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名人戦で現れた千日手のドラマ

松本博文将棋ライター

 2019年5月7日、8日。岡山県・倉敷市芸文館でおこなわれた名人戦七番勝負第3局は劇的な幕切れとなった。大熱戦の果てに、終盤では佐藤天彦名人が勝勢だった。しかし挑戦者である豊島将之二冠が放った渾身の勝負手に、名人は対応を誤ってしまう。最後は挑戦者の玉が詰まない一方で、名人の玉は受けなしとなった。以下は投了図である。

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 7三の「圭」は成桂(成った桂馬)を表す。先手(佐藤名人側)は▲4八銀と龍を取ると、後手(豊島挑戦者側)から△6八銀成と王手をかけられ、先手玉は詰まされてしまう。後手玉に迫るには▲6三馬と王手をかけるしかない。そこで後手は△9二玉(参考1図)と逃げる一手。

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 参考図では、先手は▲7四馬の王手以外に有効な手段はない。しかし後手に△8一玉と逃げられる。馬と玉の追いかけっこで、投了図に戻る。要するに投了図から両者が最善を尽くせば、▲6三馬△9二玉▲7四馬△8一玉・・・という、王手とその受けが、永遠に繰り返されることになる。

 以上を「連続王手の千日手」と呼ぶ。数多くの対局の中でごくまれに生じる、レアケースである。

 この「連続王手の千日手」は、江戸時代のはじめから現代に至るまでずっと、規定により、禁じ手とされてきた。王手をかける側は、どこかで手を変えなければならない。千日手は歴史的な経緯により、規定や解釈に変遷が見られた。しかし「連続王手の千日手」に限っては、ずっと禁じ手のまま変わらない。

 投了図では「連続王手の千日手」により、豊島挑戦者の玉が詰まない。手が変えられない以上、佐藤名人は投了する他にない。しかし、この一局は大逆転である。悔しさのあまり、同一局面4回に達する直前まで、王手を繰り返すこともできただろう。しかし佐藤名人は、そうしたことはしない。いつもの名人らしく、潔く投了した。

 奇跡的な局面は、両対局者が全力を尽くした際に現れる場合が多い。一手を争うギリギリの終盤戦で「連続王手の千日手」が生じると、それだけで名局の風格が漂う。現代の将棋界最高峰を争う場であれば、なおさらだ。この名人戦第3局もまた、棋史に残る名局として、後世まで語られる可能性は高い。

 ちなみに、王手がからまない一般的な千日手は、現代では同一局面が4回生じた時点で、引き分けとなる。今期名人戦第1局がそうだった。

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 ▲7一馬△5二飛▲6一馬△8二飛・・・という、馬と飛の追いかけっこ。こちらは王手がからまない、一般的な千日手における典型的な筋の一つだ。盤上では、しばしば見られる千日手が生じた。一方で盤外では、レアな規定が適用されることになった。

 千日手が成立したのは、1日目の15時2分だった。

 2日制の名人戦七番勝負では、1日目の15時を過ぎて千日手が成立した場合には、同日にはもう対局はおこなわれず、2日目から指し直し局が開始される。ほとんどの棋士・関係者だけではなく、両対局者さえも知らなかったという規定が、史上初めて適用された。

 1日目の最後には、手番側の対局者が次の手を用紙に書き、封筒に入れる「封じ手」が作成される。今期名人戦第1局では、その封じ手がなかった。2日制のもとで対局がおこなわれた名人戦では、初のケースである。

 以上、今期名人戦七番勝負では既に、千日手がらみだけでも、これだけのドラマが生まれている。

 3連勝と勢いに乗る豊島将之二冠が初の名人位に就き、王位、棋聖と併せて、三冠となるのか。それとも佐藤天彦名人が巻き返し、名人戦ではまだ例のない、3連敗後の4連勝を果たすのか。

 この先もまた、思わぬドラマが見られるのかもしれない。

 注目の第4局は5月16日・17日、福岡県飯塚市の麻生大浦荘でおこなわれる。

将棋ライター

フリーの将棋ライター、中継記者。1973年生まれ。東大将棋部出身で、在学中より将棋書籍の編集に従事。東大法学部卒業後、名人戦棋譜速報の立ち上げに尽力。「青葉」の名で中継記者を務め、日本将棋連盟、日本女子プロ将棋協会(LPSA)などのネット中継に携わる。著書に『ルポ 電王戦』(NHK出版新書)、『ドキュメント コンピュータ将棋』(角川新書)、『棋士とAIはどう戦ってきたか』(洋泉社新書)、『天才 藤井聡太』(文藝春秋)、『藤井聡太 天才はいかに生まれたか』(NHK出版新書)、『藤井聡太はAIに勝てるか?』(光文社新書)、『棋承転結』(朝日新聞出版)、『など。

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