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洗面台に覚せい剤入りポリ袋、麻取が違法捜査か? 裁判所が無罪と判断した理由

前田恒彦元特捜部主任検事
(写真:アフロ)

 9月25日、大阪地裁は、覚せい剤取締法違反で起訴され、捜査や裁判で使用の事実を認め、検察側から懲役3年を求刑されていた男性(57)に対し、無罪判決を言い渡した。なぜか――。

「麻取」とは

 男性に対する捜査は、警察ではなく、近畿厚生局麻薬取締部が行った。メンバーである麻薬取締官は厚生労働省の職員だが、規制薬物の密輸や密売、所持、使用などに対する捜査権限を有しており、捜索や差押え、逮捕、取調べなどもできる。「麻取(まとり)」とか「麻薬Gメン」と呼ばれている。

 一罰百戒的な観点から芸能人をターゲットにした検挙も目立つ。最近でも、コカイン使用の容疑でピエール瀧氏を逮捕したり、大麻の共同所持の容疑でKAT-TUNの元メンバーや交際相手の女優を逮捕したのも、関東信越厚生局の麻取だった。

 ただ、おとり捜査や泳がせ捜査、潜入捜査を行うほか、スパイ(Spy)の頭文字をもじった「エス(S)」と呼ばれる協力者を使うなど、ダーティーな仕事ぶりが裁判で問題になることもある。

 例えば、2017年には、その3年前から近畿厚生局麻薬取締部のエスとして密売人と接触し、麻取に情報提供をしていた男が事情を知らない大阪府警に覚せい剤所持の容疑で逮捕され、大阪地検に起訴された際、「麻取のおとり捜査に協力しただけだ」と主張したことがあった。

 裁判所はこの主張こそ退けたものの、判決の中で麻取が男の覚せい剤取引を助長したなどと述べ、麻取の手法を厳しく非難した。

 また、同じく2017年には、関東信越厚生局の麻薬取締官が逮捕され、有罪判決を受けている。取調べを行わずにねつ造した供述調書を使い、裁判所から令状を取り、別の関係者の通話履歴を差し押さえたほか、警察から覚せい剤密輸の容疑で追われていたエスを逃走させたからだ。

捨てたはずのものが…

 今回の男性は、2017年10月に近畿厚生局麻薬取締部に自宅マンションの捜索を受けた際、洗面台の上に置かれていたポリ袋から微量の覚せい剤が検出されたとして、所持容疑で現行犯逮捕された。

 自宅からは注射器も押収されており、その後の尿鑑定で覚せい剤反応が陽性だったため、男性は11月に使用罪で起訴された。一方、所持罪については不起訴となった。

 男性は覚せい剤の使用を認めていたものの、弁護人は次のとおり麻取による捜査違法の可能性を指摘した。

(1) そもそも男性は、覚せい剤の使用後、覚せい剤が入っていたポリ袋や使用した注射器などをマンションのゴミ置き場に捨てていた。

(2) 洗面台の上から発見したという覚せい剤入りのポリ袋は、麻取が男性に対する捜査の過程で入手したものであり、捜索の際にマンション室内に持ち込み、発見場所をねつ造したものである。

 弁護人は、その主張を裏付けるため、検察側に対してマンション付近の防犯カメラ映像の開示を求めた。しかし、検察側から開示された映像には、男性が捨てたと主張している当日のデータだけが存在しなかった。しかも、検察側はその理由について「言えない」の一点張りだった。

裁判所の判断は?

 そこで、裁判では、男性の逮捕やそれに引き続く採尿といった麻取による一連の捜査が違法なものだったのか、また、違法だとするとその程度はどれくらいのものだったのか、という点が争われた。

 憲法が要請する令状主義の精神を没却するような重大な違法があり、証拠として許容することが将来における違法な捜査を抑制する見地から相当でないと認められる場合には、証拠としての適格性を欠くことになる、というのが最高裁の判例であり、実務の運用だからだ。

 もし尿の鑑定書という客観的な証拠まで違法性を帯びるほどの重大な違法事案だったということになると、男性が覚せい剤を使用したという事実の立証が困難となり、無罪判決が導かれる。

 これについて、裁判所は、2019年7月、麻取による重大な違法捜査の疑いが残るとして、検察側からの尿の鑑定書の取調べ請求を却下した。

 捜索開始直後に麻取が撮影した写真には洗面台の上に置かれていたはずのポリ袋が写っていないし、捜査員が9人もいて本来ならすぐに発見できたはずなのに捜索開始から1時間半後にようやく発見されたという経緯も不自然だという理由からだった。

 一方、検察は、麻取が覚せい剤を持ち込むといった権力犯罪に及ぶはずがなく、その理由もないと述べるとともに、男性の自白があり、男性方から押収された注射器がこの自白の支えになるとして、有罪を主張していた。

 結果は無罪であり、裁判所から一蹴された形となった。

手続の適正さと補強証拠の要請

 この点、男性は覚せい剤の使用を認めているわけで、尿から覚せい剤が検出されたのも動かぬ事実だから、有罪にならないほうがおかしいと思う人もいるのではないか。

 覚せい剤の使用罪に対する求刑は初犯なら懲役1年6か月であり、再犯を重ねるごとに6か月ずつ重くなっていくのが通常だ。求刑が懲役3年ということは同種の前科が複数あるのではないかと思われ、このまま野放しでいいのかという見方もあるだろう。

 しかし、憲法も刑事訴訟法も、自白の偏重を防止するため、自己に不利益な証拠が自白しかなければ有罪とできず、自白を補強する何らかの証拠が必要だという基本的なルールを定めている。

 いくら尿の鑑定書があっても、これを証拠として使うことができない以上、自白以外に有罪とする根拠がないということになるわけだ。

 麻取ではなく警察が捜査した事件ではあるが、2019年7月にも覚せい剤使用の容疑で起訴された男性が東京高裁で無罪となっている。

 警察官が路上で男性に職務質問や所持品検査をした際、その下半身に触れたり下着を脱がせたりしたほか、こうした経緯を伏せた虚偽の捜査報告書で令状請求に及んだ点を重く見て、尿の鑑定書を証拠から排除すべきだとしたからだ。

今後の展開

 今回の無罪判決に対し、近畿厚生局麻薬取締部はメディアの取材に応じず、ダンマリを決め込んでいる。

 大阪地検も、「主張が認められなかったことは遺憾。判決内容を精査し、上級庁とも協議の上、適切に対応する」といった無罪判決時のお決まりのコメントに終始している。

 高裁の判断を仰ぐために控訴することも考えられるが、本音は「どうせまたすぐに覚せい剤に手を出すに違いないから、そのときに検挙し、重く処罰すればよい」といったものではなかろうか。麻取も、しばらくは男性を徹底的にマークし続けることだろう。

 いずれにせよ、検察が麻取に捜査のメスを入れることはないはずだ。「麻取のやり方は違法ではなかった」というこれまでの検察の主張と相容れなくなってしまうからだ。(了)

元特捜部主任検事

1996年の検事任官後、約15年間の現職中、大阪・東京地検特捜部に合計約9年間在籍。ハンナン事件や福島県知事事件、朝鮮総聯ビル詐欺事件、防衛汚職事件、陸山会事件などで主要な被疑者の取調べを担当したほか、西村眞悟弁護士法違反事件、NOVA積立金横領事件、小室哲哉詐欺事件、厚労省虚偽証明書事件などで主任検事を務める。刑事司法に関する解説や主張を独自の視点で発信中。

元特捜部主任検事の被疑者ノート

税込1,100円/月初月無料投稿頻度:月3回程度(不定期)

15年間の現職中、特捜部に所属すること9年。重要供述を引き出す「割り屋」として数々の著名事件で関係者の取調べを担当し、捜査を取りまとめる主任検事を務めた。のみならず、逆に自ら取調べを受け、訴追され、服役し、証人として証言するといった特異な経験もした。証拠改ざん事件による電撃逮捕から5年。当時連日記載していた日誌に基づき、捜査や刑事裁判、拘置所や刑務所の裏の裏を独自の視点でリアルに示す。

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