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今泉健司五段(49)NHK杯史に残る大熱戦を制し里見香奈女流四冠(30)に勝利

松本博文将棋ライター
(記事中の画像作成:筆者)

 7月24日。第72回NHK杯1回戦▲里見香奈女流四冠(30歳)-△今泉健司五段(49歳)戦が放映されました。棋譜は公式ページをご覧ください。

 結果は142手の大熱戦の末、今泉五段の勝ちとなりました。今泉五段は2回戦で斎藤慎太郎八段と対戦します。

 一般公式戦で男性の棋士を連破し、棋士編入試験の受験資格も得た里見女流四冠。棋士を相手にして、今年度初黒星となりました。

今期NHK杯1回戦、注目の一番

 今期NHK杯のトーナメント表が発表された際、本局の組み合わせに目をひかれた方も多かったのではないでしょうか。

 今泉現五段は2015年に棋士編入試験に合格。41歳で棋士となりました。NHK杯本戦出場は2018年以来、2回目となります。前回は藤井聡太七段(現竜王・王位・叡王・王将・棋聖)を大熱戦の末に破って、世間をあっと言わせました。

 NHK杯は予選を勝ち抜くだけでも大変です。今泉五段は今期、古森悠太五段、横山友紀四段、北浜健介八段と強敵を連破して、テレビ放映される本戦に進みました。

 本局開始前、今泉五段は次のように語っています・

今泉「前回、藤井五冠・・・。あっ、藤井さん(2018年当時七段)との対戦で。今回がやっぱり、女流棋界というか、将棋界のスーパースター、そしていま時の人の里見さんとの対戦で。とっても楽しみにしてます」「今回ね、3年ぶり2回目ということで。本当にね、晴れやかな甲子園球場を歩く高校球児のような気持ちで、渋谷のスタジオにやって参りました。やっぱり1回戦で終わりたくないので、次もまたここで指せるように、全力で頑張りたいと思います」

 里見女流四冠が棋士編入試験受験で注目されている「時の人」。同じ試験を受けたという点で、今泉五段は先人にあたります。

 今期のNHK杯出場女流棋士決定戦はタイトル保持者3人によって争われました。結果は以下の通りです。

【初戦】西山朋佳女流二冠●-○加藤桃子清麗

【決勝】里見香奈女流四冠○-●加藤桃子清麗

 里見女流四冠はNHK杯本戦出場は4回目。2019年には高崎一生現七段に勝っています。

 今泉五段と里見女流四冠は公式戦初手合です。

里見「今泉先生は気合十分でファイターといった印象がありますので、自分のペースを保ちながら指せればと思います」「目の前の対局に全力を尽くせるようにがんばりたいと思います」

NHK杯史に残る進行

 ともに振り飛車党の両者。まずは戦型が注目されました。

 先手は里見女流四冠。まず盤面中央の歩を一つ前に進めます。

「ふう」

 今泉五段は大きく息を吐いたあと、やはり同様に5筋の歩を進めました。

 里見女流四冠が中央に飛車を回す「中飛車」の作戦を取ったのに対し、今泉五段もまた同じ指し方。戦型は「相中飛車」です。

 里見女流四冠が振り飛車のセオリー通り、玉を右側に移動させていきます。対して今泉五段は玉を角の方、今泉五段から見て左側に寄せていきます。これは「中飛車左玉」とも言われる作戦で、どちらかといえば居飛車に近い感覚になるでしょう。

 里見女流四冠の指し手に、今泉五段はぴったりと追随していきます。将棋を覚えたての子ども同士の対戦でしばしば見られるような立ち上がり。プロの公式戦では大変めずらしいでしょう。今泉五段の趣向に対して、里見女流四冠は冷静な様子。表情ひとつ変えません。16手目の時点でようやく、盤面上下での同じ指し方が終わりました。

 里見女流四冠は美濃囲い。対して今泉五段は穴熊に囲おうとします。そこで里見女流四冠は玉の囲いを構成する銀を、積極的に中段へと押し上げていきます。少し驚いた様子の今泉五段。最近の里見女流四冠は、以前にも増して自由闊達な指し回しが見られます。それが現在の好調にもつながっているのでしょうか。

 29手目。里見女流四冠は5筋の飛車を3筋に移動させます。将棋の初形では、飛車は2筋にいます。3筋はその袖の位置ということで「袖飛車」(そでびしゃ)と言われる形です。振り飛車からの袖飛車は、大山康晴15世名人(1923-92)も得意としていた手法で、昭和の昔から指されていました。しかしこれだけ早い段階で袖飛車の意思表示をする例もまた珍しいかもしれません。

 今泉陣がまだ整わないうちに、里見女流四冠は速攻を仕掛けていきました。これには今泉五段ならずとも、多くの視聴者が驚いたことでしょう。今泉玉は一段目隅の穴熊に囲うことはかなわず、危険な三段目に引っ張り出されました。形勢は早くも里見リード。変わった指し方ならば誰でもできますが、それで強敵を相手に優位に立つのは容易なことではありません。まずは里見女流四冠の卓越したセンスが光りました。

今泉「(序盤の作戦は)ある程度そういうつもりだったんですけど、もっと激しく来られてだいぶまずくなってしまいましたね。こらえられたらよかったんですけど」

 しかしここから今泉五段はしぶとく辛抱を続けます。今泉五段の将棋人生は挫折の連続でした。しかし決して折れない精神力が棋士編入試験合格、さらにはNHK杯という晴れ舞台での藤井戦勝利へとつながったのでしょう。

 里見女流四冠は模様のよさを、金桂交換の実利へとつなげます。さらには金銀を前線に進めた上に、持ち駒の金をさらに打ちつけます。銀銀金金金という見たこともない分厚いスクラムが盤面中段に現れました。長く将棋を指し続け、観戦し続けてきた人でも、こんな形はほとんど見たことがないでしょう。

 ここまでの進行ですでに、将棋史に残る一局といえるかもしれません。さらにドラマはこのあとにも待っていました。

劇的な結末

 里見女流四冠の分厚い金銀5枚のスクラムを前にして、今泉五段は完封されるおそれもありました。しかしそこから機を見て反撃。追い込んで逆転のチャンスをうかがいました。

 NHK杯はわずかな持ち時間を使い切ると、あとは30秒の秒読み。そこで昔から、数々のドラマが起こってきました。

 里見女流四冠は、何度か決め手を逃したようです。しかし秒読みとあれば、それも仕方のないところ。勝負に持ち込んだ今泉五段が力を発揮したというべきでしょう。

 最終盤はまさに勝敗不明。形勢は何度も入れ替わります。どちらが勝ってもおかしくない、まさに「指運」の勝負となりました。

 大熱戦ではしばしば、互いの玉が中段で接近することになります。すると必然的に、攻防の順がめまぐるしく出続け、観ている側からすればこたえられない面白さとなります。

 134手目。ファイターの今泉五段は全身の力を指先に乗せるようにして、高い駒音。ノータイムで桂を取りながら、自陣一段目の飛車を相手陣三段目に飛び込みました。これで勝ちなら、これ以上気持ちのいい手はありません。

 終局直後、印象に残る一手を尋ねられた今泉五段は次のように答えています。

今泉「▲3七飛車成でずっと使えなかった飛車が使えたっていうのは、ちょっと奇跡的とはいえると思うんで」

 画面上に表示されている形勢表示バーがなければ、視聴者もこの一手で今泉五段がついに勝ちを引き寄せたと思ったかもしれません。

 しかし皮肉なことに「勝率」は先手(里見)5%から94%へと変わりました。つまり今泉五段の飛車成りは会心の一着ではあっても、正着ではなかった。そしてここから最善手を指し続けられれば、里見勝勢だったというわけです。

「10秒・・・。20秒、1、2、3、4、5、6、7」

 そこまで読まれて里見女流四冠は137手目、中段から角を打ちました。結果的にはこれが敗着。代わりに王手で歩を打ち、さらに王手で今泉陣に角を打てば里見勝ちだったようです。

 138手目。今泉五段は角の王手に対して合駒で歩を打ちます。この歩が王手を受けながら、里見玉の詰みに役立っていたのですから劇的です。

 手番を得た今泉五段。落ち着いた様子で里見玉に王手をかけていきます。142手目、ただで取られるところに銀を捨てるのが好手で、里見玉はぴったり詰みです。

「10秒・・・。20秒、1、2、3、4、5」 

 そこまで読まれて里見女流四冠は作法通り、駒台に右手を添えます。「負けました」と静かに告げ、142手の大熱戦に終止符が打たれました。

今泉「終盤は本当に運がよかったというか。これだけ、みたいな感じの逆転があったかなっていうふうに思います。運がよかったと思います」

 今泉五段がそう語る横で、里見女流四冠はじっと下を向いていました。

 本局には敗れたものの、里見女流四冠は今年度、一般公式戦で7勝1敗という好成績です。

 注目の棋士編入試験、第1局は8月18日におこなわれます。

将棋ライター

フリーの将棋ライター、中継記者。1973年生まれ。東大将棋部出身で、在学中より将棋書籍の編集に従事。東大法学部卒業後、名人戦棋譜速報の立ち上げに尽力。「青葉」の名で中継記者を務め、日本将棋連盟、日本女子プロ将棋協会(LPSA)などのネット中継に携わる。著書に『ルポ 電王戦』(NHK出版新書)、『ドキュメント コンピュータ将棋』(角川新書)、『棋士とAIはどう戦ってきたか』(洋泉社新書)、『天才 藤井聡太』(文藝春秋)、『藤井聡太 天才はいかに生まれたか』(NHK出版新書)、『藤井聡太はAIに勝てるか?』(光文社新書)、『棋承転結』(朝日新聞出版)、『など。

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