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ストップウォッチ、チェスクロック、フィッシャールール 将棋界における時間計測方式と持ち時間設定の変遷

松本博文将棋ライター
(記事中の写真撮影・画像作成:筆者)

 ABEMAで放映されているAbemaTVトーナメントが視聴者に好評を博しています。

 過去2回の個人戦では藤井聡太七段(現在17歳)が2連覇を達成しています。

 羽生善治九段(49歳)は長時間のタイトル戦を通算99期制し、さらには早指しのNHK杯で11回優勝するなどの実績を残しています。羽生九段や藤井七段を見れば、時間が長くても短くても、強い棋士はどんなルールでも実績を残す。そんなことになりそうです。

 現在放映されている第3回はドラフト方式を採用しての団体戦で、こちらも大変に盛り上がっています。

将棋界でもフィッシャールール

 さてAbemaTVトーナメントの大きな特徴は、対局の持ち時間の方式が「フィッシャールール」(フィッシャーモード)という点です。

 フィッシャーとはチェス界の偉大な世界チャンピオンであるボビー・フィッシャー(Bobby Fischer、1943-2008)のこと。

 フィッシャーモードはそのフィッシャー先生が発案した、1手指すごとに一定の時間が加算されるという形式です。人間の記録係がその計測をするのは大変ですが、同番組で使用されているような、市販の対局時計があれば大丈夫です。

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 合理性を尊ぶチェス界で、フィッシャーモードはポピュラーな競技ルールとして普及しています。

 AbemaTVトーナメントにフィッシャーモードを導入することを発案したのは、チェスに造詣が深く、また自身も強豪プレイヤーである羽生九段だそうです。

 AbemaTVトーナメントの持ち時間は各5分で切れたら負け。ただし1手指すごとに5秒が加算されます。

 フィッシャールールは設定次第で長時間にも短時間にもできます。AbemaTVトーナメントでは、それが短時間の「超早指し」になっています。最後は実質的に「5秒将棋」になることも多く、これが将棋界の公式戦では今までに見られないほどの、さらにスリリングな効果を生んでいるというわけです。

ストップウォッチ方式とチェスクロック方式

 近代将棋界の持ち時間制の変遷は大きなテーマで、いずれ項を改めて詳述したいと思います。

 かつては時間無制限だった将棋界も、近代化の過程で持ち時間制度が導入されました。その際には、先行するチェスの制度が大いに参考にされたようです。

 ただし将棋界ではかなり独自の方式が確立していきます。ストップウォッチや時計などで秒単位で時間を計り、1分ごとに消費時間をカウントし、1分未満を切り捨てる方式がずっと採用されてきました。

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 たとえばA級、B級1組順位戦は持ち時間6時間でストップウォッチ方式です。1分単位で消費時間がカウントされていき、5時間59分となった後は消費時間の通計が6時間とならないよう、残りをすべて1分未満で指す「一分将棋」となります。

 終盤戦。対局室では聞こえるのは、記録係が「カチカチ」というストップウォッチを押す音。秒を読む声。それにうながされるようにして対局者が発する駒音。そしてまた「カチカチ」というストップウォッチの音。そんな情景を、近年ではネット中継の映像を通しても見られるようになりました。

 切り捨てにできる範囲内ギリギリで指せば、時間をかなり節約することができます。59秒で指しても、後に残された棋譜を見れば消費時間は0分と同じであり、記録上は「ノータイム」となるわけです。

 将棋にもチェスにも詳しい観戦記者の東公平さん(現在86歳)は著書に次のように記しています。

ノータイムという将棋用語は、昭和十年ごろに使われ始めたようだが、一分未満はカウントしないでゼロとみなすという日本式は欧米人になじまない。昭和三十年代に東京でチェス大会を開いた。当時はチェス時計が不足で、やむなく日本式秒読み制でやったところ負けたイギリス人が「世界中にこんなチェス大会はない!」と怒鳴って帰ってしまった。優勝した木村義徳さんに聞いた話。

出典:東公平『近代将棋のあけぼの』

 要するに、1分未満切り捨てのストップウォッチ方式は、実用に耐えうるチェスクロックが入手困難だった、という点が大きく関係しているようです。

 筆者は以前古い将棋雑誌を読んでいたところ、昭和の半ば、将棋連盟が舶来のチェス時計をたくさん購入したものの、どれもすぐに壊れて使い物にならなかった、という趣旨の記述を読んだ記憶があります。

 その後は対局時計の性能は飛躍的に進化し、また安価で入手しやすくなりました。

 最近ではプロの公式戦でも従来の一分未満切り捨て(ストップウォッチ方式)に変わって、使った時間をそのままの切り捨てなしで消費時間とするチェスクロック方式が取り入れられています。

 その際には従来はチェスクロックが使われていました。また2014年からは記録係によるタブレットでの棋譜入力が始められ、時間も自動的に計測されるようになりました。

 チェスクロック方式で所定の持ち時間を使い切った後は、あらかじめ定められた時間(多くは1分)未満で指すことになります。

 B級2組、C級1組、C級2組順位戦は時間6時間でチェスクロック方式です。持ち時間6時間を使い切った後は、1分未満で指すことになります。

 ストップウォッチ方式とチェスクロック方式、細かい違いのようですが、実際には大きく異なります。永瀬拓矢叡王(現在は王座も合わせて二冠)は次のように語っています。

──観戦しているアマチュアの側からは、その違いはよくわからないと思いますが、そんなに違うものですか?

永瀬:終局が3時間違うという印象です。ストップウォッチとチェスクロックだけで(対局者それぞれ)1時間ぐらい違います。昼食休憩、夕食休憩があるだけで、もう少し違う。あと、チェスクロックだと、時間を残そうとしている人がいるので。

出典:永瀬叡王就位記念インタビュー

 かつて順位戦では対局中に0時を回り、日付を超えることはよくありました。一方で現在のB級2組以下は終局時間がぐっと早くなり、日付が変わる以前に終わることがほとんどとなりました。

 持ち時間を10分として、ストップウォッチ方式(例として一般的な1分未満切り捨て)、チェスクロック方式、フィッシャーモード(例として1手ごとに10秒加算)での時間の推移をごく簡単な例でまとめると、おおよそ次の表の通りです。

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対局時計の進化と対局スタイルの変化

 プロ公式戦と違って、アマチュアの大会は記録係がつきません。対局者自身が時計を押すスタイルがほとんどです。

 消費時間をはかることは、クラシカルなタイプのアナログ式の対局時計(チェスクロック)があればすでに可能でした。

 上記モデルは1982年に発売されたものだそうで、1980年代のアマチュア大会ではよく見られました。この対局時計になじみのある方は、現在ではかなりのベテランかもしれません。

 持ち時間を使い切ったら即負けとなる「切れ負け」の設定にすると、大会のスムーズな運営という点では最高です。たとえば20分切れ負けであれば、最大でも40分以内には必ず決着がつくからです。

 ただしそうなると、最後はどちらが先に時間が切れるかの勝負になってしまい、指し手の善悪ではなく、ただ相手の時計を切らすためだけの、ぐしゃぐしゃの応酬もしばしば見られました。

 切れ負けをめぐる悲喜劇は、ベテランのアマチュアプレイヤーならば、誰もが実際に経験したものでしょう。

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 また現在「将棋ウォーズ」や「将棋クエスト」といったスマホの対戦アプリでも切れ負けは採用されています。3分や2分での切れ負けとなるとこれはもう、将棋の実力とは別の何かが大きく問われそうです。

 アマ大会では時計が切れたら以後は秒読み、という方式もあります。すると従来のアナログ時計ではそれができず、対局者の他に誰か1人、時間を計って秒を読む係が必要となります。

 また長手数になれば延々と時間が伸びて、その一局のために大会の進行がいちじるしく遅れるという事態も出てきます。これは現在も事情は変わりません。

 アナログ式の後は、デジタル式の対局時計「ザ・名人戦」が普及します。

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 これはすぐれもので、切れ負け、秒読み、いずれの設定もできます。また持ち時間を15分として、それを使い切ったら1手30秒といったことも可能もです。

「ピッ、ピッ、ピッ、ピー」

 そんな電子的な秒読み音がリズムとして身体に刻みこまれているというプレイヤーも多いでしょう。

 現在はさらに進化して、AbemaTVトーナメントのようにフィッシャーモードの設定もできます。

(※シチズンからは最新モデルの「ザ・名人戦/DIT-50」が市販されていて、購入すれば誰でもフィッシャーモードで対局できます・・・と書こうとしたところ、コロナ禍の影響により、現在は生産、販売が中止されているようです。驚きました)

 1980年代。対局時計が将棋大会に出始めた頃は、年配者が時計を押し忘れるシーンが頻繁に見られました。

 しかし現在。五十代、六十代と年齢を重ねたベテランプレイヤーであっても、その多くは、大会で対局時計は当たり前という環境で競技人生の大半を過ごしてきたものと思われます。そして指した後に自分で時計を押す習性が身についている人は、歳をとっても、時計を押し忘れることは、そう多くはないでしょう。

 現役の棋士、女流棋士ももちろん、普段の練習では自分で対局時計を押しますし、ほとんどの人が対局時計を使いこなしています。また棋士の養成機関の奨励会では、会員は自分で時計を押しています。

 AbemaTVトーナメントでは、対局者がギリギリで指し、時間が切れそうになって視聴者がひやひやする場面はあるにせよ、棋士自身が時計を押すスタイルを採用して問題は生じていないようです。

 これまでの将棋界の歴史を眺めれば、対局時計の進化にともなって対局スタイルも合理的に変化しています。いずれは記録係が時間を計測するのではなく、対局者自身が時計を押す方式が主流となりそうです。

 あるいはさらに進んで、現在採用され始めた棋譜の自動記録とともに、対局者が時間計測のための時計を押すことなく、時間までもが自動的に計測される。そんな未来も、ほどなく訪れるのかもしれません。

将棋ライター

フリーの将棋ライター、中継記者。1973年生まれ。東大将棋部出身で、在学中より将棋書籍の編集に従事。東大法学部卒業後、名人戦棋譜速報の立ち上げに尽力。「青葉」の名で中継記者を務め、日本将棋連盟、日本女子プロ将棋協会(LPSA)などのネット中継に携わる。著書に『ルポ 電王戦』(NHK出版新書)、『ドキュメント コンピュータ将棋』(角川新書)、『棋士とAIはどう戦ってきたか』(洋泉社新書)、『天才 藤井聡太』(文藝春秋)、『藤井聡太 天才はいかに生まれたか』(NHK出版新書)、『藤井聡太はAIに勝てるか?』(光文社新書)、『棋承転結』(朝日新聞出版)、『など。

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