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「説明不足が原因?」邪神ちゃん富良野コラボ騒動から考える地域とコンテンツの関係

まつもとあつしジャーナリスト・コンテンツプロデューサー・研究者
「邪神ちゃんドロップキックX」公式サイトより引用

自治体が制作を委託→議会が予算不認定→製作側の反撃

また地域とコンテンツの関係が問われる事案が起こっている。富良野市が3000万円で制作を委託した『邪神ちゃんドロップキックX』第9話「富良野に潤むラベンダー色の瞳」の内容が不適切であるとして、市議会がこの予算を不認定としたのだ。詳細はこちらの記事などに詳しいが、これまでも切り抜き動画の収益を投稿者と分配することを公式にアナウンスするなど「攻めた」施策を採ってきた製作委員会はこれに反撃する形で、該当エピーソードの期間限定無料配信を実施すると共に、「イメージアップにつながるか否か」を問うTwitterアンケートを実施した(結果は公式アカウントから以下のように公表済み)。

もちろん(それこそイーロン・マスク氏が自身のアカウントで行ったトランプ前大統領のアカウント凍結解除のアンケートがそうであったように)、作品へのファンが多いと推測されるアニメ公式アカウントでのアンケートには強いバイアスが掛かるため、一般層の意識変化を示したものではない点には注意が必要だが、少なくともファンにはポジティブに受止められていることが分かる。

一連の騒動に対して「自治体や地域の関係者への説明が不十分ではなかったのか?」という指摘もある。代表的なものはReal Soundのこちらの記事「【独自考察】アニメ『邪神ちゃんドロップキックX』内容不適切!? 富良野市問題から浮上した「聖地巡礼」の幸せな結末」になるだろう。この様な指摘は同様の問題が起こると必ず出てくるもので、一見妥当で穏当なものに見える(特にこの記事の筆者は原作者を起用したポスター展開で成功を収めており一定の説得力がある)が、筆者はこのような指摘は表現の選択肢を狭めるばかりか、多くの場合残念ながら地域にとっても利益にならないと考えている。以下にその理由をまとめておきたいと思う。

足らなかったのは「説明」ではない

上記記事では「地域の有力者への挨拶や面会を繰り返すなど、東京とは違った感覚でプロジェクトを進める必要がある」と指摘する。新潟で地域社会と向き合う筆者としてもこの点は同意なのだが、それが「アニメの趣旨や内容を説明するなど、十分な根回しが行われるべきだった」とまで踏み込むと、果たしてどうなのだろうかと考えてしまう。

地方では高齢層を中心にまだまだ「アニメ・マンガ・ゲームは教育に良くない」という旧態依然とした考え方も根強い。実際、わたしも勤務先の大学での様々な場面でそれを実感するのだが、そのような考えを持つ「有力者」――今回の例で言えば予算承認の責任者に果たして作品の本質が理解できるのかと言えばかなり難しく、説明を尽くしたところでせいぜい「分かった、お前のことは信用するが、この作品のこの表現はダメだ(直せ)」というあたりが関の山ではないかと思う。

つまりそうした地域への丁寧な説明・根回しの結果、表現・クリエイティブが穏当なものになってしまっては元も子もないということだ。こちらのインタビュー記事(『邪神ちゃんドロップキックX』は本当に不適切なのか? ピンチをチャンスに変える即断行動の理由を聞く)の以下のコメントにもあるように「スラップスティックなドタバタ劇」という作品の魅力が損なわれてしまっては、いわゆる「聖地巡礼」の起点となるファンの支持は得られないのは自明だ。

『邪神ちゃんドロップキック』はギャグアニメです。ギャグアニメの源流はスラップスティックという体を張ったドタバタ劇にあると思うのですが、映像の目的は視聴者に笑ってもらうことで、そのためには様々な面白表現をしていきます。今回の場合であれば、借金に追い詰められた邪神ちゃんが、普段は天使のように優しいメデューサに「邪神ちゃん、内臓売ろ?」と真顔で提案され、鼻水を垂らしながら「え?!」と衝撃を受ける様子が面白さのもととなっているのですが、これは臓器売買を推奨しているわけではありません。

例えば丁寧に「借金に追い詰められた登場人物が臓器売買を提案します」と説明して、普段からそういったコンテンツへの愛着がない「有力者」が納得をするだろうか? 成功事例として紹介される『ガールズ&パンツァー』でも、高校生が操縦する戦車が、街中を破壊しながら戦いを繰り広げるが、放送後のファンによる熱心な来訪(=経済効果)と住民との交流があってはじめて地域の理解が拡がった経緯がある。

地域で暮していて実感するのは、コンテンツに対する驚くほどの世代間格差だ。そこには深い断絶があるといっても過言ではない。よく関係者の間でため息交じりに語られる皮肉として「アニメ・マンガを支持する政治家は、果たして手塚治虫の暗黒面が表出したような作品も支持しているのか」という話があるが、地域の有力者の方々に例えば『チェンソーマン』を示して、受け入れられるかどうかを問えばどうなるか。結果は自明だ。(まさにこの作品は「持つ者と持たざる者の格差」と、従来の価値観=正義感でななく「生への本能的欲望」と暴力でその格差を埋める点も大きな魅力となっている)。一枚絵のポスターと異なりアニメコンテンツにはファンと共有された読み解きの文脈(≒物語)があり、ファンとその他のコミュニティ、特に高齢層との間には超えがたい断絶があることを認めた上で、地域とコンテンツのコラボは設計される必要がある。

筆者が取材した『ガールズ&パンツァー』の企画立ち上げの経緯(ASCII.jp:ガルパン杉山P「アニメにはまちおこしの力なんてない」)では、地域のごく限られた人数の地域の若手経営者と作品プロデューサーが毎週のように開いた会合(通称「コソコソ作戦」)で「このアニメで最初から町を巻き込むことはしない」という方針のもと準備を進めていたことが明かされている。「個別の作品について私たちは評価する立場にはない」という前置きはあるものの、尖った表現が若い世代を中心に支持を集めることも多いアニメの展開において改めて参照されるべき事例ではないかと思う。

ジャーナリスト・コンテンツプロデューサー・研究者

敬和学園大学人文学部准教授。IT系スタートアップ・出版社・広告代理店、アニメ事業会社などを経て現職。実務経験を活かしながら、IT・アニメなどのトレンドや社会・経済との関係をビジネスの視点から解き明かす。ASCII.jp・ITmedia・毎日新聞経済プレミアなどに寄稿、連載。デジタルコンテンツ関連の著書多数。法政大学社会学部兼任講師・デジタルハリウッド大学院デジタルコンテンツマネジメント修士(プロデューサーコース)・東京大学大学院情報学環社会情報学修士 http://atsushi-matsumoto.jp/

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