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広辞苑にも記された名棋士8人

松本博文将棋ライター

 現在の日本において、権威ある、代表的な中型辞典として挙げられるのが、岩波書店から刊行されている『広辞苑』(こうじえん)です。限られた紙幅の中で、正確にして簡潔、要点を押さえた説明がされていることから、言葉の意味を示す際には、「広辞苑によると・・・」という形で、よく引用されてきました。その初版が発行されたのは、1955年。現在は、2008年に発行された第6版が最新のものです。

 そして、来たる2018年1月12日。岩波書店から『広辞苑』の最新版である、第7版が刊行されます。将棋ライターとして関心があるのはもちろん、将棋に関する、どのような項目が新たに掲載されるか、という点にあります。そこで、第7版が発売される前に、第6版に掲載されている、将棋に関する項目を整理しておきたいと考えました。

 2018年1月5日、現代の第一人者である、羽生善治竜王(永世七冠)が、囲碁の井山裕太七冠と並び、国民栄誉賞の授与が決まりました。羽生竜王の活躍はもちろん、最近に始まったことではありません。1996年の七冠同時制覇の際には、社会的なフィーバーとなり、その名は広く知られました。

 では、現在の『広辞苑』第6版に、井山七冠と羽生竜王の名前が示されているかというと、実はそうではありません。またおそらくは、第7版でも掲載されることはありません。なぜか。それは『広辞苑』の場合、日本人は、どれだけ著名であっても、存命中に項目が立てられることはない、という原則があるためです。

 では、囲碁、将棋、どれだけの名棋士たちが、広辞苑に項目を設けられているのか。筆者がアプリで検索してみた限りでは、以下の通りです。(○=囲碁、▲=将棋)

▲大橋宗桂(1555~1634、初代)

○本因坊算砂(1559-1623、「本因坊」の項)

○中村道碩(1582-1630、世襲名「井上因碩」の項)

○安井算哲(1589?-1652、初代)

○渋川春海(1639-1715)

○本因坊道策(1645-1702)

▲伊藤宗看(1706-1761、三代)

○本因坊丈和(1787-1847)

▲天野宗歩(1816~1859)

○本因坊跡目秀策(1829-1862)

▲関根金次郎(1868~1946)

▲坂田三吉(1870~1946)

○本因坊秀哉(1874-1940、「本因坊」の項)

▲木村義雄(1905~1986)

▲升田幸三(1918~1991)

▲大山康晴(1923~1992)

「えっ? あの棋士が入っていないの?」

 囲碁・将棋に詳しい人からは、そんな声が聞こえてきそうです。四百年の歴史の中から、囲碁8人、将棋8人。まさに、厳選リストと言えるのではないでしょうか。

 第7版で新たに加わる名前を予想するとすれば、囲碁界からは、昭和の棋聖、あるいは碁聖とも呼ばれた、呉清源(ご・せいげん、1914-2014)などが有力なのでしょうか。

広辞苑に誤りあり?

 これまでにリストアップした棋士の名前は、ほとんどが、『広辞苑』第5版(1998年)から登場したものでした。それらを改めて眺めているうちに、驚きました。

「あれれ、もしかして広辞苑、間違ってる?」

 そう思われたのは、次の項目です。(以下、引用中、漢数字を算用数字に直したところがあります)

いとうそうかん【伊藤宗看】

三代)江戸中期の将棋棋士。初名、印寿。将棋所の伊藤家三代目将棋宗家伊藤家始祖。7世将棋名人。鬼宗看と謳われる。著に詰将棋集「詰むや詰まざるや」など。(1706-1761)

出典:(『広辞苑』第6版)

 わかりやすい比較のために、やはり代表的な中型辞典である、『大辞林』第3版(三省堂)の記述を記してみます。

いとうそうかん【伊藤宗看】

(1)(初代)1618-1694 江戸時代前期、将棋三世名人。出雲の人。大橋本家で修行し、1635年に独立して家元伊藤家をおこし、のち3世名人となる。在野派の挑戦を退けた数多の争い将棋で有名。

(2)(三代)1706-1761 江戸中期、将棋7世名人。将軍に献上した詰将棋集「象戯図式」は難解かつ名作で、「詰むや詰まざるや」と称して有名。

出典:(『大辞林』第3版)

「何代、何世の誰とか、似たような名前が多くて、覚えられないんですけど」

 熱心な将棋ファンの間からも、そういう声をよく耳にします。将棋史はややこしく難しいものとして、敬遠されがちなのですが、それもある意味、仕方がないのかもしれません。

 現代の将棋史に関する記述の慣例では、将棋三家(大橋本家、大橋分家、伊藤家)の当主は○代。名人は○世と呼ばれます。

 将棋史上有名な「伊藤宗看」は、実は3人います。

 1人目は、初代伊藤宗看(3世名人)です。一般的には、この人が伊藤家の創始者とされています。また、大橋本家の初代宗桂(1世名人)、二代宗古(2世名人)の後、当時の将棋界の頂点に立ち、3世名人とされています。初代宗看は、数多の在野派の強豪を圧倒的な実力でねじふせ、名人の権威を確立しました。以後、伊藤家からは、数多くの名棋士が輩出されます。

 2人目は、三代伊藤宗看(7世名人)です。初代も強かったけれど、この三代目もまた、鬼のように強かった。数え23歳という、史上最年少の若さで名人位に就いた後は、詰将棋の創作に専念します。そして幕府に献上した百題の詰将棋集は、あまりに素晴らしかった。後世、この詰将棋集は「将棋無双」と呼ばれ、また、あまりに難解なことから、「詰むや詰まざるや百番」とも称されました。

 3人目は、六代伊藤宗看(10世名人)です。この人も江戸時代を代表する強豪ですが、ややこしくなるので、ここでは触れません。

 「伊藤宗看」について、『大辞林』では、1人目(初代)と2人目(三代)を併記しています。『広辞苑』では、2人目(三代)です。よって、『広辞苑』の「将棋宗家伊藤家始祖」という記述は、「1人目(初代)の経歴と混同した、誤りではないか?」と思われます。

 参考までに、大型辞典の『日本国語大辞典』第2版(小学館、略称:日国)を引き、さらにもう一度『広辞苑』第6版の記述を並べてみます。

いとうそうかん【伊藤宗看】

江戸前期の棋士。出雲の人。幼少のとき大橋宗桂に師事、のち3世名人となる。家元伊藤家の祖。元和4-元祿7年(1618-94)

出典:(『日本国語大辞典』第2版)

いとうそうかん【伊藤宗看】

三代)江戸中期の将棋棋士。初名、印寿。将棋所の伊藤家三代目。将棋宗家伊藤家始祖。7世将棋名人。鬼宗看と謳われる。著に詰将棋集「詰むや詰まざるや」など。(1706-1761)

出典:(『広辞苑』第6版)

 面白いもので、『日国』は1人目(初代)をピックアップしています。そして、『日国』に記してある通り、伊藤家の祖は1人目(初代)が正しく、2人目(三代)をピックアップしている『広辞苑』の方では誤り、ということになるでしょう。

 以上は、岩波書店の『広辞苑』編集部にお伝えしました。今後、チェックしてくださるそうです。第7版で記述が変えられるのかどうかは、うかがっていません。(※追記:今後、修正してくださるそうです)

 それにしても、初出は1998年です。代表的な辞書に記されている記述で、この20年の間、自分は何度か目にしたはずなのに、もっと早く気づくことはなかったのか・・・。将棋ライターとして、そんな思いに駆られています。

将棋ライター

フリーの将棋ライター、中継記者。1973年生まれ。東大将棋部出身で、在学中より将棋書籍の編集に従事。東大法学部卒業後、名人戦棋譜速報の立ち上げに尽力。「青葉」の名で中継記者を務め、日本将棋連盟、日本女子プロ将棋協会(LPSA)などのネット中継に携わる。著書に『ルポ 電王戦』(NHK出版新書)、『ドキュメント コンピュータ将棋』(角川新書)、『棋士とAIはどう戦ってきたか』(洋泉社新書)、『天才 藤井聡太』(文藝春秋)、『藤井聡太 天才はいかに生まれたか』(NHK出版新書)、『藤井聡太はAIに勝てるか?』(光文社新書)、『棋承転結』(朝日新聞出版)、『など。

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