーショナルな勝ちっぷりに、アメリカでは早朝のネット放送だったのにもかかわらず、SNSは沸き立った。もし、アクティブな活動を続行していれば、世界的なブレイクはあのときから始まっていたかもしれない。

 だが、井上とその陣営はそうしなかった。将来を考えてのことだ。脱臼部位は中手骨、指関節と手首をつなぐ細く長い関節部で、放っておけば慢性化する可能性もあった。井上は手術を選ぶ。そのために1年間、ブランクを作った。さらにその後のもう1年間も我慢の年だった。ナルバエス戦からちょうど365日目、2015年12月29日に行った再起戦兼初防衛戦では相手ガードの上からのパンチでなぎ倒したが、それに続く2戦は圧勝ながらもどこか精彩を欠いて見えた。

 あのころ、大橋ジムでの練習後、巨大なサンドバッグに右拳を押し当てながら、ナックルパート、つまり拳を握って平らになる第2関節、第3関節の部位を確認していた井上の姿を思い出す。正しいフォームで打ち込んだパンチが、そこに正しくヒットしていれば、拳が損傷する可能性は低くなる。以前に増して正確なヒットに心を砕くようになった。さらにグローブの中の拳を守るバンテージも、外部からのスタッフを呼び寄せて工夫を重ねた。そして豪打の完全復活へとつなげる。

強打の宿命とも戦った名選手たち

 拳の負傷はハードパンチャーの宿命である。最近でも1月28日、アメリカ・ネバダ州ラスベガスで開催予定だった4団体統一世界スーパーウェルター級タイトルマッチが、チャンピオンのジャーメル・チャーロ(アメリカ)が練習中に右の拳を骨折したとして中止になっている。ボディに打ち込んだ左ジャブ一撃でKO勝ちを飾るなど、最近、とみにハードパンチが光るチャーロが、偉大なスーパーチャンプ、コスタヤ・ジュー(ロシア)を父に持つティム・ジュー(オーストラリア)の挑戦を受ける注目の一戦だったが仕方ない。ジューは3月12日、暫定王座決定戦でTKO勝ちしてWBO暫定王者になったが、チャーロも帰ってくる。あらためての対戦も大きく盛り上がるはずだ。

 日本でも拳の負傷を克服して、世界のトップに君臨した選手は何人もいる。

 WBC世界スーパーライト級チャンピオンの浜田剛史(帝拳)は高校チャンピオンからプロに転向して11戦をこなしたところで利き腕の左拳を骨折した。手術を受け、練習を再開するたびに同じ箇所の骨折を繰り返し、2年ものブランクを作っている。琉球武士そのままの風貌、剛毅なファイトスタイルが人気を集めた矢先の空白。辛抱強く、活動再開を待ち続けたファンは、やがて15連続KO勝ちの日本新記録樹立と、ワンラウンドKO勝ちによる劇的な世界王座奪取劇の目撃者となることができた。

 WBA世界スーパーフェザー級スーパーチャンピオンの内山高志(ワタナベ)もその切り札となる右拳の負傷に苦しみながら10度防衛の大記録を作り上げた。2011年11月、3度目の防衛戦で三浦隆司(横浜光/後に帝拳)と戦う直前に、井上がナルバエス戦で負った同じ箇所を脱臼した。激痛が走る右手が使えないまま試合に臨み、さらに三浦の強打にダウンを喫しながらも、強烈な左ジャブをベースに戦いをコントロールし続けた。三浦の右目は腫れ上がり、視力を失って8ラウンド終了後に棄権した。内山は三浦戦以前から右手に不調を抱えており、その痛みと折り合いをつけながらのチャンピオン生活だったと後に明かしている。

 古い話をするなら、毎晩のようにテレビ・ボクシングがあった昭和30年代、ボクシング人気全盛期のスーパースター、海老原博幸(金平=協栄)も自らの拳と戦いながら2度の世界フライ級王座獲得の偉業にたどり着いている。サウスポーの海老原はカミソリと呼ばれた切れ味抜群のパンチと引き換えに7度もの拳の骨折を経験することになる。

“永遠の勝者”になるために

 井上に、あるいはその陣営にとっても今回の延期の判断は厳しいものだったに違いない。コストや会場確保などの興行面もむろんながら、戦う本人も調整工程を根本から考え直さなければならない。ただ、それも永遠の勝者になるための試練と考えたい。負傷の程度も骨に損傷があるわけではなく、しばらく時間をおけば、自然治癒が十分に可能な程度だという。

 だとすれば、新階級へチャレンジという新しいフェイズに入った井上にとって、準備期間の追加に過ぎない。故障については決して軽々には言えないが、フルトン戦が終わり、さらに4団体統一を果たすまでの物語のサブタイトルにもなる。しかも、たった2ヵ月の待ちぼうけに過ぎないのだ。

 井上は4月で30代に突入するが、年齢は何ら問題ではない。パウンド・フォー・パウンド最強を争うテレンス・クロフォード(アメリカ=WBOウェルター級チャンピオン)は35歳。世界最大の集客能力を持つサウル・“カネロ”・アルバレス(メキシコ=スーパーミドル級統一チャンピオン)が32歳。希有な集中力と技巧で巨人狩りを続けるオレクサンドル・ウシク(ウクライナ=ヘビー級3団体チャンピオン)は36歳。18戦オールKO勝ちと現役唯一のパーフェクトレコードを誇る世界王者アルトゥール・ベテルビエフ(カナダ=ライトヘビー級3団体チャンピオン)にいたっては38歳。いずれも衰えの兆候は見えないままだ。いまどき、ボクサーの花盛りは三十路の半ばなのである。

 30は花のころなら五分咲き。井上尚弥主役の戦いのドラマは、ほんのわずかな休息の後にリ・スタートを切る。正直なところ、いささかの不安を含みながらも、やっぱり7月が待ちきれない。

ボクシングライター/スポーツコラムニスト/編集者

山口県出身。少年期からの熱烈なボクシングファン。日本エディタースクールに学んだ後、1984年にベースボール・マガジン社入社、待望のボクシング・マガジン編集部に配属される。1996年にフリーに転じ、ボクシングはもとより、バドミントン、ボウリング、アイスホッケー、柔道などで人物中心の連載を持ったほか、野球、サッカー、格闘技、夏冬のオリンピック競技とさまざまスポーツ・ジャンルで取材、執筆。2005年、嘱託としてボクシング・マガジンに復帰。編集長を経て17年、再びフリーに。

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