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将棋の棋士同士の対局で「負けました」と投了した後、相手の「二歩」が見つかったら、どちらの勝ちなのか?

松本博文将棋ライター
(画像撮影:筆者)

 まずはクイズです。以下は架空のシチュエーションですが、プロ公式戦の一幕とします。

 対局者はXさんとYさん。記録係はZさんです。深夜の終盤戦、Xさんはなんと二歩の反則をしてしまいました。

 記録係のZさんが、なぜだか一瞬のけぞりました。しかしXさんもYさんも、Zさんの様子には気がつきません。ほどなくZさんは落ち着きを取り戻し、秒読みを続けます。

 XさんもYさんも懸命に戦っています。そして秒読みに追われながら、冷静に深く読む余裕がありません。Xさんが打った二歩は、いつしか消えています。やがてYさんの玉が詰まされました。

 「負けました。うまく指されましたね」

 そう言いながら、Yさんは投了しました。

「いやあ、僥倖(ぎょうこう)でした」

 Xさんはそう言って額の汗をぬぐいました。対局が終わり、XさんとYさんが感想戦を始めようとしたところで、記録係のZさんがこう言いました。

「Y先生が投了されたから言いますけど、X先生は二歩を打たれましたね」

 XさんとYさんは「うひゃー」と飛び上がりました。言われてみれば確かに二歩です。さて、日本将棋連盟の最新(2019年6月に改訂)の対局規定によれば、この対局の結果はどうなるでしょう?

(A)Yさんが投了したのは間違いない。だからXさんの勝ち。(投了優先)

(B)棋譜が残っている以上は、Xさんが反則をしたのは確認できる。だからXさんの反則負けで、Yさんの反則勝ち。(棋譜優先)

(C)Xさん、Yさんともに、ちょっとどうかと思われるので、どちらとも負け。(両負け)

(D)どっちもどっちだし、新聞や雑誌に棋譜を発表しづらいので、ノーカウントにして最初からもう一局。(指し直し)

 答え合わせは最後ということにして、ここでは将棋で反則をどう扱うかについて、その歴史をたどってみましょう。

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反則即負けのルールと意識の浸透

 世の中には「やってはダメ」と言われながらも、具体的なペナルティなどが決められていないことがあります。実は将棋の反則は、かつてはそうでした。

 1958年6月1日。日本将棋連盟は新規定を定めました。当時の雑誌に掲載されているのは以下のシンプルな一条です。

 二歩や行所のない駒を打ったら負。王を取られたら負。

 以上です。いまとなってはごく当然のことと思えます。しかし反則はすなわち「負け」であるとはっきり定めたところが、将棋四百年の歴史において、実は画期的なことでした。

 そもそもアマが棋士の公式戦における規則に従うべきかどうかもはっきりしませんでしたが、この新規約については、賛否両論が起こりました。それまでの慣習からすれば、反則が即負けとは、厳しすぎると感じる人が多かったようです。

 ともかくも、反則即負けのルールは厳しくも簡明でした。そしてそのルールは次第に普及していきました。以後、反則即負けにともなう悲喜劇も、数えられないほど多く生まれました。

優先するのは投了か? それとも棋譜か?

 一方が投了した後で棋譜を並べてみたところ、もう一方の対局者の指し手から反則が見つかった。これは実際には起こり得ない、理論上設定された問題のようにも見えます。しかし将棋界の歴史は長く、そうした想定外のような事例も見つけることができます。

 1980年の高校選手権。女子個人戦では、埼玉県代表の中瀬尚美さんが注目されていました。中瀬さんは当時最年少の女流棋士であった中瀬奈津子さん(現在の藤森奈津子女流四段)の実妹で、優勝候補でした。

 中瀬さんは前評判通り、決勝まで勝ち進みます。そして決勝戦でも、相手が投了。前評判通り、これで優勝・・・と思いきや、そこで事件が起こりました。当時の雑誌には、次のように記されています。

話題の中瀬(尚美)さんさすがに強しである。ところが、とんだハプニングがあったのだ。検討のために棋譜を並べ直してみたときに、中瀬さんが桂で自陣の歩をとっていたことがわかったのだ。試合中だれもこの一手に気づかぬまま最後まで進められてしまったのだった。

出典:『将棋世界』1980年10月号

 実際にあるんですね、こういうことが。将棋では本当に、考えられないようなことが起こり得るものです。

 アマ大会では棋譜を取らないことが多いのですが、全国大会決勝のような舞台では、記録係がついて、棋譜が取られます。

 さて、こういう時には「投了優先」か「棋譜優先」か。ルールが明確に決まっていれば、もちろんそれに機械的に従うだけとなります。しかしよくもわるくも、伝統的にこういう点で曖昧なのが、将棋界です。おそらく当時の現場の運営側も、難しい判断を迫られたことでしょう。

 当時のことを実姉の藤森奈津子女流四段にうかがってみました。すると当事者の中瀬尚美さんは、勝負に執着はなく、もめる前に笑って自ら負けを認め、すっきり決着したそうです。これはなかなかできないことです。結果、勝敗は入れ替わって、相手の優勝が決まりました。

結局、中瀬さんの反則負けという判定となり、表彰の直前に順位が入れ替わることとなった。当の二人はもちろんのこと、何ともすっきりしない残念な終幕であった。

出典:『将棋世界』1980年10月号

 準優勝となった中瀬尚美さんは翌1981年、優勝を飾っています。

 以上はアマ大会で「棋譜優先」が認められたケースです。では棋士の公式戦ではどうでしょうか。

将棋連盟の規約ではこれまで「投了優先」だった

 日本将棋連盟では以前、次のような対局規定の抄録をホームページに掲げていました。

 第8条 反則

1. 対局中に反則を犯した対局者は即負けとなる。(※)

2. 両対局者が反則に気がつかずに対局を続行し、終局前に反則行為が確認された場合には、

  反則が行われた時点に戻して反則負けが成立する。

4. 終局後は反則行為の有無にかかわらず、投了時の勝敗が優先する(投了の優先)。

6. 対局者以外の第三者も反則を指摘することができる。

(※)は平成25年10月1日より暫定施行。

出典:過去の将棋連盟ウェブページ「対局規定(抄録)」

 そこでははっきりと「投了の優先」が明記されています。つまり、どちらかが投了した後は、対局中に何が起こっていようとも、反則が棋譜に記されていて後で発覚しようとも、投了が優先されるということです。

 公式戦で誰も反則に気づかないまま対局が続いていく、というケースは現実にはなさそうですが、実はこれも実例があります。

 2015年2月13日に対局された銀河戦本戦トーナメントFブロック▲高橋道雄九段-△安用寺孝功六段戦。高橋九段は3筋の3九に歩があるにもかかわらず、95手目で▲3五歩と打ってしまいました。これは二歩の反則です。しかし高橋九段はもとより、対局相手の安用寺六段、そして読み上げの女流棋士も二歩に気づかない。

 記録係の奨励会員氏は気づいていたものの、言っていいのかわからないので黙っていたそうです。対局者以外の第三者は反則の指摘はできますが、義務ではありません。(第三者の指摘の問題についてはややこしいので、また稿を改めて考察してみたいと思います)

 ともかくも、対局はそのまま進んでいきます。

 そして13手進み、高橋九段が14手目を指そうとしたところで、将棋連盟の職員氏が対局室に入り、二歩の反則を指摘しました。ここで対局は終了。さかのぼって高橋九段が二歩を指した局面まで戻って、高橋九段の反則負けとなりました。職員氏の指摘がなければ、終局までそのまま指し進められていた可能性は高いようです。

 ではこの一局。仮に最後まで指して、安用寺六段が投了していた場合、結果はどうなったでしょうか。それは当時の「投了優先」の原則通り、安用寺六段の負けになっていたことでしょう。

2019年、規約は「棋譜優先」に変更

 さて以上の知識があった上で、筆者は今年9月、ある将棋ファンの方のツイートを見て、ぶったまげることになりました。

 えええええ。どういうことなの。その詳細は『別冊少年マガジン』2019年10月号に掲載の漫画『将棋の渡辺くん』(伊奈めぐみさん作)に記してありました。

 筆者は『別冊少年マガジン』(ちょうど10周年記念号でした)を購入した上で、何度も読み返してみました。

「10周年記念号だからといってフィクションには成りません。いつも通りノンフィクション」

 欄外にはそう記されているので、これは間違いなさそうです。というわけで規則が変更された第一報は、ノンフィクション漫画『将棋の渡辺くん』でした。

 それからしばらくしてウェブ上で正式に規約変更が発表されました。

4. 終局後は反則行為の有無にかかわらず、投了時の勝敗が優先する(投了の優先)

 以上の旧規定は、以下の新規定に変更されています。

4. 終局後に反則が判明した場合には、終了時の勝敗に関わらず、反則を犯した対局者は負けとなる。ただし反則が判明する前に、同一棋戦の次の対局が始まった場合は、終了時の勝敗が優先する。尚、待ったや時間切れについては終局後の指摘は認められない。(*)

(*)は令和元年6月10日より施行。

出典:現在の将棋連盟ウェブページ「対局規定(抄録)」

 要するに、これまでの「投了優先」の原則が「棋譜優先」に変更されたということです。アマチュアのルール認識に影響を及ぼすことまで考えれば、かなり重大な変更のように思われますが、こうした変更がさらっとおこなわれるのが、将棋界流のようです。

 最近ではタブレットで棋譜を取ることが多くなりました。アプリ上の設定ではルールチェックがおこなわれるため、記録係が反則を見つけやすくなったという事情もありそうです。ただし、以前と同様に、記録係に反則を指摘する義務はないことに変わりはないようです。

 というわけで、冒頭の問題は、旧規定では(A)投了優先でXさんの勝ち。しかし新規定では(B)棋譜優先でYさんの反則勝ちということになります。

 さて、上記の変更はアマ大会のルールにも影響を及ぼすのかどうか・・・という点についてはまたややこしいので、いずれはこちらも稿を改めて考えてみたいと思います。

「勝負は下駄をはくまでわからない」

 という言葉があります。将棋界でもよく使われます。しかし実はこの言葉、古くからあるようで、そうではないようです。またその由来は、はっきりしないそうです。

 辞書編集者の飯間浩明さんは次のように考察されています。

 野球などの競技にはルールがあり、現実には、下駄を履いて帰る間際まで勝負がつかないということはありえません。一方、賭け事であれば、その可能性があります。

 サイコロ賭博で勝った側が「では、これで失礼」と下駄を履きかけます。その時、「客人、お待ちなせえ」と、主人が後ろから声を掛けます。「このサイコロ、イカサマじゃねえかい?」。これで勝負がひっくり返る。賭博ならそういう状況はあるでしょう。

 結論は出ないものの、「下駄を履くまで分からない」は、比較的新しい時代に、賭け事あたりから生まれたという解釈が、私には最も自然に感じられます。

出典:飯間浩明「分け入っても分け入っても日本語」

 なるほど、賭け事は下駄をはいて、賭場の外に出るまで勝ちが確定しない、というのは、そうかもしれません。

 では、将棋はどうでしょうか。現行のルールでは、投了だけでは勝ちは確定しないことになりました。将棋の棋士の勝負もまたやはり「下駄を履くまでわからない」と言って、間違いはなさそうです。

将棋ライター

フリーの将棋ライター、中継記者。1973年生まれ。東大将棋部出身で、在学中より将棋書籍の編集に従事。東大法学部卒業後、名人戦棋譜速報の立ち上げに尽力。「青葉」の名で中継記者を務め、日本将棋連盟、日本女子プロ将棋協会(LPSA)などのネット中継に携わる。著書に『ルポ 電王戦』(NHK出版新書)、『ドキュメント コンピュータ将棋』(角川新書)、『棋士とAIはどう戦ってきたか』(洋泉社新書)、『天才 藤井聡太』(文藝春秋)、『藤井聡太 天才はいかに生まれたか』(NHK出版新書)、『藤井聡太はAIに勝てるか?』(光文社新書)、『棋承転結』(朝日新聞出版)、『など。

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