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阪神・淡路大震災以降、数々の災害を体験した元兵庫県職員が訴える「死なないための努力」

南文枝ぐるぐるフリーライター/防災士/元毎日新聞記者
能登半島地震で通行止めとなった道路(石川県七尾市で2024年1月6日撮影)

 2024年1月1日に能登半島地震が発生。自然災害だけではなく、新型コロナウイルス感染症や大事故など、毎年のように予期せぬ事態が起こる中、「明日は我が身」ととらえて対策するにはどうすればよいのか。1995年の阪神・淡路大震災をきっかけに防災・減災に取り組む元兵庫県庁職員で日本防災士会理事の田中健一さん(64)は、危機管理のポイントとして「災害を知り、己を知ること」を挙げる。

 阪神・淡路大震災から29年となった2024年1月17日。田中さんは今年も神戸市中央区の東遊園地で開かれる追悼行事「阪神淡路大震災1.17のつどい」に参加した。兵庫県庁では財政などを担当していたが、震災の2年後に防災局へ異動。2023年2月に退職してからも、東京大学生産技術研究所リサーチフェローなどとして各地を回り、命を守るための行動を訴え続けている。田中さんは言う。「震災さえなければ、こんなことをしていなかった」

加古川コープ委員会の防災学習会で講演する田中さん(兵庫県加古川市で)
加古川コープ委員会の防災学習会で講演する田中さん(兵庫県加古川市で)

 阪神・淡路大震災では、多くの人が九死に一生を得るような体験をした。田中さんもその1人だ。当時は、神戸・六甲アイランドの15階建てマンションの8階に住んでいた。インフルエンザにかかり、普段家族が寝ている寝室とは別の部屋に隔離されていた。生後9カ月の子どももインフルエンザとなり、寝室ではなく、妻と一緒にリビングで寝ていた。

 午前5時46分に大きな揺れが来た。田中さんのそばにあった本棚が、がたっと浮いた。とっさに窓際に逃げてカーテンを開けると、街の明かりが神戸方向から大阪方向に向けて消えた。その瞬間に地鳴りがして、マンションの壁が曲がった。「マンションが折れる」。自分を目がけて本棚が飛んできた。

 リビングで寝ていた妻子は、ダイニングテーブルとソファと電話台の間で寝ていたことが幸いした。倒れた食器棚からダイニングテーブルが、3メートル飛んだテレビからはソファが守ってくれたのだ。寝室のベッドには、大きな洋服ダンスが倒れていた。「ここにいたら即死だった」。当たり前に続くと思っていた日常は、非日常に変わった。そこから、防災・減災を強く志すようになったという。

「過去の経験と教訓が生かしきれていない」

 田中さんは当時、兵庫県地方課に所属。震災後は伊勢湾台風(1959年)の際の資料を引っ張り出して調べ、自治体への財政支援に携わった。1997年に防災局に異動してからは、地域の自主防災組織づくりや防災学習施設「人と防災未来センター」(神戸市)の創設に関わった。2011年からは兵庫県広域防災センター(三木市)の防災教育専門員として、防災士など災害や危機の時に地域で役に立つ人材の育成に取り組んだ(関連記事:「ひょうご防災リーダー講座」を受講して感じた、コロナ禍での避難所運営の難しさ)。

 この間にも、2005年のJR福知山線脱線事故、2009年の新型インフルエンザの流行(神戸市内で国内初の感染発生)、2011年の東日本大震災、2016年の熊本地震、2018年の西日本豪雨、2020年以降の新型コロナウイルス感染拡大など、県内外で予期せぬ事態は起こり続けた。田中さんは県職員としてこうした事態に対応する一方、可能な限り被災地に足を運び、自分の目で現地を見てきた。

 今回の能登半島地震では1月中旬までに2度、東京大学生産技術研究所リサーチフェローの立場で石川県輪島市や珠洲市など被災地を回った。全国から自治体職員や専門家、NPOなど多くの人たちが支援に入っているが、避難所などでの人繰りがうまくいかない、必要な物資が必要な人の元へと届かないなど、「過去の経験と教訓が生かしきれていない」と感じることもあったという。

能登半島地震で崩れた建物(石川県七尾市で2024年1月4日撮影)
能登半島地震で崩れた建物(石川県七尾市で2024年1月4日撮影)

「向こう3軒両隣」の範囲で考える

 数々の災害や事故、危機に直面した田中さんが、危機管理の3要素として挙げるのは「イメージ・マネージ・スピーディー」だ。1月17日の追悼行事に参加した後は、生活協同組合コープこうべの組合員らが地域活動に取り組む加古川コープ委員会の防災学習会で講師を務め、参加者にこう語りかけた。

「(災害や危機が)自分たちの身に降りかかってこなかったら、『ここは安全』『うちは大丈夫』と思ってしまう。だから、災害をイメージして危機意識を持つ。危機意識を持つと、どうやって避難所に行くのか、避難所でどう過ごすのかという命を守るためのマネジメントができます。スピーディーに対応するためにはどうすればよいかを考えられます」

 例えば近所に一人暮らしのお年寄りがいる場合。普段は福祉サービスを利用していても、本当の災害時に来てもらうのは難しい。「連れて逃げられるのも2人ぐらいが精いっぱい」と田中さん。「向こう3軒両隣」ぐらいの範囲で考えるのが大切だという。

 田中さんは続ける。「全てのことを、できるだけ想定内に収めておく。地震で揺れた瞬間は、絶対パニックになる。けれど、次はどういうふうになるかを考えておけば、想定内にしておけば、心の持ちようが違います」

 ポイントは「災害を知り、己を知ること」。「災害を知る」とは、自分が生活しているエリアで、過去にどのようなことがあったのか、今後どのようなことが起こりうるのかを知ることだ。そして大事なのは「己を知ること」。「29年前なら自分の命を自分で守れた人も、今は無理かもしれない。人間も建物も経年劣化します。さまざまなリスクが高まる中、それに応じて対策を立てておく」

イメージトレーニングが、身を守る第一歩

 政府の地震調査委員会の資料によると、2024年1月1日時点で今後、静岡県から九州沖合にかけての南海トラフ沿いで、マグニチュード8~9級の巨大地震が40年以内に起こる確率は「90%程度」。田中さんは「とにかく自分の命を守ること」を訴える。「災害が起こったとしても、人が亡くならないことが復興を早める。どんなことがあっても命をどうやって守るかということに尽きる」

「イメージトレーニングが、自分の身を守る第一歩。誰でも簡単にできます。自分が置かれている状況をしっかりと捉え、何をすれば良いかを考えてほしい。生き残ってからのことを考えるよりも、死なないための努力です。そうすれば家や家具の状況も確認するし、必要なものも備えられる」

田中さんの呼びかけに、参加者らは真剣に耳を傾けた(兵庫県加古川市で)
田中さんの呼びかけに、参加者らは真剣に耳を傾けた(兵庫県加古川市で)

 防災学習会に参加した兵庫県加古川市の50代女性は、阪神・淡路大震災当時、神戸市の会社に勤めていた。当時も加古川に住んでいたが、神戸の友人宅に泊まった翌日に被災。その日は一度出勤し、会社の人たちと歩いて加古川まで帰った。地震の揺れの怖さは、29年経った現在でも忘れられない。「寝室にはなるべく物を置かず、ベッドの下には(いざという時に逃げるために)新しいスニーカーを置いています。火災で燃えないように、お菓子の缶の中にキャッシュカードを入れている」。自分のできる範囲で、災害に備える。

 危機に直面した時、まずは自分を、そして大切な人やペットの命を守るためにどう行動し、備えていくか。考えておくことは、決して無駄にはならない。

※写真は筆者撮影

令和6年(2024年)能登半島地震に係る災害義援金の受付について(石川県のホームページ)

ぐるぐるフリーライター/防災士/元毎日新聞記者

1979年、石川県生まれ。同志社大学経済学部卒業後、北國新聞記者や毎日新聞記者、IT企業広報を経て、2013年からフリーライターとして書籍や雑誌、インターネットメディアなどで執筆。現在は兵庫県小野市在住。これまで当ページやニュースサイト「AERAdot.(アエラドット)」などで大阪、神戸、四国の行政や企業、地元の話題など「地方発」の記事を執筆。最近は医療関係者向けウェブメディア「m3.com(エムスリーコム)」で地域医療の話題にも取り組む。地方で面白いことをしている人に興味があります。

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