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地図に見る昆布の歴史。産地は北海道、食文化は京都・大阪。沖縄に伝えたのは一人消費量No.1の富山の謎

松浦達也編集者、ライター、フードアクティビスト
筆者撮影

日本食の柱となる素材をひとつ答えよ。そんな問題を出されたら「ありすぎる!」としか回答できない気もしますが、いま聞かれたら「昆布」と答える気がします。

昆布なしには出汁を柱とした日本の料理の隆盛はなかったでしょうし、日本が世界に冠たるうま味調味料、「味の素」ももともとは昆布から抽出されていました。
うま味の骨格となるグルタミン酸ナトリウムは他の食材の味わいを底上げし、イノシン酸の鰹節と合わせれば感じるうま味は7~8倍にも膨れ上がります。日本食にとって、昆布は欠くことのできない食材です。

もっともこれが「昆布の”本場”はどこ?」という質問となると、こちらは”本場”を定義していない時点で難問どころかもはや悪問です。

代表的な産地といえば北海道ですが、昆布だしを使った食文化の本場といえば、京都・大阪。一方、一人あたりの昆布消費量となると富山ですし、昆布を使った郷土料理が印象的な沖縄に、昆布食文化をもたらしたのも実は富山だったりもします。昆布食文化の歴史には、日本列島を縦断する壮大な物語が織り込まれています。

内地における昆布食の歴史は1300年以上

昆布についての古い記録は『続日本紀』(797年)に「霊亀元(715)年10月、蝦夷の酋長が朝廷に対して先祖以来、昆布を献上し続けていると報告した」とあります。8世紀初頭の時点で「先祖以来」とあり、1300年以上前から内地でも食用とされ、北の大地ではそれ以前から大切にされてきた食文化であることがうかがえます。

1334(元弘4)年、南北朝時代に成立した『庭訓往来』には、蝦夷地の名産品として宇賀の昆布の名前が挙がっています。宇賀とは、現在の函館空港にほど近い函館市銭亀町や志海苔町あたり。函館湾の東隣の浜から産出する昆布が若狭の小浜を経由して京都・大阪方面にまで運ばれていました。

江戸時代になると、いよいよ昆布が重要な商材としてクローズアップされることになります。ここで昆布にとって重要なのは「鎖国」という歴史認識です。近年の歴史研究では、昭和の日本史で習ったような「江戸時代、長崎の出島のみが他国と交易を許されていた」という認識はあまり採用されなくなっています。

江戸幕府が採用していたのは「鎖国」というより管理貿易体制で、当時の日本には、異なる経済・文化圏の相手国に対する交易の窓口として「四つの口」――長崎口(対中国、東南アジア、オランダ)、対馬口(対朝鮮)、薩摩口(対琉球)、松前口(対蝦夷地)があり、それぞれの担当国との通商(一部外交・防衛等も含む)に当たらせたという見方です。

北海道漁業協同組合連合会HPなどを参考に筆者作成
北海道漁業協同組合連合会HPなどを参考に筆者作成

江戸幕府開府当初、松前口以北、道南のごく一部を除いた北海道全域と、薩摩口の南海に浮かぶ琉球は通商する相手、つまり外国・異域でした。そこに住まうアイヌや琉球民族との交易も、松前藩や薩摩藩にとっては重要な収入源だったのです。


蝦夷産昆布は薩摩&琉球を経由し中国にも届く交易品だった

昆布を中心に物事を見てみると、1604(慶長9)年に松前藩が蝦夷に対する交易独占権を認められ、昆布などの海産物が内地向けの交易品として人気となりました。

いまも昔も北海道は国内における昆布の名産地。北前船の西廻り航路で運ばれる昆布は京都、大阪でも人気を博していました。大阪の廻船問屋、昆布屋伊兵衛は河内木綿などの特産品を船で運び、荷物を下ろした荷室に北海道から真昆布を積んで南へと向かったと言います。

江戸時代以降、昆布文化をさらに拡大させるのに一役買ったのが、「薬売り」で知られる富山です。富山には北前船の寄港地や豪商が経営する廻船問屋が多数あり、全国に顧客ネットワークを張り巡らせ、富山の薬や米のほか、北海道から運ばれる昆布などを諸国に売りさばいたのです。

とりわけ富山の廻船問屋との結びつきが深かったのが薩摩口を擁する薩摩藩でした。北海道の道南の松前口が蝦夷(アイヌ)との窓口になっていたように、九州最南端の薩摩口は琉球王国との窓口になっていたのです。

1609(慶長14)年、琉球王国は薩摩藩の侵攻を受けて服属することになり、以降琉球は中国(薩摩に服属当時は明、後に清)との二重朝貢という舵取りの難しい状態となり、薩摩と中国の貿易の中継地となっていきます。

その琉球経由で、中国(清)へと輸出された献上品の主役が昆布でした。当時の清ではヨウ素不足による甲状腺の病気が流行していて、ヨウ素を含む昆布が珍重されていました。

清の顔色をうかがう琉球としても日中両方にいい顔ができるなら安心ですし、財政が苦しい薩摩藩としては琉球を介した輸出入の上前で稼ぎたい。富山藩としても、昆布などが売りさばける上、長崎の唐人屋敷経由よりも薬種がリーズナブルに入手できていいことずくめというわけです。


羅臼町町民の7割は富山がルーツ?

冬になると雪深くなる富山では裏作ができません。そこで働き手は、北海道のニシン漁などに出稼ぎに出ていました。名産地への移住者が相次ぎ、帰省や贈答品を通じて、富山と北海道の昆布との縁はより深くなっていきます。明治となった1895年には、黒部市から500人が北海道に渡り、羅臼などで昆布漁に携わり、現在も7割以上の羅臼町町民のルーツが富山にあるという説まであるほどです。

実際、富山の昆布料理を見ると、白身魚やシロエビの昆布締め、昆布巻き、とろろ昆布おむすび、昆布巻きかまぼこなどなど、昆布料理のバリエーションが実に豊富で、さすが昆布消費量No.1といった趣です。

沖縄は富山ほどではありませんが、昆布の産地としてはあり得ない亜熱帯にもかかわわらず、昆布を使った郷土料理の多い土地。産地の北海道から2000km以上離れた沖縄で、クーブイリチー(昆布の炒め煮)などの昆布料理が根づいたのは、当時の交易において規格外となった昆布が市中に出回ったからと言われています。

産地の北海道から海運で内地に運ばれ、西廻り航路では富山から薩摩を経て、琉球、果ては中国にも流れていた昆布。北海道の昆布と現在中国沿岸部で採れる昆布は、近縁種だということが明らかになりました。

北海道の道南地区で採れた昆布は、日本海の北陸を通って九州へ。そして最南端の薩摩から琉球を経由して、大陸へと上陸したのです。

いまや食材として昆布を日常的に買ってストックしておく人は多数派とは言えないかもしれませんが、温暖化やウニの食害などもあって、道南の天然物の真昆布はいまやほとんど収量ゼロになりつつあります。

他地域でも30年前と比較すると、ほとんどの地域で収量は激減していて、昆布漁から離れる生産者も少なくありません。
わたしたちが感じる味わいの源とも言える昆布。いま一度触れ直したい食材です。

【参考文献】
『大阪食文化大全』(笹井良隆/編著 西日本出版社 2010)

『大阪昆布の八十年』(大阪昆布商工同業会/編 大阪昆布商工同業会 1981)

『昆布を運んだ北前船』(塩照夫/著 北國新聞社 1993)
『もっと知りたいこんぶの歴史』(北海道昆布漁業振興協会)
https://www.gyoren.or.jp/konbu/rekishi.html
『宇賀昆布と箱館の繁栄』(函館市史)
https://archives.c.fun.ac.jp/hakodateshishi/tsuusetsu_01/shishi_03-01/shishi_03-01-03-00-02.htm

『富山の定番は「おいしく長持ち」先人の知恵』(朝日新聞デジタル 2023年6月25日)
https://digital.asahi.com/articles/ASR6S7JJRR6QPISC001.html














編集者、ライター、フードアクティビスト

東京都武蔵野市生まれ。食専門誌から新聞、雑誌、Webなどで「調理の仕組みと科学」「大衆食文化」「食から見た地方論/メディア論」などをテーマに広く執筆・編集業務に携わる。テレビ、ラジオで食トレンドやニュースの解説なども。新刊は『教養としての「焼肉」大全』(扶桑社)。他『大人の肉ドリル』『新しい卵ドリル』(マガジンハウス)ほか。共著のレストラン年鑑『東京最高のレストラン』(ぴあ)審査員、『マンガ大賞』の選考員もつとめる。経営者や政治家、アーティストなど多様な分野のコンテンツを手がけ、近年は「生産者と消費者の分断」、「高齢者の食事情」などにも関心を向ける。日本BBQ協会公認BBQ上級インストラクター

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