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長谷川穂積は諦めなかった。『初心』をふり返りながら苦悩に立ち向かう

宮崎正博ボクシングライター/スポーツコラムニスト/編集者
13ヵ月目の再起戦。長谷川の快勝も本調子には見えず(写真:中井幹雄/アフロ)

 2014年4月、IBF(国際ボクシング連盟)世界スーパーバンタム級タイトルマッチで、キコ・マルチネスに惨敗を喫し、長谷川穂積を取り巻く環境はいよいよ厳しくなった。マルチネスとの戦いには、全盛期の面影がまったくなかったからだ。

 かつて長谷川にあったもの。ベストのタイミングで打ち込むナチュラルな強打。チャンスとみると、まさしく疾風怒涛の連打で切り込んでいく。そんな華やかなフィニッシュの瞬間ばかりでなく、コンビネーションブローの一つひとつ、ステップワークの一歩一歩にも、戦いの野性が宿っていた。

 33歳の長谷川に、それは何ひとつ見えなかった。なおかつ、魅惑の世界チャンピオンとして、長く日本ボクシング界の顔となって、先頭に立ってきた偉大なボクサーなのである。正直に明かすなら、あのころの長谷川を取材するとき、晩節を汚してほしくないという思いを、心のどこかに潜めて対話に臨んでいたような気がする。

 長谷川ならずとも、多くのボクサーはなかなか引退したがらない。どこまでも自分の可能性を信じたい。そんな彼らに格闘家としての純潔は信じるが、ボクシングというスポーツは、肉体にかかる負担があまりに大きい。結果が出ていればまだしも、そうでないのなら、やみくもに熱情とともに走るべきではない。将来のためにも、厳しい成績が続くのなら、身を引くことも選択肢に加えるべきだと私は思う。

 だが、長谷川はやめる気さえなかった。世界タイトルマッチに勝てなくなった元チャンピオンという立ち位置に納得できなかった。やめるときは、もう一度、自分の力の在りかを知らしめてからだ、と考えていたからに違いない。それは同時に、対戦者ばかりでなく、世評、さらに自分自身に立ち向かうことになる。

一度は投げ出した父親のかけた夢

 長谷川は自分のボクシングの原点を探していた。

「やりたいのは、おとん(父)から教わったボクシング。”おとん”の教えが正しかったことを証明したい」

 2011年、ジョニー・ゴンサレス(メキシコ)に敗れ、WBC(世界ボクシング評議会)世界フェザー級タイトルを失った前後から、長谷川は再三、そう言うようになった。

 2010年11月、不敗のファン・カルロス・ブルゴス(メキシコ)を破り、飛び級での2階級制覇を達成したが、その1ヵ月前に、55歳の母・裕美子さんが他界していた。若すぎる母の死を受け入れがたく、思いは父母、兄弟との家族の記憶に向かっていた。

 父の長谷川大二郎氏は元ボクサーだった。病気のために4回戦で大成をあきらめたが、自らが果たせなかった夢を息子に託した時期がある。穂積が小学生のころ、自宅の一部を改装し、ボクシングの練習場を作った。「打たせずに打つ」をモットーにする父の指導は厳しかった。朝の走り込み。夕方のジムワーク。やらせるからには手を抜かない。

 長谷川は、だが、あっさりと投げ出している。実家のあった西脇市は、大都市・神戸を抱える兵庫県とは言え、山間の中央部にある。テレビでの実況はあっても、じかにボクシングの熱気を感じることはまずない。自分自身には縁遠い絵空事に映っていたとしても仕方ない。さらに、父との対面で取り組む練習漬けの日々は子供心にははっきりと孤独だった。遊びたい盛りだ。友だちと山や川を駆けまわっているほうがずっと楽しいに決まっている。中学校に進み、長谷川は卓球部に入り、そのボクシングは自然消滅していった。

 父親の夢に背いてしまった。長谷川にはずっと後ろめたさがあったのだろう。高校を1年で中退し、家を出て神戸に住むようになった。そのとき、父には「神戸でボクシングをやりたいから」と言い残している。

『心』を伴わない戦いは許されない

「打たせずに打つ」

 長谷川ならずとも、ボクシング・テクニックは唯一無二の真理である。確かにそのキャリア全盛期、この大チャンピオンの戦いは、守るべき基本ラインからはみ出した戦法をとっていたのかもしれない。

 大きくタイミングをずらしたり、大胆なドローイングバック、つまりわざとスキを作り、対戦者を打ち気に逸らせて、カウンターパンチを奪う。圧倒的なスピードと、反応の鋭さがあって初めてできる高等技術だが、一方でスリルも大盤振る舞い。危険と常に隣り合わせの戦いだ。だからこそ、長谷川のボクシングは人気を呼んだ。

 フェルナンド・モンティエル、ゴンサレス、さらにマルチネスと痛恨に過ぎる敗北を重ねながら、父親直伝のボクシングを思い出したのだろうか。その戦いの軌跡をたどる限り、技術的な部分で、どの時点で何が変わったかとはなにひとつ断定することはできない。

 ただ、マルチネス戦を終え、長いブランクを作った後、「”おとん“のボクシング」に代わって、長谷川が常に口にするようになったのは、こんな言葉だ。

「心と体が一致すれば、オレはだれにも負けません」

 父の教えを思い出し、練り上げて、存分に自分の中に取り入れた。あとは、自分の心。きっかりと固めた輪郭の中に魂を入れ込むだけ。長谷川はひとつの境地に達していた。

 目的を果たした虚脱感と東日本大震災に心が揺らいだまま戦い、敗れた。初めて経験するIBFの体重制限のルールに慌てふためき、集中力を失って、また敗れた。かつての絶対王者としてのプライドもある。そして、3度目は『心』を伴わない戦いはもう許されない。

再起、連勝もフィナーレの足音は聞こえず

 キャリア終盤の戦い、長谷川の戦い方には子供のころにたたき込まれた原点への回帰はあったのかもしれない。ただ、何かが物足らなかった。なにより野生の輝きというべきものが見当たらなかった。

 報道者としての第三者的な立場は決して崩したつもりはない。それでも私は熱心な長谷川のファンでもあった。だから、よけいにその試合はハラハラしどおしだった。

 2015年5月9日、長谷川はマルチネス戦後、1年以上の間隔を置いて、リングに復帰した。神戸市中央体育館で対戦したのは25歳のオラシオ・ガルシア(メキシコ)。29戦全勝21KO勝ちという戦績どおりの豪壮なハードパンチャーだった。再起戦としては危険なマッチメイクかもしれないが、「もう一度、世界に」と急ぐ34歳には、うってつけの相手でもあった。

 長谷川はボディワークを駆使し、ガルシアの単調な攻め口を暴いた。クリーンヒットを積み重ね、危なげなく大差判定で勝利する。無難な勝利。若きKOパンチャーを上手に料理しても、それ以上の感想はなかった。

 同じ年の暮れ。12月11日にはカルロス・ルイス(メキシコ)と対戦した。22歳と若いが、典型的なカウンターパンチャーで、しぶとく食い下がってくる。ただし、長谷川のキャリアがあれば、軽くいなしてくれるはず。ガルシア戦以上の楽勝を予想した。だが、これが思いがけない展開になる。

 3ラウンド、5ラウンドと右ストレートをまともに食らって、長谷川はダウンを喫してしまった。鼻血を流しながら叩く姿は悽愴でもあったが、ダウンの瞬間以外は、伸びのいい左ストレートを軸にルイスを支配し、からくも判定勝ちを収めた。 

 このルイス戦。長谷川は世界前哨戦として戦っていた。

「2度のダウンも右ジャブを何気なく出すクセをつかれて、パンチを合わせられただけ。あとのラウンドは全部、僕の勝ちでしょう。問題ありません」

 長谷川の言葉にも、不安が晴れることはなかった。フィナーレへの万雷のカーテンコールはまだ聞こえてこない。

ボクシングライター/スポーツコラムニスト/編集者

山口県出身。少年期からの熱烈なボクシングファン。日本エディタースクールに学んだ後、1984年にベースボール・マガジン社入社、待望のボクシング・マガジン編集部に配属される。1996年にフリーに転じ、ボクシングはもとより、バドミントン、ボウリング、アイスホッケー、柔道などで人物中心の連載を持ったほか、野球、サッカー、格闘技、夏冬のオリンピック競技とさまざまスポーツ・ジャンルで取材、執筆。2005年、嘱託としてボクシング・マガジンに復帰。編集長を経て17年、再びフリーに。

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