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アニメに評論は必要か? 藤津亮太さんとの対談を通じて考える

まつもとあつしジャーナリスト・コンテンツプロデューサー・研究者
(撮影:三面輝)

日本のアニメーションは多様化と細分化が進み、国内のファンでも全体像や作品の構造が見渡しにくくなっている。海外でも本来の価値が十分伝わっているとは言えない状況だ。そうした現状において、アニメの表現や文化を豊かにするための「共通の理解」の場を作るーー。それが「評論」の役割の一つと言えるだろう。

商業・個人を問わず、多くの書き手による多種多様な評論が共有され、豊かな作品が生まれるための空間を成立させるにはどうすれば良いのか? この答えを探るべく、『ぼくらがアニメを見る理由』などの著作があり、アニメ評論の第一線で活躍する藤津亮太氏との対談を行った。

アニメ評論は「無い」のではなく、そう見えるだけ

藤津(以下、藤):まず「アニメの評論が少ない」と言われるわけですが、何と比べているのか、ということが気になります。恐らくなんですが、映画とか小説となんですよね。

まつもと(以下、松):わたしの認識もそれに近いです。

藤:それで言うなら、それなりにボリュームがあるはずの「テレビドラマ」に対しても、評論が充実しているという印象はないですよね? 最近はWEBで増えつつありますけど、雑誌などでの展開はドラマの数に比してはむしろ少なかった。

松:たしかにそうですね。

藤:つまり、視聴者が番組を選ぶ際、評論を頼りにしていないってことだと思うんですよ。ひとくちに評論といってもいろいろ幅があるので、ここではレビューを入り口にしながら話をしていきますね。まず、テレビアニメもドラマも無料で見ることができますが、無料の作品って意外にレビューが成立しないんですよ。アニメの中でも有料商品、例えばOVAについては、雑誌「アニメージュ」でもレビューコーナーが一応ずっとあるわけです。

アニメはたしかにタイトル数こそ増えましたが、マンガに比べればやっぱりアクセスも一気見もしやすい。話題作の第1話をネットで見て、面白ければそのまま12話全部見ちゃう、なんてこともできるわけです。つまり、レビューに頼らず自分の目で作品を確かめることができるんですよ。

劇場アニメ映画についても、『ドラえもん』や『名探偵コナン』などの定番ものが中心。内容の善し悪しで判断されるというより、「やっぱりこの時期はこの映画だよね」という習慣(ルーティン)で見られているのだと思います。「定番もの以外」の独立したアニメ映画がここまで増えたのは近年のことなので、レビュー文化が生まれる素地も薄かったんです。

松:先日掲載された「ねとらぼ」のインタビューでは、かつては批評も積極的に掲載してきたアニメ誌が、ある時期からより「ファン向け情報」に路線変更した、という指摘もされていました。

藤:はい。現状でいえば、ファンが購入することによって成立している以上、ファンの気持ちに沿わないような記事は載せたくない、というスタンスの媒体が多いせいでしょうね。

アニメ宣伝は「ナイーブ」

(撮影:三面輝)
(撮影:三面輝)

松:「評論」と話が混ざらないように気をつけなければいけないのですが、私はジャーナリストという肩書でアニメなどの業界関係者にインタビューする仕事を10年以上続けてきました。その中で課題だと感じてきたのが、宣伝活動についての「ナイーブさ」。地の文(著者の考えを述べる部分)で作品や取り組みに対して批判・提言のような表現が書かれてあった場合、権利元の原稿チェックの段階でNGが出ることが非常に多い。作品画像など版権の提供を盾に取っているのであれば強権的だし、逆に作品をそうまでしても守ろうという、ある意味でとてもナイーブであることの現れでもあり。いずれにしても「ジャーナリズム」との相性が悪いんです。

藤:たしかにそうかもしれません。「宣伝」と「広報」の区別がついていないのかも。作品の「ブランド」を守ることと、第三者からの見え方を揃えていこうとすることは、本来全然違うアプローチのはず。でも、そうしなきゃダメだという発想のみで、ブランドの維持をしようとしています。

松:ジャーナリズムと評論は別物である一方で、批判・批評の取り扱い方を巡る部分では共通項も多いと思っています。そして、そこから生じる評論の「層の薄さ」が、海外で日本のアニメがある種「エスニック(民族的)」なものとして捉えられる原因の1つになっているのではないかと。

藤:基本構造はそうだと思います。でも、そこには気をつけないといけないポイントがあります。日本のアニメの大部分を占める「テレビアニメ」作品が、海外の作品と同じ土俵に並ぶこと、競争をすることを意識して作っているのか、という点です。

松:近年の劇場アニメ映画ブームもあり、それらの作品が海外の賞レースに加わるということも増えていますので、僕個人はそういうイメージですね。

藤:なるほど。とはいえ、「世界商品」を作る努力や評論があること、もっと言えばエンターテイメントビジネスを上手く回すということも含め、僕の中では全部位相が異なる別物だと捉えています。まつもとさんは、それらを架橋(ブリッジ)するものとして、批評空間があるべきではないかと考えているわけですよね?

作品と市場を「架橋」する評論

松:そのとおりです。国内では評論の存在感はとても小さくなっていますが、やはり藤津さんが取り組んでいるような、アニメの輪郭、それを明らかにするための内部構造の読み解きというのはとても大切だと思っています。

藤:まあ僕が止(や)めてないだけだ、という話でもありますけどね(笑)

松:現状認識としては、まずニーズがない。批評がこれらを架橋する存在になってなくて、そこには歴史的な経緯とか、媒体としての理由もあるというのは分かるのだけど、根本的にはそれで片付けてしまってよいのか、という問題意識があります。理想論を述べているのだという自覚はありつつ、批評空間が整い、例えばそれが英語で発信されているような環境になれば、海外での日本のアニメの受け止め方も変わるはずです。「なるほど!こういう風に見ればいいんだ」と。

藤:作品コンテンツの「輸出」を考えた時に、その文脈(コンテキスト)を伝える批評が有効だということですね。そこが機能すれば、「向こうの文脈」に沿った作品作りや宣伝をしなくて済むようになる可能性もあると。

松:いまはそれがほとんど無いため、作品を評価しようにも難しさがあります。エスニックという言葉を挙げましたが、まさに「これどうやって食べたら良いの?」みたいな。海外もそうですし、国内も昔に比べたらずっとマシになりましたが、それでもわたしのように「大学でアニメを教える」というアプローチを取ろうとすれば、周りからは奇異の目で見られてしまうこともあります。藤津さんが提供されているような「読み解き方」が拡がることは、アニメビジネスが拡がることにもつながっていくわけで、「ニーズがない」では絶対に片付けて欲しくないことなのです。

藤:問題は、何をインセンティブにしてその回路を回すかですね。媒体のやる気を問うということで良いのか、という点は気になります。もっと地に足がついた議論が必要ではないかと。

松:自分はアニメ産業側に居たこともある人間なので、仰ることはわかります。「巡り巡って利益になる」というところをどう納得できるか。

お手本は「アートサーキット」

(撮影:三面輝)
(撮影:三面輝)

藤:参考になりそうなのが、美術の世界です。そこには、芸術家が作品を作り、キュレーターや評論家がそれを読み解くことにより、そこに金銭的な価値が生まれ作品に値段がつくという「回路」があるわけです。日本の現代アートが高く評価されているような海外のアートサーキットに出て行くと、「なるほど君たちはそういう議論をしているのか。では俺はこういうものを作ってきたぞ」と、どんっと作品を出す。そんなふうに解説してくれた日本の現代美術家もいます。彼らの論評の上をいく「こういうもの」を出せるのか、という部分は、もちろん才能・能力に依るものです。

あるいは、ハリウッド映画に代表されるような「世界商品」として映画を作るのは、1つのアプローチとしてあり得るでしょうね。ただ、日本のテレビアニメのような国内市場向けの作品ではドメスティックになりがちで、やっぱり世界商品になりにくい。じゃあ何が必要なんだと言えば、僕はそういった批評を読み解き、「じゃあ(ハリウッドが幅を効かせる海外サーキットで)日本人に何が作れるのか」という問題を自ら解いていくクリエイターであって、評論家ではないような気もするんです。

松:なるほど。

藤:日本でも多くの芸術家は、大学などの教育機関で評論とセットでクリエイティブを学ぶわけです。ところがアニメ業界では、そういう人は決して多くはない。そういう人がいたとしても、いわゆる「作家性」は、オーダー・企画ありきの集団制作現場では、つまりテレビアニメの現場では薄まっていってしまうものですからね。

松:個人、あるいはそれに近い規模での制作体制も幾つか生まれてきてはいるけれど、今度は逆に、海外のサーキットでどんな議論が行われているのかをキャッチする必要があるわけですね。そういうクリエイターが増えればベストだと。

藤:アートサーキットほど評論度合いは高くなくてもいいんです。アクション映画の爽快感とかシンプルなドキドキハラハラの楽しさそのものに対し、評論は多分それほど要らないですし、それに則った作品は作れるんですよ(笑)。ただ、高くなくてもいい一方で、作り手には「評論的視座」が絶対に必要です。作り手自身がそれを持っていればベストですが、そうでなくても、それをうまく伝えられる役がいればいい。それが「プロデューサー」だと思うんですよね。

作ったことがない人間が、作った人間に対し「評論」という形で何かを伝えても、やっぱり伝わりません。商業原稿を書いたことが無い人に色々言われても、一読者のご意見ですね、とならざるを得ないのと同じです。作り手は、一意見としては耳を傾けるかも知れないけれど、自分の作品のここが課題だ、というのは当人が一番分かっているわけですから。

松:そこは頷ける部分と、本当にそうかなと思う部分があります。伝わり方ということかもしれませんが。評論に関する教育を受けたことがある人が少ないという、アニメ業界ならではの問題はありませんか?

藤:アートと異なり、クリエイティブを集団的に行っているという点において、映画とアニメは共通していると思います。

だから映画もほぼ同じで、映画はアニメより批評空間が存在感はあるけれど、作り手にさほどフィードバックされていないと思っています。評論がフィードバックされやすいのは、例に挙げた現代美術や、小説などのように個人の制作で作品がほぼ完結しており、第三者があまり関与していないものに限られるでしょうね。アニメも、監督がクリエイティブに全責任を負う形ではありますが、実際には「大人の事情」があり、本当はこうしたかったという部分も決して少なく無いはずですから。

松:納期も厳しいテレビアニメは特にそうでしょうね。

藤:物量も多いですから、監督は狙いを大きく外してなければOKを出している場合が当然ある。そこに対し、評論家が「ここは外れている」と言ったところで、正面からは受止められないですよね。評論そのものは一杯あったほうが良いと思うし、「ここが良かったから当たった」という評価はフィードバックされやすいと思う一方、「ここが足りなかった/間違ってた」という評価は、なかなか現場にフィードバックされるものではないと思います。

「天気の子」はなぜ海外で賞を逃した?

「アヌシー国際アニメーション映画祭」DeborahForsans - CC 表示-継承 4.0
「アヌシー国際アニメーション映画祭」DeborahForsans - CC 表示-継承 4.0

松:一方で個人制作を出自とする新海誠監督のようなクリエイターも生まれています。藤津さんが評論集『ぼくらがアニメを見る理由』で言及されていたように、新海監督は作家性を突き詰めた小品と、集団制作で作る劇場作品の両方を手がけているわけですが、そこから生まれた『天気の子』がアニー賞で無冠だったというのが、やはり私にはショックだったのです(参考記事)。米国での評価も概ねポジティブではあるものの、全体に読み解き方に苦労しているという印象でした(参考記事)。

藤:日本のアニメーションが海外で賞を獲るのはハードルが高い、と個人的にはずっと思っています。かつて『千と千尋の神隠し』が長編アニメ映画賞を獲れたのは、対抗馬が弱かったという「運」も影響していたはずです。

松:『天気の子』は国内外でその読み解き方が異なっており、共有されている感がなかったことも印象的でした。海外では、気候変動から物語を読み解こうとしていたのに対し、日本では……。

藤:そうですね、インタビュー等を見ても、海外では気候変動を第一に質問している感じです(参考記事)。

松:その通りです。

藤:でもそれについては、海外向けのプレスリリースの作り方のほうが大事じゃないかなとも思います。そのほうが評論を経由するよりも、ダイレクトじゃないでしょうか? プレスリリースがしっかりしたものであれば、評論の有無やその内容はまた別の次元の問題になってくる。名も無い作品がやってくるならさておき、多くは鳴り物入りで乗り込んできた作品なわけですから。

松:なるほど。ただ冒頭で藤津さんが仰ったように、アニメ産業において広報と宣伝が区別されていないという問題がある以上、そこで良いプレスリリースが作られているのだろうか、という別の疑問が生じます。いわゆる「宣伝マン」(※女性の活躍も増えており本来別の表記を用いるべきだが、業界の通称ということでこの表記を用いています)が、集団制作の価値観から離れたところで、「この作品はこういう角度から評価されるべき/はずだ」という感度を本当に持っているのかどうか、という疑問です。

藤:仰る通り、その通りなんです。それこそ、映画の評論家には「宣伝マン」出身の人がそこそこ多いという過去の歴史からもそうで、評論的視座は重要になってきます。一方、それもそれで難しいところがあって、例えば先ほどの『天気の子』を、「これは温暖化を見据えた作品だ」と宣伝マンに持ってこられても困ってしまう。なぜなら、あの作品は温暖化問題そのものを扱っているわけではなく、「世界がなにか沈み込んでいく方向に進んでいる」という気分としての雨なので。

松:なるほど。国内で注目された「格差」の視点も踏まえると、「気候変動も進む中での社会の分断」というテーマを切り口にしたほうが、物語の趣旨にも沿うし普遍性もあるのかもしれません。

藤:僕はそう思います。単純に気候変動に反応するのは、それは評論ではなく「見出しになりやすい」とかの記者的な発想で書いているという感じしかしないのです。あくまで気候変動は入り口であって、科学的な事象だけを取り扱っているわけではなく、世界がこうなってしまうんじゃないかという「われわれの気分」を象徴しているものであり。でもそれを主人公たちは気にせず、自分たちの問題を解決していこうとしていく……という文脈をプレスリリースで作るのが第一だと、僕は思います。そこに対して評論的な視座が必要だというのであれば、それは全くその通りだと思います。

松:批評そのものというよりも、求められるのは「批評空間」という環境であることが、藤津さんのお陰で明確になってきたように思えます。評論的な視座を持つ「宣伝マン」、監督などクリエイティブを司るクリエイター、そしてプロデューサー。各々が自らの作品を批評的にも語ることができる、あるいは批評を(程度の差はあれど)受容する、そんな環境なのだと思います。

藤:スタジオジブリのプロデューサー・鈴木敏夫さんがインタビューを受けるのが上手いのは、ダイレクトに興行成績に結びつくかどうかではなく、作品に対して評論的な視座で語っていることが多いからだと思います。そしてそれは、やっぱり作品の評価に対し、一定の効果を生んでいると思うのですよ。

日本のアニメを巡る評価はもう少しで変わってくる

松:鈴木さん自身、もうある種の第三者性を備えたメディアみたいな存在ですしね(笑)。別の作品のケースも少し考えてみたいのですが、例えば『この世界の片隅に』はどうでしょうか? 個人的には海外でもっと評価されて欲しい作品ではあるのですが、戦時中の日本、それも戦地や被爆地ではなく呉市が舞台という点で、海外の視聴者には読み解きが難しくなった作品の1つだったと思います。

藤:そういう前提が多く必要な作品であるほど、評価を受けるのは難しいと思います。もともと日本は世界から見ればローカルであり、世界の中心ではありません。だからエスニックな郷土料理として勝負したほうがよいと思うんです。アニメだと「テクノ・オリエンタリズム」みたいな。

松:やっぱり、いつまでも日本アニメ=『AKIRA』や『攻殻機動隊』だと……?。

藤:もう少し時代が進めば変わってくると僕も思ってはいますが……(笑)。余談ですが、例えば配信プラットフォームの「クランチロール」が、テレビ東京などと組んで公式配信を開始してから約10年。開始当初はティーンだった視聴者が、「日本アニメとはこうだ」という価値形成に、決定権を持つような年代になってきます。そうなれば、「いやいや女子高生がゆるふわしたり、異世界で格闘したりするものこそが日本アニメでしょう」という世代交代が起こるはずです。それで賞を取れるかといえばまた別問題ですが、日本アニメはより愛される、そしてビジネスになるコンテンツへ変化していくと思うんです。

松:そういう変化の中にあって、藤津さんのような評論家の「作品の輪郭を明らかにする」、そしてそのために「作品の構造を明らかにする」という作業は、やはり重要だと思います。

藤:僕の最終的なゴールは、大げさにいうと「読者のリテラシーをレベルアップする」なんですね。読者=視聴者・観客のリテラシーが上がれば、作品を面白く見られるようになる。これはアニメに限らず、あらゆるファンに通じることなんですが、「好きなアニメがある」ことと「アニメというジャンルが好きだ」ということは別物です。僕は、好きなアニメを入り口にして、ジャンルそのものを好きになって欲しい。だからこそ、「なるほど、そういう風に楽しめば良いのか」という引き出しをまずは増やしたい、というのが僕の方法論なんです。

松:わたしの言葉で変換すると「視聴者も含めた批評空間を形成していこう」ということになりそうですね。だから、その質を上げていこうと。SNSで「作画崩壊!」とか喜んでいるうちはダメだぞ、と(笑)。

アニメが批評空間を形作るために

藤津氏の評論集「ぼくらがアニメを見る理由」
藤津氏の評論集「ぼくらがアニメを見る理由」

藤:もちろん、それもファンの楽しみ方の1つではありますが(笑)。ただ、もうちょっと複雑な楽しみ方をしたいという人は一定数いるわけです。そういう人たちが作品について、面白い/つまらないだけではない、別の楽しみ方を見つけ出すことの手助けをしたいんです。ヒントを提供するとかに近い感覚で、僕は原稿を書いていますね。そうすれば複数の作品・アニメシーン全体を、複雑に楽しめるようになる。だから、あえて作り手の名前もほぼ出さないように書いてるんです。

松:『ぼくらがアニメを見る理由』でもそうでしたね。

藤:評論が海外賞レースも含めた評価につながる、あるいはビジネスに貢献するという回路までは念頭になく、まずはそこからという感じでした。その回路があった方がよいというのはそのとおりだと思うんだけど、それを成立させるにはどこから手を付けるか、という問題だと思います。僕の場合はまず評論の担い手を増やすことで、ファンの間でもう少し多様なアニメの楽しみ方をする人を増やしたい、というのが第一なんですね。

松:そのためには、やはり商業媒体が評論をもっと取り上げたほうがいいのではないでしょうか?

藤:それはもう、時間によって解決するしかないことだと思っています。どこかの媒体で定期的に、評論が賛否両論含めて一定のボリュームで掲載されている、という状態を当たり前にしていくしかない。ただ、それを実現するには、評論のニーズが高まるオリジナルアニメの玉(本数)がまだまだ少ないのが現状です。無料で見られるテレビアニメではニーズがないため、もしかしたらファンもそれを望まないかも知れないけれど、媒体と書き手が「強い気持ち」で書いていくしかない。そこに経済的合理性はありません。僕の連載『アニメの門』がいろんな媒体で続けることができたのは、ニーズの薄さゆえに、同様のものが作られてこなかったからだと思っています。

松:短期的には経済合理性はなくとも、翻訳なども通じて長期的な蓄積があれば「価値」は出てくると考えています。配信のおかげで、海外のファンが日本のアニメにアクセスできるチャネルは圧倒的に拡がった。でも、彼らがそこからアニメの楽しみ方を拡げる手がかりとなるような情報は、まだまだ少ない。クランチ―ロールも元々海外アニメファンによるSNSファンコミュニティだったわけですが、そこで交される「感想」は、国内同様ジャーゴン(外部からは訳がわからない言葉)だらけで、ファン同士のつながりを強めることはあっても拡がりを生むものではありません。

藤:これまでのクールジャパン政策にはもどかしい思いが強いのですが、今後はもっと「文脈の輸出」に力を入れて欲しいと思います。大英博物館で昨年行われた「マンガ展」はその良い例で、キュレーターがマンガ単体ではなく、マンガがある「シーン」全体の文脈を読み解き、会期終了後もその図録が長く販売される形式でした。会期中は展示だけでなく、作者と共に作品とその周辺を読み解くレクチャーもたくさん実施される。それは批評空間というより、批評的視座を持つための「知識」が共有されている空間ということなんですよね。

松:アニメでも、そういう取り組みが継続的に行われるようになるといいですね。

藤:文脈を輸出するなら、一個一個のレビューではなく、絶対にそちらなんですよ。批評的視座とそのための知識共有。僕はなるべくちょっとずつやろうと思っているんだけど、やっぱり1人でやるのは限界がある。

松:そもそも論で言えば、メディアはそういう活動を支える側の存在であってほしくて、「儲からないからやらない」というのは、メディアとしてどうなんだという気持ちがあります。出版にしてもウェブにしても、はじめは儲からないけど突き詰めていった結果として、いまがあるわけで。

藤:それは仰る通りなんですが、特にウェブ媒体は本当にカツカツな感じなんですよね(笑)。でも、「人」か「場」かといえば、本当は場があるのが先だと思います。書けそうな人を探して、その場で何回か書いてもらっているうちに上手くなる、となればいいので。たとえば毎月2,000文字以上のレビュー書く人が10人いる、という場があるだけで、全然状況は変わってくると思います。

松:絶対そうだと思います。

わたしがいるアカデミック(研究)の世界では知識共有の作業が少しずつ始まっていると感じますが、日本のアニメの全体感からすれば、まだまだ全く足りないと思います。また、そのせいか、海外の研究論文の査読をするとしばしばとんでもない事実誤認に頭を抱えることもあります。とはいえ商業の分野において、当面はニーズとの不整合のために評論・批評的視座を持つための知識共有を果たせる活動が成立しづらいということであれば、それをアカデミックの分野が負うところは大きくなると言えそうです。

藤:アカデミズムの世界では、過去発表された論文を参照しながら研究するというのが作法ですが、採算の取れないメディアは記事と共に消えてしまうこともあります。だから僕ら在野のライターの記事=不完全な感じで作った見取り図は渡すので、精度を上げて完成させてほしい、という気持ちがあるわけです。

松:商業媒体だと、速報性、コスト、ニーズという制約もありますからね。

藤:何よりも、自分の経費で調べられる範囲に限界があります。これ以上やると生活が犠牲になるな、という。文化庁が3年にわたって研究者と「研究の手引き」を整備しましたが、まさに「批評的視座の白地図」を参照できるようになったなと思うんです。そこからの引用によって、さらに批評的視座を持つ人たちが増えてくれれば良いと思っています。

松:藤津さんが言った「時間が解決する」というビジョンは、まさにこういう感じなのですね。アカデミズムの世界で知識の体系化と蓄積が行われるようになれば、商業の批評がカバーできてないところも埋まるようになる。

藤:さらに言えば、そういったものを土台に学ぶ人が増えれば、先ほどいった批評的視座を持つ作り手(クリエイター)・送り手(プロデューサー)が増えてくるはずだ、という期待もあります。僕たちは一応美術の授業で、「歴史のなかで美術表現はどう変化してきたか」といったことを学んでいるわけで。僕なんかは「そうなのか」と大いに刺激をうけた人間なのですが、そういう感じで「日本のアニメのヤングアダルト性とは何か?」とか「リアリスティックな感じはどこから来たのか?」みたいなこと、もっとを学べた方が良いと思うのです。

松:あるいは批評的視座を持つ「宣伝マン」とか。

藤:そう。そう考えていくと、時間が解決するといってもあと20年くらいはかかりそうだなと思っています(笑)。

松:われわれとっくに引退しているか、あるいはもう生きていないかもしれない(笑)。

藤:そう(笑)。でも僕は、希望を捨てずに活動を続けようと思っています。そのくらいの長い道だと思わないと、批評とクリエイティブの良い関係は築けないと思っているからです。

松:なるほど、よくわかりました。今日は長時間ありがとうございました。

(撮影:三面輝)
(撮影:三面輝)

日本のアニメ、特にテレビアニメは批評が成立しづらい。商業媒体という場にそのニーズがなく、評論空間の層が薄い。そのことが劇場アニメの読み解きにくさ、そして海外での評価の低さにつながっている。クリエイティブの現場にはネガティブな評論は届きにくいものの、批評的視座を持ち合わせた「送り手」が増えることは、日本のアニメの発展のためには欠かせない。商業・学術の分野でまだまだ出来ること、やるべきことは沢山あるということが藤津氏との対談で確認できたと思う。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人の企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、編集部が一定の基準に基づく審査の上、取材費などを一部負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています。】

ジャーナリスト・コンテンツプロデューサー・研究者

敬和学園大学人文学部准教授。IT系スタートアップ・出版社・広告代理店、アニメ事業会社などを経て現職。実務経験を活かしながら、IT・アニメなどのトレンドや社会・経済との関係をビジネスの視点から解き明かす。ASCII.jp・ITmedia・毎日新聞経済プレミアなどに寄稿、連載。デジタルコンテンツ関連の著書多数。法政大学社会学部兼任講師・デジタルハリウッド大学院デジタルコンテンツマネジメント修士(プロデューサーコース)・東京大学大学院情報学環社会情報学修士 http://atsushi-matsumoto.jp/

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