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「お化け」屋敷伸之四段(17歳10か月24日)の史上最年少タイトル挑戦記録と1989年当時の将棋界

松本博文将棋ライター
(記事中の画像作成:筆者)

 早熟の天才・藤井聡太七段(17歳)が異次元の活躍を続ける中で、それを伝える側が常に言及し続けてきた記録がいくつかあります。

 そのうちの一つは屋敷伸之四段(現九段)が持つ史上最年少タイトル挑戦記録です。

 冒頭のトーナメント表にある通り、1989年、屋敷四段は棋聖戦本戦トーナメントを勝ち抜いて棋聖挑戦権を獲得しました。その時わずかに、17歳という年齢でした。

 挑戦者決定戦から約2週間ほどの間をおいて、中原誠棋聖(当時42歳)に屋敷四段が挑む第55期棋聖戦五番勝負は12月12日に開幕しました。この第1局の時点で、屋敷四段は17歳10か月24日。これが現在までに残る最年少記録です。

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 熱心なファンや関係者であればこれまで、屋敷四段の最年少記録を「17歳」までは押さえていたものと思われます。

 昨年2019年。藤井聡太七段が17歳5か月での王将位挑戦まであと少しと迫りました。その際には屋敷四段の記録は「17歳10か月」だと、情報をさらに詳しく認識することが求められました。

 さらには現在。記録の表記が「17歳10か月24日」と一段と細かくなったのは、藤井七段が棋聖戦で勝ち進み、五番勝負に登場すれば「17歳10か月20日」でギリギリその記録を更新できるからです。

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 本日2020年6月4日。第91期ヒューリック杯棋聖戦挑戦者決定戦、永瀬拓矢二冠(27歳)-藤井聡太七段(17歳)戦がおこなわれます。令和の将棋界のゆくえを占う上での大一番と言ってまったく過言ではないでしょう。

 以上は本日の対局を観戦する上で踏まえておくべき情報です。

 以下は平成のはじめ、1989年度の将棋界をたどってみたいと思います。お時間のある方はお付き合いください。

「お化け」とも「忍者」とも呼ばれた新星

(屋敷伸之九段、2009年筆者撮影)
(屋敷伸之九段、2009年筆者撮影)

 屋敷九段は1972年1月18日生まれ。出身は北海道札幌市で、地元では早くから天才少年として知られていました。

 1983年、小6の時に小学生名人戦で3位。1985年、中2の時に中学生名人戦優勝。同年に6級で奨励会に入会しています。

 中2での奨励会入会は、現代の感覚では遅くもなければ早くもない、どちらかといえば標準的なスタートと言えるでしょう。そこから屋敷少年は異例の猛スピードで昇級、昇段を重ねていきます。

 三段リーグ初参加は1988年度前期。そこをなんと1期で突破して、1988年10月1日付で四段に昇段しています。その時、屋敷新四段は16歳でした。奨励会在籍期間はわずかに2年10か月。6級から四段まで駆け上がったスピードとしては、現在に至るまでも史上最速です。

 屋敷四段の2学年上には村山聖五段、佐藤康光四段。1学年上には、羽生善治五段、森内俊之四段、先崎学四段と十代半ばの俊英が揃っていました。それらの若手よりもさらに年少の屋敷四段は、しばらくの間、現役最年少棋士でい続けます。

 当時の屋敷少年は「お化け屋敷」と言われました。これは「屋敷」という名前に掛けつつ、何が飛び出てくるかわからない豊かな天性をも表現しています。

 後には「忍者屋敷」、あるいはそこから派生して「忍者流」とも言われるようになります。「お化け」と「忍者」、いずれも屋敷少年の特徴をとらえている、うまい呼び方だと思われます。

 1988年当時、棋聖戦は半年1期のサイクルで開催されていました。第54期棋聖戦一次予選に参加した屋敷四段は、まず2連勝します。そこでぶつかったのが、強敵中の強敵である羽生五段(当時18歳)でした。

 16歳の屋敷四段と18歳の羽生五段の対局は、羽生流の変幻自在の指し回しが冴えまくり、羽生五段の勝ちとなりました。

 この年度の羽生五段は年度成績は64勝16敗。NHK杯では大山15世名人、加藤九段、谷川浩司名人、中原誠棋聖を連破して優勝。これらの実績が認められ、タイトル保持者ではないにもかかわらず、最優秀棋士賞を受賞しています。

 当時の羽生五段はすでにおそろしく強く、トップクラスにひけを取らない実力の持ち主であることは誰の目にも明らかでした。

 しかし羽生五段はタイトル挑戦権獲得という点に関しては、何度も惜しいところでチャンスを逃してきました。このあたりは現在の藤井七段と似ています。

屋敷四段、1期目で難関の王将戦リーグ入り

 元号が昭和から平成に変わった1989年。17歳となった屋敷四段は、主に2つの棋戦で快進撃を見せます。

 1つは1期目の参加となる第39期王将戦です。屋敷四段は一次予選で山口千嶺七段、宮坂幸雄八段、小倉久史四段、高橋道雄八段を連破しました。

 高橋八段(当時29歳)はそれまでにタイトルを複数獲得していたトップクラスの棋士でした。

 昭和55年度(1980年度)には有望な若手が多数四段に昇段しました。その中で現在までにタイトルを獲得した棋士は次の通りです。

南 芳一九段(王将3期、棋王2期、棋聖2期)

高橋道雄九段(王位3期、十段1期、棋王1期)

中村 修九段(王将2期)

島  朗九段(竜王1期)

塚田泰明九段(王座1期)

 これらの棋士は「55年組」と呼ばれました。当時の屋敷四段にはこうした先輩棋士たちが大きな関門となりました。

 55年組の一人である神谷広志現八段は1987年、五段の時に28連勝の記録を達成しています。これは2017年に藤井聡太四段(現七段)に更新されるまで破られなかった大記録でした。

 屋敷四段は高橋八段まで破って王将戦二次予選に進出します。そしてさらに、大山康晴15世名人、桐山清澄九段、有吉道夫九段まで破って二次予選も突破。難関の王将リーグ入りを果たしました。

 17歳での王将戦リーグ入りは記録的な速さです。ただしそれ以前の1956年、加藤一二三六段(現九段)が達成した16歳というこれもまた信じがたいスピード記録がありました。この加藤六段の記録は、藤井聡太現七段も破ることはできず、依然最年少記録として残っています。

 一次予選4連勝、二次予選3連勝でリーグ入りを果たした屋敷四段は、余勢をかってさらにリーグでも米長邦雄九段、中村修七段を降します。その後は4連敗で、リーグ最終成績は2勝4敗に終わりましたが、フルシーズン参戦1年目の四段としては、おそるべき活躍と言えるでしょう。

屋敷四段、棋聖戦で快進撃

 1989年に屋敷四段が王将戦の他に快進撃を見せたもう一つの棋戦とは、第55期棋聖戦です。

 屋敷四段は一次予選では池田修一六段、劒持松二七段、小野敦生五段、佐藤義則七段、安西勝一四段に勝って5連勝で通過。

 二次予選では田丸昇七段、桜井昇七段に勝って2連勝で通過。

 合わせて7連勝で本戦トーナメント(ベスト16)に進出しました。

 1989年9月1日。屋敷四段は本戦1回戦で島朗竜王と対戦しました。屋敷四段先手で、戦型はひねり飛車。対して島竜王は角の利きをバックに守りの金を中央に繰り出す「凧金」で対抗しました。現代の目で見ると、なんとも昭和の風情が感じられます。

「ひねり飛車の受けに回って、序盤、中盤はうまくいったのですが、終盤強引な攻めに出て難しくなり、際どいところで逃げ切りました。運がよかったんです」

出典:「北海道新聞」1989年12月10日朝刊

 屋敷四段はそう振り返っています。そうだったのかと、いま筆者は現代のソフトでその一局を解析してみました。評価値の推移を見れば、屋敷四段は終始リードを保ったまま、島竜王を押し切っています。当時の屋敷四段はすでに、トップクラスと比較しても遜色のない実力の持ち主だったと思われます。

羽生善治六段、19歳0か月でタイトル戦登場

 棋聖戦本戦1回戦その対局の後、森下卓五段(23歳)と羽生善治五段(18歳)の間で竜王戦挑戦者決定戦三番勝負がおこなわれます。当時の森下五段は高勝率を誇る若手のトップクラスで、やはりいつタイトル挑戦、獲得をしてもまったくおかしくはない存在でした。

 結果は羽生五段が2連勝で森下五段を圧倒。島竜王への挑戦権を獲得します。

十代初のタイトル戦挑戦者となった羽生は「怪物的」といわれる勝ちっぷりを続けながら、将棋をゲーム感覚で楽しむ現代っ子だ。(中略)勝負の世界でトップの座を争う天才棋士は、今月27日で19歳になる。

出典:「読売新聞」1989年9月19日

 それまでのタイトル挑戦年少記録は20歳。1960年に加藤一二三八段(現九段)が名人戦、1967年に中原誠五段(現16世名人)が棋聖戦でそれぞれ達成したものでした。さらに詳しくいえば両者ともに20歳3か月。もっと厳密に日数まで割り出せば、加藤八段がわずかに早い。しかし以前の将棋界は現在と違って、そこまで細かいところまでは見なかったようです。

 竜王挑戦で昇段した羽生新六段は9月27日に誕生日を迎え、10月19日に竜王戦七番勝負が開幕した時点では19歳0か月。これが加藤、中原という両レジェンドを抜いて当時打ち立てられた、当時のタイトル挑戦最年少記録でした。

 それはもちろん、天才羽生六段だからこそなしえた大記録と言えるでしょう。そしてこの記録がほどなく更新されることになるとは、当時のほとんどの人は予想できなかったものと思われます。

屋敷伸之四段、17歳10か月でタイトル戦登場

 竜王戦七番勝負がおこなわれている間、棋聖戦本戦は進行していきます。

 屋敷四段は2回戦で桐山清澄九段と対戦しました。現在は豊島将之竜王・名人の師匠としてもよく知られる桐山九段は棋聖3期、棋王1期の実績を持つ当時のトップ棋士の一人でした。

 屋敷四段が先手で、戦型は相矢倉。中盤で屋敷四段が優位に立って、そのまま押し切りました。

 準決勝は塚田八段。前述の通り「55年組」の一人で、当時の二十代強豪の一人です。

 先手の屋敷四段がひねり飛車志向なのに対して、塚田八段がそれを拒否して、定跡形をはずれた手将棋となりました。「攻め100パーセント」と言われた塚田八段の前進を冷静に受け止め、屋敷四段が転じたあたりでは、形勢は屋敷優勢となりました。

 最後はただで取られるところに銀を放り込む妙手まで出て、塚田玉は受けなしに。華麗に寄せ切って、屋敷四段の勝ちとなりました。

 いよいよ挑戦者決定戦。屋敷四段の前に立ちはだかったのは高橋八段でした。こちらは実力者が実力通りに勝ち上がってきたというところでしょう。

 1989年11月27日。第55期棋聖戦挑戦者決定戦・高橋八段-屋敷四段戦がおこなわれました。

 振り駒の結果、先手番を得たのは屋敷四段。本戦ではこれで4局連続で先手番です。将棋は先手番がわずかに有利です。このあたり、屋敷四段は実力と勢いで運を呼び込んだのかもしれません。

 屋敷四段がオーソドックスな金矢倉に組んだのに対して、高橋八段は右玉の作戦を取ります。

 互いに間合いをはかりながら自陣で駒を組み替える長い中盤戦。屋敷四段は攻めの銀まで自玉の回りに引きつけ、金銀4枚の堅陣を築きます。その後で満を持して開戦。腰が重い重厚な棋風である高橋八段に対し、軽快なパンチを繰り出していきます。

 中盤で優位に立った屋敷四段は、的確な指し回しでリードを広げていきます。粘る余地を与えず、屋敷四段は137手で高橋八段を降しました。

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 屋敷四段はこれで棋聖挑戦権を獲得。2か月前に羽生六段が記録した19歳という史上最年少記録をあっという間に塗り替え、17歳でのタイトル戦登場を決めました。

 羽生六段の竜王挑戦は19歳と驚異的な早さではあります。しかしそれまで4年近くの活躍からしてタイトル戦の登場は、満を持してついに、という感じだったようにも思われます。

 一方で屋敷四段の棋聖挑戦までの期間は、四段デビュー以来わずかに1年2か月。C級2組四段の最年少棋士が、忍者のようなすばしこさであっという間に駆け上がってきた。多くの人の目には、そう映ったのではないでしょうか。

 屋敷四段が挑むのは、王座をあわせ持つ中原誠棋聖(当時42歳)。中原棋聖は言うまでもなく、タイトルを多数獲得し、一時代を築いた大棋士です。棋聖位だけでもそれまで15期。下馬評は圧倒的に中原有利でした。

 屋敷四段は開幕第1局を勝つなど、健闘しました。しかし最終的には中原棋聖に2勝3敗で敗れ、初挑戦でのタイトル獲得はなりませんでした。

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 1989年度の一番のトピックは、12月27日の羽生善治竜王誕生です。当時19歳2か月。これは当時、史上最年少でのタイトル獲得記録でした。

 ただし、屋敷四段の記録は現在まで語り継がれることになりました。将棋連盟のウェブページに掲載されている「平成の将棋年表」でまず写真が出てくるのは、当時17歳の屋敷四段。続いて19歳の羽生竜王です。

 藤井七段がもしタイトル初挑戦を果たせば、次に意識されるのは当然、最年少タイトルトル獲得記録でしょう。それは屋敷五段が2回目の棋聖挑戦で達成した18歳6か月です。

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将棋ライター

フリーの将棋ライター、中継記者。1973年生まれ。東大将棋部出身で、在学中より将棋書籍の編集に従事。東大法学部卒業後、名人戦棋譜速報の立ち上げに尽力。「青葉」の名で中継記者を務め、日本将棋連盟、日本女子プロ将棋協会(LPSA)などのネット中継に携わる。著書に『ルポ 電王戦』(NHK出版新書)、『ドキュメント コンピュータ将棋』(角川新書)、『棋士とAIはどう戦ってきたか』(洋泉社新書)、『天才 藤井聡太』(文藝春秋)、『藤井聡太 天才はいかに生まれたか』(NHK出版新書)、『藤井聡太はAIに勝てるか?』(光文社新書)、『棋承転結』(朝日新聞出版)、『など。

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