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38歳の”おじいちゃんロック”、日本代表引退「メチャ楽しかった」

松瀬学ノンフィクション作家(日体大教授)
南アフリカ戦から一夜明けての会見で心境を語るトンプソン(21日、東京都港区)(写真:西村尚己/アフロスポーツ)

 ああノーサイドである。ラグビー日本代表の快進撃が止まった。「トモさん」こと、トンプソン・ルーク(近鉄)のラグビーワールドカップ(W杯)の挑戦も終わった。21日の一夜明け会見。チームの躍進を支えた屋台骨、38歳のロックはユーモラスな大阪弁で「すごく、メチャ楽しかった」とわらった。

 「すごい、たくさん、いいメモリー(思い出)と、たくさん、仲間つくった」

 もうからだはぼろぼろである。最後の準々決勝の南アフリカ戦(●3-26)でもからだを張った。衰えぬ闘志とハードワークでチームに貢献した。献身的なプレーヤーの証なのだろう、鼻筋は少し曲がり、顔のあちらこちらにアザができている。「僕は毎日(ケガをする)。だから、いつも、ブサイクな顔」と冗談を飛ばしたこともある。

 4大会連続のW杯出場。初めて臨む決勝トーナメントの風景は違った。前回の2015年W杯イングランド大会では1次リーグで南アを破る大金星を挙げていた。でも、今回、「本気」の南アは強かった。とくにデカいフォワードの激しさたるや。

 試合後のミックスゾーンで、トンプソンは「疲れた」とこぼした。言葉に実感をこめた。

 「15年(W杯)は素晴らしかったけれど、準々決勝にはいけなかったね。今回は、ホームのトーナメントで素晴らしいムードだった。日本のみなさん、応援した。僕らはレベルアップした。みなさんも、ぼくらも、メチャいいトーナメントだった」

 ニュージーランドのクライストチャーチ生まれのトンプソンは2004年に三洋電機(現パナソニック)に加入し、06年からずっと、近鉄でプレーしている。10年には日本国籍を取得した。「日本人であることは、僕の誇りね」。近鉄の本拠地が東大阪市・花園ラグビー場。ここに14年間、練習にはママチャリで通い、ファンとの交流を大切にしてきた。

 座右の銘が、『郷に入れば、郷に従え』である。好物が「お好み焼き」。郷に従って、もう、長い歳月が流れた。196センチ、110キロ。2007年の春、日本代表に初めて選ばれ、2007年W杯、2011年W杯、2015年W杯と連続で出場してきた。15年W杯の最後の米国戦の直後、日本代表からの引退を宣言した。

 だが、日本代表のロックにけが人が続出したこともあって、請われて、17年春のアイルランド代表戦に出場した。今年に入って、親しいトニー・ブラウン日本代表コーチからスーパーラグビーの日本チーム、サンウルブズに呼ばれた。

 最愛のネリッサ夫人も後押ししてくれた。トンプソンは練習、試合に100%の力を発揮した。いつも全力。日本代表に復帰、四たび、W杯メンバーに選ばれた。

 「僕は特別なプレーヤーじゃない。メチャ大きくもないし、メチャ、スピードがあるわけじゃない。だから、ハードワークはマスト。ちゃんと仕事する。それだけ」

 初めての日本開催のW杯。公式記録を見ると、4試合に出場し、23回ボールを持って走り、トータル13メートルをマークした。持ち前のタックルは、49回中47回を決め、タックル成功率はなんと96%を記録した。

 もちろん、数字には表れない、トンプソンの貢献は多々、ある。ピンチでは大声でFWを鼓舞し、モールディフェンスではかたまりに頭からどんと突っ込んでいった。

 トンプソンは感慨深げだった。

 「僕も、みんなも、すごく、がんばった。最後はノートライ。自分たちのプレーができなかった。僕はインタイ。でもネクストゼネレーション、自信もっています」

 また引退撤回するのでは? と記者から言われると、笑顔でぴしゃりと言った。

 「おじいちゃんロックはもう、インタイ。絶対、終わりよ」

 顔に充実感がただよう。

 「1年前、こんな状況、信じられへん。ワールドカップでプレーしているなんて。準々決勝で南アフリカと戦うなんて。それはもう、信じられへん。ほんとよ。僕は、メチャ感動してる」

 少し感傷的になったからだろう。ミックスゾーンの隣で話していた仲良しの34歳のSH田中史朗に大声を飛ばし、しんみりしていた記者たちを笑わせた。

 「フミ、おまえ、うるさいよ。黙れよ! フミの声、でかいよ」

 田中がミックスゾーンから帰る際、すれ違いざま、トンプソンのおしりをたたいた。

 「さわるんじゃねえよ。おらー!」

 再び爆笑の渦。周りを気遣う、トンプソンとはそういう人なのだろう。

 日本代表のキャップ(国代表出場数)は「71」となった。「僕はインタイ。若い選手、いっぱいある」。やさしい目になった。

 「みんな、勝つ文化、わかった。いまは、(日本の強さを)ちょっと信じる。自信もって戦える。これから、もっと強くなる」

 トンプソンは短いオフを挟んで、11月17日のトップリーグ下部、トップチャレンジの開幕戦の近鉄×清水建設(長居)に出場する意向を示した。こんどは近鉄のため、最後の闘志を燃やすのだった。

 「近鉄、楽しみです」 

 こうもラグビーに没頭できるのは、家族の理解があればこそである。最後、妻のサポートの話題となった。

 トモさんはしみじみと漏らした。

 「奥さんはいつも、応援した。奥さんが応援しないと、僕はワールドカップ、出てなかった。奥さんはスペシャルね」

 桜のジャージを脱いだトモさんは、まだまだ走る。エンジと紺の横縞の近鉄ジャージを着て。ラブする大阪で。

ノンフィクション作家(日体大教授)

早稲田大学ではラグビー部に所属。卒業後、共同通信社で運動部記者として、プロ野球、大相撲、五輪などを担当。4年間、米NY勤務。02年に同社退社後、ノンフィクション作家に。1988年ソウル大会から2020年東京大会までのすべての夏季五輪ほか、サッカー&ラグビーW杯、WBC、世界水泳などを現場取材。人物モノ、五輪モノを得意とする。酒と平和をこよなく愛する。日本文藝家協会会員。元ラグビーワールドカップ組織委員会広報戦略長、現・日本体育大学教授、ラグビー部部長。著書は近著の『荒ぶるタックルマンの青春ノート』(論創社)ほか、『汚れた金メダル』『なぜ、東京五輪招致は成功したのか』など多数。

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